第8話 ルイと亀

 すると、もう一人の男が、寄って来て話し出した。

閩聰びんそうには勇気をつけられたよ。あの年で、愚痴や泣き言の一つも聞いたことがなく、自分のこととよりも、われらの事ばかり心配してくれた。」


 浅黒い肌に、丸々とした目の青年である。


「それに、魚採りの名人じゃ。冬の厳しい寒さの中でも海に網を張り、魚に不自由したことはない。命の恩人だ。われも閩聰びんそうと同じく南の島からやってきたが、ここの北風は尋常じゃなく、とても南海の人間が生きる島ではない。だが、閩聰びんそうのお陰で、生き延びることができた。」


 青年は、子安貝のルイと呼ばれていた。ルソン周辺で子安貝を集めては、大陸沿岸の粤潮えつちょうという湊邑みなとむらに持ち込むのを生業なりわいとしていた。

 

 ルイもまた、黒潮を恐れるルソンの海人あまであった。ルソン周辺のサンゴ礁を渡り歩き、子安貝を採取するのが日課であった。子安貝は、粤潮えつちょうの市では貴重な財として取引され、どんなものにも交換できた。

 

 とりわけ金や赤に包まれて輝く子安貝は、高貴な母神の持ち物とされ、帝妃の出産の守りにも欠かせなかった。ルイは、子安貝の目利きであり、宝石のような子安貝だけを集めていた。


 黒潮は、ルソンの沖を堂々と流れる神潮かみしおとして恐れられている。ルイの一族には、決してあの黒き潮に触れてはならないという掟がある。掟を犯した者は、もちろん生きて戻ることはできないという戒めでもあった。

 

 ルイは、まさか、自分がその掟破りになるとは思いもよらなかった。命拾いをしたものの、もはや故郷に戻ることはないと諦めていただけに、改めて南の島々のことを思い浮かべると懐かしく嬉しかった。


 次に立ち上がって、深々と首を垂れたのも、年恰好はルイと同じくらいの若者であった。


「われは、黒潮を潮神うしおかみとして祀る縄族なわぞくかめだ。海をわたる海人あまは、皆々、黒潮を恐れ、寄り付くことはないが、縄族なわぞくは違う。」


 こんの目がかめに注がれた。

「おお、そちは、縄族なわぞくの者であるか。われらは、浮き縄を一つにして語るが、地元のもんは、自分達の事を縄族なわぞくといって誇りを持っていると聞く。わしら奄美あまみは、航海のため、黒潮の潮見しおみを得意としているが、縄族なわぞくは、浮き縄の島々に生きる民を守っている。」


こんさまに、縄族のことをその様に言われると、ありがたき限りであります。」


 かめのおっとりとした話しぶりに、丘を越えてくる潮風が、まるで南海の温かさを運んできたように思える。


「われらノロの一族は古くより、黒潮が入り日の太陽の使いであることを信じております。縄族なわぞくの島々は南北に転々と離れておりますが、日々、上がりの太陽を迎え、入り日の太陽を敬う。明日ある不滅の魂を信じているのです。」


 不滅の魂という言葉に櫛彦くしひこの耳がぴくりと動いた。

「縄族は、不滅の魂を信じているのか。」

「もちろんで御座います。あめつちが滅びることがありましょうや。太陽が失われることがありましょうや。夜空の星々が消えることがありましょうや。浮き縄は、島々は離れていますが、心は一つにてあります。それは、上がり日の太陽と入日の太陽が不滅であるように、縄族の魂もまた不滅であるからです。」


 言い伝えによると、縄族なわぞくは、太陽のあがり日を祈るユタ族、入り日を祈るノロ族の二部族が、共に寄り合って縄族となり、黒潮を守っていると言う。


 その昔、黒潮が浮き縄の島々の間を蛇行したことがあった。黒潮は、島を沈めたり、人々を海にさらったりして、浮き縄の島々を、大いに苦しめた。

 浮き縄の皆々は集まって、来る日も来る日も、上がり日、入り日に祈りを捧げた。すると、海上からユタとノロの二人の海神が現れ、皆々にいった。


「浮き縄の民よ、海に生きる民よ、黒潮と共に生きよ。黒潮を汝らの命となせ。約束が守られるならば、これより七日の後に、ノロが入り日の神となって黒潮の西を守り、ユタが上がり日の神となって東の守りをなそう。皆々の心が清らかであるならば、黒潮は再び、かつての流れを取り戻し、浮き縄の西を、静かに流れるであろう。」


 海神との約束は果された。それ以来、黒潮は浮き縄の島々の西の海を北に流れ、決して浮き縄の東を流れることはなくなった。浮き縄の島々には、黒潮の恵みがもたらされ、豊かな暮らしが出来たと言う。

 

 ノロ族は、ノロ神の子孫であり、ユタ族はユタ神の子孫だと言われている。ノロ族もユタ族も、潮の道をより分けて、島々を渡り歩くことのできる数少ない海神の使いとなった。


「われは、ノロ族の海人あまで、入り日の番人であります。毎日、毎日の入り日が何事もなく無事に水平線の彼方に沈み、明日を迎えられるように祈りを捧げております。」


 かめは、入日の方を向き、両手を合わせて、こうべを垂れた。

「そのために、わしらノロ族は入り日の番人らしく黒潮の最も西端を流れる端潮はししおのことを熟知しておらねばならない。この潮は、祈りの最中であろうがお構いなしに、いつも左回りに黒潮から離れよう離れようとする異端児です。少しでも気を許して、この潮と共に入り日の海に紛れ込んだら、入り日の海獣の餌食となりましょう。後は黄泉の国に行くしか道はなく、後戻りはできません。」


「ならば、黒潮の東端は、ユタ族が番人であるのか。」


「仰せの通りです。この潮もまた、右回りに黒潮から離れようとして、浮き縄の島々に寄って来る。黒潮が浮き縄の島々を横切るようなことがあっては大変です。ユタ族は、上がる太陽の力を得て、黒潮が島々に近づかないように押し戻しております。」


縄族なわぞくのお陰で、われら航海をなす海人あまは、黒潮を真直ぐに北上することが出来ております。」

 こんかめの言葉を補った。


 櫛彦くしひこは、初めて聞くことばかりで、ルイやかめの話に興味が尽きない。


「ノロ族もユタ族も危険な務めであるな。」

「その番人のわれが、不覚にも左回りの潮に流されて、入り日の海に紛れ込みました。西方にしかたの衆に出会わなければ、今頃、命はなかったでありましょう。西方のこんどのには面目もないが、われも縄族の端くれ、知佳島に戻してさえ頂ければ、黒潮の逆潮に沿って南へ下る道は知っております。自分の島へ早く帰りたいものです。」

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