第9話 丁(てい)家の徐伸

 最後に話し出したのは、大陸は淮河わいがの河口から来た徐伸じよしんという男であった。


 皆と同じように首を深々と垂れたものの、そのまま動きもせずに涙にむせていた。肩を揺らすばかりで、声にならない。昆が心配して肩に手を回すと、ますます咳き込んでしまった。口数も少なく、ほとんど話すこともなかったので、皆の眼は徐伸じょしんに向けられた。


「どうした、もうすぐ故郷に戻れるのだぞ。うれしくはないのか。」


 こんは、徐伸じょしんの顔を覗き込んで、優しく声をかけた。すると、徐伸じょしんの目は、溢れんばかりの涙に包まれた。がっしりと鍛えられた身体からは想像もできない、壮年兵士の目から涙が止まらない。喜びの涙ではなかった。


「われは、故郷に帰りたいわけではない。むしろ、おきてを破って、故郷を飛び出してきた罪人である。淮河わいがに住むという龍神りゅうじんを追って来たが、河口の流れのままに大海に押し出されてしまった。龍神りゅうじんに会うどころか、幾日も海上をさまよったあげくにこのありさまだ。帰るべき場所なく、行くべき天地もない。」


「ならば、その涙は、誰に向かって流されるものであるのか。」


「われ、志、半ばにて魂をくじかれた。わが名は、徐伸じょしんと申すが、今でこそ、このような身なりをしているが、わがじょ氏は、商帝の正妃せいひを出す一門としての名家であった。」


「なんと、正妃家の徐氏と言えば、丁家の徐氏のことでありましようか。」

大陸の情勢に詳しいこんの態度が急に変わった。


「信じてくれとは言わぬが、話だけは聞いてくれ。十五年も前のことだ。わが一族から父、徐華昊じょかこうの妹、婦好ふこうが帝の正妃として迎えられた。帝小乙ていしょういつの子、しょうが太子になった時から正妃は、てい家の一門から出すことが決められていたようだ。婚礼の儀には、一族あげての賑々しきお祝いの列が都の朝歌ちょうかを幾重にも巻いていたことを、今もわれの脳裏にしっかりと収まっている。」


 こんは船を操り、年に二、三度は、大陸との交易を行っている。商帝しょうていの事を耳にする機会も多いので、徐伸じょしんの話が、荒唐無稽こうとうむけいでないことは、直ぐに分かった。徐伸が言う商帝とは、商(殷ともいう)の二十二代帝の武丁のことであり、正妃は、まさに徐家の婦好妃ふこうひである。

 話の通りだとすれば、徐伸じょしんという男は、帝妃ていひ婦好ふこうおいということになる。


「ところが、昨年のことである。わが故郷の城郭じょうかくが、朝廷軍に取り巻かれた。まさか、その将が婦好ふこうで、同族の徐氏の城郭を根絶やしにしようとは夢にも思わなかった。城内の兵糧も底をつき、いよいよ総攻撃の開門直前に、われは、年の近い叔母婦好との交渉を父である城主、徐華昊じょかこうに願い出た。華昊かこうは、「すでにこの期に及んで交渉の余地はない。後は、城門をひらいて総攻撃をかけるのみである。しんは、総攻撃の将となりてじょ氏の名誉を守れ。」とはらを固めていた。われは秘かに幼な馴染の婦好ふこうに単独での交渉を試みた。だが、われの身体は、即座に囚われの身となり、木棒に縛り括られた上、華昊かこう総攻撃の矢面に立たされた。華昊かこうはわが父である。その妹、婦好ふこうは、われを盾にして、向かってくる華昊かこうを交えた。兄妹の熾烈しれつな戦いの生贄となったわれは、わが父の壮絶な死の突撃になすすべもなく、ただ呆然とその戦いを眺めるのみであった。われに向かってくる父の鬼神の涙は、けっして忘れることは出来ない。」


 なんと、丁家筆頭、徐氏滅亡の生々しい光景が、一人の男の口から、事細やかに語られているのである。徐伸じょしんの涙は止まらない。


「次々に失われてゆく一族の命は忘れられようはずもない。わが城郭じょうかくは、たちまちに炎と煙に覆われて、婦好ふこうの旗印が揚がった。翌日、婦好は、われを置きざりにしたまま姿を消した。多くの兵士の命が絶たれたが、華昊かこうに対するせめてもの哀れみの気持ちがあったのか、われは奇跡的に命が救われた。われは父、華昊かこうに命じられるまま、将兵として全うしておれば、父の攻撃に力が入ったであろう。たとえ負け戦であったとしても将としてじょ氏の誇りを失うことはなかったはず。われは、そのことを後ろめたく思ったまま、一族の恨みを背負ってさまよった。徐氏じょしの守り神である龍神りゅうじんに詫びるため、淮河わいがの船旅に出たのだが、いつの間にか、大海に身をさらし、その結果が今のこのありさまである。わが涙は、自分の過ちによって失われた多くの戦士への償いの涙である。一族を裏切った婦好ふこうへの恨み心は消え去ることはない。もはや、われは、自由の身であろうはずもなく、あるべき場所をなくした冥界めいかいの魂の如くである。」


 こんは驚いて、その男の顔を改めて見つめた。避難していた男は、あの帝妃、婦好ふこうに滅ぼされた徐華昊じょかこう嫡男ちゃくなんであった。


 帝武丁ていぶていは幼少の頃、昭と呼ばれたが、太子となった時、東夷の中では最も恐れられていたてい家を味方につけたいと思っていた。てい家は当時、東夷をまとめる力では、帝を上回るとさえ言われていたのである。そこで目を付けたのが正妃であった。


 商の初代帝、天乙てんいつの命により、正妃は、こうおつへいていこうしんじんの十族から、適宜、迎える習わしになっていた。

 だが、近頃では、天乙てんいつの志は薄れ、特に近畿御三家きんきごさんけと言われるこう家、おつ家、こう家から正妃を迎えることが多く、朝廷の役人との癒着ゆちゃくも公然となっていた。

 大邑商だいゆうしょうまつりごともまた、正妃せいひ御三家と官吏かんりの間で進められ、ていは形だけのものとなっていた。


 しょうは幼少の頃より、そのことで自らの命を何度も狙われていたので、彼らとは、けっして口を利くことがなかった。太子になると、しょうはますます御三家を遠ざけるようになったので、筆頭の甲家当主の夏宣陶かせんとうは、なりふり構わず太子の命を狙うようになった。

 この溝は取り除くことはできずに、しょうは正妃をあえて地方の丁家から迎えることを、秘かに心に決めていたのである。


 太子昭たいししょうは、甲家の陰謀に襲われる前に、早々にてい家から正妃を迎え、遠慮がちに小丁(後の武丁)を名乗って丁族の懐に入った。


 てい族の中で力があったのはじょ氏であり、淮河わいがの舟運と沿岸の物流で莫大な蓄財があった。じょ氏の棟梁とうりょう徐華参じょかさんという者であったが、蓄財の全ては、てい家の先祖神に捧げられたものであり、その権限は、巫女丁ふじょていという神司かんながらのつかさが持っていたのである。だが、巫女丁の夫は、徐華参じょかさんであった。


 そこで、太子昭たいししょうは、巫女丁ふじょていの娘で、男勝りの厄介者の姫として煙たがられていた婦好ふこうに白羽の矢を立てたのである。


 正妃のご利益りやくはたちどころに現れた。盛大な婚礼の儀が終わっても、婦好の父、徐華参じょかさんは、事あるごとに巫女丁ふじょていにお伺いを立て、家人を連ねては財貨を運び、帝の前に進み出ると、一族の恭順を誓ったのである。


 ある時、徐家じょけの献上品に大量の青銅剣が秘かに奉納されたので、帝は青銅剣を親衛隊の一人ひとりに持たせて武威ぶいを示した。お陰で、帝は最強の親衛隊に護られることとなり、役人たちは御三家ごさんけ派と婦好ふこう派とに分かれるようになったのである。


 この時、婦好ふこうは十八歳、兄の徐華昊じょかこうは三十五歳であった。華昊かこうの子、徐伸じょしんは、すでに十三歳を迎えており、婦好ふこうとは五歳しか違わなかった。二人は、叔母おばおいの間柄ではあったが、幼友達であった。その婦好ふこうが昨年、徐伸じょしんを裏切り城郭を滅ぼし、徐伸じょしんの父、華昊かこうの命を奪ったのであった。


 四人の遭難者は、それぞれに異なる世界、異なる人生を披露した。櫛彦くしひこは、西の海に出て、初めてひとつ柱島に足を踏み入れたのであるが、この島でこのように異国の人々と出会おうとは夢にも思わなかった。それに、海を渡った隣の国で、徐伸じょしんのような残酷な戦いにあい、生きる力をなくしてしまった若者がいることに、大きな衝撃を受けた。


 それにしても、西方にしかたこん南方之潘みなみかたのはんが属する縄族の守備範囲の広さには改めて驚ろかされた。

 櫛彦くしひこ以上に若き八潮やしおは、徐伸じょしんの話に心を奪われた。さらにこんを見る目も変わった。


― こんの胸の中にある世界に触れてみたい。あの海の向こうの国のことをもっと知りたい。


 八潮やしおは、次々とほとばしる内なる力があふれ出るのであった。とりわけ、こんが日々、関わるという黒潮と大陸の海路のことは、若き海人、八潮やしおの心をとりこにした。

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