第7話 四人の遭難者

 翌朝、心地よい南風が、かしこねの潮をまたぐように、丘の上に吹き上げた。目を覚ました八潮やしおは、春風を追って高台に目を移した。芽を吹き始めた木々や野草の若葉がさわやかに揺れ、新しい季節が丘を越えてゆく。


 八潮やしおは、柔らかい海風を全身に受けると、両の手をあげて背伸びした。昨夜、久治良くじらから「帰りの船は、ひとりと思え。」という言葉が、まだ耳に残っていた。それと同時に、こんが話したの海を通る精衛えいせいのことが気にかかっていた。


の向こうには、海のような大陸が広がっている」

 

 こんの言葉が八潮の脳裏によみがえってきた。自分も海人うみびとの端くれであるのなら、一度でよいから、こんが見たというの海をわたって、見知らぬ大陸の地を踏んでみたいと、そんなことを考えていた。


 朝の光が茜に輝く水平線に広がると、一気に夜が明けた。昨日の水主かこが数人の迎えの者たちを連れてやってきた。こんは、右手を高々と挙げて振った。

 客人は、櫛彦くしひこを筆頭にして、曽良そら八潮やしおの親子、久治良くじらのほかは水主衆が五人ほどいたが、荷物は全部、迎えの者たちが持ち抱えて運んでくれた。


 丘の上は平らかで、四方の見渡しが良かった。朝日の方向に、静かな潮が流れている。久治良くじらには、それがであることが直ぐに分かった。八潮やしおに向かって、

「見よ、あれがだ。堂々と流れておることよ。」


 すると、傍にいたこんもまた、八潮やしおに諭すように言った。


「よく見ておくことだ。潮の流れは、何本もの筋が重なっているじゃろう。真ん中で、渦を巻きながら進んでいるものがあれば、振り向きもせずに真っすぐ進む潮もある。」

八潮は、こんの指さす方を懸命に追った。


「後ろを振り向いてみよ。遠くに島影が見えよう。あれが、ふたつ島である。この島とかの島の間を流れているのもである。どうだ、それぞれの島にぶつかった潮は、渦を巻いて、逆流しておるぞ。毎日、眺めていても飽きぬくらい、変幻自在である。じっくりと眺め、頭に入れておくことじゃ。」


 わずかの時であったが、八潮やしおは、帰りのことが気になっていたので、こんの一言、一言が身体の一部になって頭の中に入った。


 吹き上げる南風が、潮の香りを運び、最も景色の良いところに屋形はあった。中に入ると、島の住人が中から出てきて、恭しく出迎えた。昨年、帰れずに逗留組となった異国人も中にいた。彼らは、やっと戻れると安心したのか、相好そうごうを崩して喜びの気持ちを隠さなかった。


 屋形の中に入ると、朝餉あさげの準備が整っており、皆で今日、命あることをあめつちの神に感謝していただいた。朝餉あさげを終えると、異国人が集まって、西方にしかたこん櫛彦くしひこにお礼を申したいと言ってきた。


 島に常駐している水主たちは、海路を失った異国人を集めて連れて来た。中のひとりが皆を代表して深々と頭を垂れて礼を尽くした。


「冬が過ぎ、ようやく南風がこの島にもやってきました。待ちに待っていた、お迎えの船がやってまいりました。しかも、西方にしかたかしらこん様だけでなく、瀬戸にします秋津大宮あきつおおみや大戸自之神おおとのじのかみご一行のご同行を得まして、ありがたきことに御座います。」

 余りにも丁寧な挨拶に、櫛彦くしひこ曽良そらも驚いて、身を正した。


「われら四名の者、方々にて浮き縄の海に迷い、命を失わんとするところをお救い頂きました。冬の間をこの島に留め賜いて、生き延びたところでございます。本日は、西方にしかたかしらこん様、大戸自之神おおとのじのかみの御前に、心より御礼を申し上げます。」


 四名の遭難者は、再び、深々と頭を垂れた。こんは、改めて救われた者たち、一人一人の顔を見詰めて、その命を讃えた。


「よくも無事で、この島においでになりました。海神うみかみに守られた人々よ、命あることを喜び讃えたまえ。」


 一同は、みんな腰を下ろすと、自分のことを話し始めた。命を救われたことへのお礼の気持ちを、素直に現したかったのである。


「われは、昨年の夏からここにお世話になっておる閩聰びんそうというもので御座います。一番長くお世話になりました。」

 歳の頃は、五十を超えた初老の海人が口火を切った。


「わしは、びんという一族のもので、長江の南、亶州たんしゅう(現在の台湾)の対岸から来ました。その日は、船を出して沿岸の魚釣りに出かけておりましたが、沖の潮に引き付けられ、あっという間に流されてしまいました。亶州たんしゅうとの間を北に流されたのですが、気が付いた時には、亶州を過ぎて、黒潮に乗っておりました。」


 閩聰は、その時のことを思いだしたのか、たちまち、孤独と恐怖に戦う漁師の顔に変った。


「わしも漁師の端くれ、黒潮のことは、小さいころから聞いてはおりました。「びんたんの間には、恐ろしく速い潮がある。」と耳にタコができるほどに言い聞かされて来たのに、まさか自分がこの年になって、流されようとは思いもしなかったのです。」

 皆々、海の恐さを知るものばかりである。閩聰の気持ちになって聞き入った。


「大海原を三日ほど彷徨いました。運良く、黒潮に沿って小さな島に流れつきました。浮き縄のことは聞いたことがありましたので、島伝いに黒潮に乗り、なんとか命だけは助かったのです。ところが、北に向かうばかりで、帰る海の道が分かりません。」


 閩聰びんそうは、漁師らしい精悍な顔だちで、もの怖じすることもなく、話し始めた。

「三人目の孫が生まれたばかりの時でした。小さな漁師邑りょうしむらでありますが、わしも邑長むらおさであります故に、家を護り、村を護る務めがあります。小さなむらではありますが、年に一度、はまいちがたちます。いちのしきたりを息子に伝えなければと思っていた矢先のことでありました。まだまだ死ぬるわけにはまいりません。」

 

 閩聰びんそうの表情から、並々ならぬ望郷の思いを感じない者はいなかった。

「何とかして帰りたいとの思いで、いくつかの島を渡りましたが、大陸に戻るには、どの島でも「奄美あまみの衆を頼りなさい。」と聞き及び、さらに北に向かって島々を訪ねました。ようやく奄美衆あまみしゅうのいる島に辿り着き、頭の所に行きましたところ、


「西流れに乗って、もっと北の知佳島ちかしまというところまで行きなさい。そこには精衛せいえいという潮が流れているから、その潮に乗れば、故郷の邑に還ることができましょう。近々、船が出るから知佳島ちかしままでは送りましょう。」


といわれまして、あたまの中にあった重いものが全て消えてしまいました。その夜は、家を出てから初めて、何も考えることなく、ぐっすりと寝ることができました。」


 扉の向こうから、が温かい潮風を運んでくると、部屋の中をぐるりと回って外に出た。だが、閩聰には、まだ話すことが残っていた。


「ところが、知佳島ちかしまの手前まで来たのは良かったのですが、いきなり潮が巻き始めたのです。わしの船にはもう一人の奄美の若衆が乗っておりましたが、二人ではどうすることも叶わず、流れのままに海の道を失いました。つくしの島の松呂まつろと言う浜に漂着したのですが、さすがに若い奄美の衆は、ひとつ柱の島のことを知っていたので、なんとか、この島に辿り着いたというわけです。今日の日というものをどれだけ待ち望んだこととでありましょうや。」


 一緒に話しを聞いていた櫛彦くしひこ曽良そら八潮やしおは、自分たちの知らない海の向こうの世界を語る閩聰びんそうから目をそらさずに、耳を傾けていた。


「おお、なんと、亶州たんしゅうの向こうからの客人であるか。海路はるばるのことで、長いこと家人とも別れ別れである、故郷が懐かしかろう。」

 と、こん閩聰びんそうの気持ちをおもんばかった。亶州たんしゃゅうとは、台湾のことであるが、誰しもが知っているわけではない。

 こんも何度かは訪れてはいるが、黒潮の根元にある島であり、奄美衆あまみしゅうの導きがなければ、ここまで来ることは出来ない。櫛彦くしひこは、こん閩聰びんそうとの話が分かるはずもなかったが、黒潮のはるか南には、秋津島あきつしまとは異なる世界があることを感じ取っていた。


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