第5話 海流かしこね

 大戸之自神おおとのじのかみは、兄、比古次神ひこじのかみの許しを得ると、西の海に向かった。


 曽良そら久治良くじらのほかに曽良の子八潮やしおこんが一緒であった。曽良そらは、遠い青春の日々を思い出しながら、櫛彦くしひこ久治良くじらと共にする久々の航海を楽しんだ。大戸之自神おおとのじのかみも、ここでは、櫛彦くしひこである。


 曽良そら以上に、久治良くじらの身体は震えていた。鳴門なると渦潮うずしおを行き来した時のことを思い出しているのか、クジラの身体に戻り、海に潜っては、跳ね上がって櫛彦くしひこ曽良そらの気を引いた。


「おお、久治良くじらが潮を吹いた。あのうねりを越えよと呼びかけているぞ。」


 久治良くじらちゅうに舞い上がり、海中に潜ると、大きな波が寄せてきた。曽良そらはわが子に向かうと、


八潮やしおよ、さあ、あの波を越えよ。」

 咄嗟とっさの判断を迫られた八潮やしおは、向かってくる大きなうねりに視線を据えた。


右舵みぎかじ、いっぱあい。」

 と言うと、右舷うげんぎ手が一斉にかいを取ってぎ始め、押し寄せる波に並行の姿勢を保った。


 次の瞬間、大波は、船をふわりと持ち上げて通り過ぎた。

 八潮やしおはほっとして、胸をなでおろした。久治良くじらがまた、飛び上がろうとしたので、曽良そらはそれを制した。


久治良くじらは、久し振りの航海に気持ちが高ぶっているな。」

 と言って、にんまりと笑った。


 一行は、のんびりとした春の海とたなびく風を存分に楽しみながら、先日、通った弔いの海路を南下した。


こんよ、そちは、南方之潘みなみかたのはんを継いだと聞いているが、はんはいかがしておるのか。」


 櫛彦くしひこは、こんとは初対面であった。

「ありがたき、お言葉に心痛みます。われらが前のはんは、ようと申しますが、今は、南方なみかたおきてに従いて、南の島に戻り、奄美之潘あまみのはんとなられております。」


はんというのは、名前ではなく、かしらの呼び名であったのか。われらは、いつも南方之潘みなみかたのはんと呼んでいたが、本当の名は知らなかった。」

 櫛彦くしひこが尋ねた前のはんとは、瀬戸の海賊カラヒトオと戦い、苦楽を共にした盟友めいゆうであった。三百年の眠りから覚め、秋津大宮あきつおおみやの復活に大いなる貢献をなした南方(みなみかた)のかしらである。


よう殿は、ふるさとに戻られて、はんの元締めである奄美之潘あまみのはんとなられたのであるのか。」

「いかにも、奄美之潘あまみのはんとは、黒潮の民のかしらに御座います。黒潮はわれら一族のいのちであります。南の島々は、黒潮に添って浮き縄の如くに連なっておりますので、浮き縄族とも申します。」

「浮き縄の島々か。面白いことを言うの。」


「ただし、航海ははんの仕事でありますが、島々の民のいのちは、それぞれにノロという巫女があめつちに祈りを捧げております。神と直接話の出来るノロは、はんより位が上であります。」


「ほう、やはり浮き縄もまた、姫神族であるのか。南方なみかたのことは、話には聞いているが、見たことはない。いかなるところであろうな。」


 好奇心の旺盛な櫛彦くしひこは、南方潘なみかたのはんが戻ったという南の島に心を奪われ、次々に質問を重ねた。


 久治良くじら曽良そらと三人でいる時に、久治良くじらが自慢することと言えば、極北きょくほくの海で行われる頭上の極星きわぼちの祀りと南海にいたるくじらの海遊や美しい貝のことである。櫛彦くしひこは、久治良くじらがこのことを話す時はいつも、心を弾ませて聞いていた。


 こん久次良くじらの事は、よく知っているらしい。

瀬戸せとします角杙大神つのくいのおおかみは、元はくじらの神であらせられます。かつては、大神も一年に一度は、極北きょくほくの海に自ら参られ、極星きわぼちを拝し、その帰りの道で、南の海にも出かけられました。南の海においでの時には、われら南方なみかた一族がお迎えを致しておりました。」


角杙大神つのくいのおおかみといえば、曽良そらの叔父の大山祇おおやまつみが姿にあらせられる。クジラの神と南方族なみかたぞくとは、われらが知らない古くからの繋がりがあったのだなあ。」


「われらは、黒潮の民、浮き縄の民でありますが、その中でも奄美は、特別で御座います。」

「なんと、奄美は特別であると言うか。」

奄美あまみは黒潮の分かれ道にございます。われら奄美あまみの海人は、黒潮の潮見しおみを得意としております。われらのことが海見あまみと呼ばれておりますのは、南海では、黒潮のことを「あま」と言うからです。」


「ほう、わしらは、あめつちと言うて、恵みの雨の事をアメとかアマとか言っておる。南方では、海のことをアマと言うのか。いずれも命の源であるな。」


奄美あまみの一族は、誰もが毎日、黒潮を眺め、潮の分かれ道を眺めております。われらの海域は、黒潮がの島々を大きく東に横切る分かれ道にあります。ひとたび、この潮に流されると、とても生きて帰ることはできません。」

「それで、毎日、潮の道を探っていると言うのか。」

「いかにも、さように御座います。夜の海にも出て、星の位置と黒潮を眺めております。潮の道は命の道でございます。」


 奄美の中でも、黒潮が横切るのは、トカラ列島の海域である。黒潮は、与那国から奄美まで、一度も浮き縄の島々を横切ることはしない。真っすぐに北上した黒潮は、ここで、東に大蛇行し始めるのだ。


「わしらは、黒潮あまを見る民であります。朝から晩まで、黒潮の蛇行を眺めております。鯨は潮の流れを身体で熟知しておりますれば、われわれ奄美族にとりまして大切な友、久治良くじらどのは、潮見の師匠であります。鯨を追って海に出ることはしばしばであります。」


「なるほど、海見あまみとはよく言ったものだな。ならば、汝は、海見あまみはんであり、海見あまみこんではないのか。」


「さようでございますが、われは奄美之潘あまみのはんでなく西方之潘にしかたのはんであります。奄美之潘あまみのはんこそは、われらの頭にございます。」


「なるほど、ようがこの度、その奄美之潘あまみのはんとなり、一族の頭となったのであったな。」


「黒潮の流れに沿って、秋津洲あきつしまのお手伝いをなしている奄美衆は、西方にしかた南方みなみかたの部族がおります。黒潮は、トカラの島々を越えると、太陽の「上がり日の海」に出ます。その後は、秋津洲あきつしまの南の海上を滔々と北上致します。阿波あわの島、紀伊きいの沖、阿積あつみの海を伝って、南方衆みなみかたしゅうは、秋津洲あきつしまの様々な湊に入ることができます。この潮に乗れるのは、奄美衆以外に御座いません。」


「なるほど、北の海にアツミ衆あれば、南の海に奄美衆あまみしゅうありか。」


 こんは、初対面の大戸之自神おおとのじのかみであったが、この時とばかりに、奄美あまみを売り込んだ。


「まだまだ、ありますぞ。これから向かう「ひとつ柱島」や「ふたつ柱島」、さらには、われらが拠点にしております知佳島の、そのまた西にしには、大海があります。」


「さすがに航海族であるな。聴いているだけで、夢見心地であるぞ。」


「われは、つくし島の西を流れる黒潮の分流を追って知佳島に本拠を置いております。ここから東に流れると、北に流れるの潮を見定めるのが、わが西方族にしかたぞくの役目でございます。」


 櫛彦くしひこは、こんの一言一言を面白く耳を傾けてはいたが、心の内では、戦場で命を共にした南方潘みなみかたのはんの面影に思いをよせていた。折角の昆の好意を打ち消すつもりはなかったが、単刀直入に聞いて見た。


「それで、奄美之潘あまみのはんとなったようは、今、いかがしておるのか。」


 こんは、櫛彦くしひこの想いがそこにあることに気が付くと、恥ずかしさのあまり、顔を赤らめた。


奄美あまみの頭は、総元締そうもとじめとなられて、全方位に気を配られております。特に、西の海、南の海を開くため、海路かいろを求めて風と潮の道と戦っておられます。われもそのお手伝いをさせて頂いております。」


「西の海、南の海に海路とな。秋津洲あきつしまは、四面を海に囲まれているが、西の海の向こうにも人の住む島があると言うのか。南の海の向こうにも世界があるというのか。」


「はい、西の海の向こうには、大きな陸地が海のように広がっております。」

 櫛彦くしひこは、こんの言葉に大いなる好奇心を抱いたが、それ以上の想像力はなかった。


こんよ、なれはこのあたりの潮には心得があろう。瀬戸の海と比べてどうじゃ。」


瀬戸せとは、流れが速く、島々が密集して気が休まることがございません。の潮は緩やかで、気持ちが落ち着きます。ただし、冬場は豹変しますけどね。」

「確かに、今は、のどかであるよな。それで、昆殿は、この海の番人であるのか。」


「さようにございます。奄美で別れた黒潮は、つくしの島の西を北に向かって流れ、知佳島の辺りから、東西に分かれております。一つは、ひとつ柱島とふたつ柱島の両脇を北東にゆっくりと流れる潮でわれらはと呼んでおります。もう一つは、北上しながらいつきの島に流れ、そこで西に転じての海に向かいます。われは、ようの命を受け知佳島ちかしまに居を構え、このの海に流れる精衛せいえいと言う潮を追っております。」


とは、この響きの神島を通り、隠岐おきの島に通じる潮の事か。」

「いかにも、さようでございます。櫛彦しひこの君が船団を率いて、穴戸あなとの瀬戸をわたり、響きの海に出られて、角鹿つぬがに参られた時の潮に御座います。あの時は、われも南方潘みなみかたはんの配下として同行させていただきました。」


「そうであったな。あの時は、曽良そら久治良くじらも一緒であった。そちも同行していたのか。」


 櫛彦くしひこは彼方に目を移した。海を見ながら風の音を受け、自ら櫂を取った。このように心を許した友と航海しているときが最も幸せであると櫛彦くしひこは思った。

 途中、久治良は、岡に上がると、真水の入った筒を抱えて戻ってきた。また、海に潜っては、飛び上がって喜んでいる。


 しばらくすると、久治良くじらが沖の方から、潮を吹いて声を出した。

「うぉぉぉん、うぉぉぉん。」

 そろそろ、このあたりで、船を回して、に乗れと言う合図である。

 すでに、ひらの島の近くまで、ずいぶんと南下した一行であった。曽良そらは、久次良くじらの合図に気がついたのか、櫛彦くしひこの顔を見た。もちろん、櫛彦くしひこ久治良くじらの合図を待っていた。


右舵みぎかじぃ、いっぱあい。」

 櫛彦くしひこは、天に届けとばかりに声を上げた。右旋回をする船の舳先は、南向きから緩やかに、北を向いて反転し、そのまま進んだ。しばらく、曽良そらは、真昼の極星きわぼちを見つめながら、流れのままに任せた。緩やかな流れは、櫛彦くしひこの船を、次第に北東に向きを変えて運んだ。これまでの沿岸の潮を離れ、沖合のに乗った。

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