第3話 哀しみの豊浦宮

 曽良そらは、比売次ひめじこんを伴って、急ぎ豊浦宮ようらみやに戻り、比古次ひこじには龍神りゅうじんに言われたままのことを報告した。


 しかし、比古次ひこじは、曽良そらの話をうつろな心で聞いていた。それでも、若宮わかみやの身代わりとして曽良そらが持ち帰った乳白の珠をと名付け、豊浦宮とようらの守り神とすることを誓った。


 豊浦宮とようらみやは大いなる悲しみの中にあった。響姫ひびきひめもがりがしめやかに厳かに続けられていた。


 瀬戸の神となった比古次神ひこじのかみの弟、大戸之自おおとのじもまた悲しみに暮れていた。大戸之自おおとのじは、櫛彦くしひこと呼ばれている頃から曽良そらと共にあり、兄弟以上に心が通じ合っていた。


「どうだった、響きの海は。若宮の魂は、無事に海神うみかみの元に届けられたのか。」


 曽良そらは、櫛彦くしひこに問われたのだが、当の櫛彦くしひこほほはげっそりと痩せて、今にも倒れそうなありさまであった。このもがり七日の間、寝ることもなく、響姫びきひめの魂を追い求めていたのであろう。その顔を見ると、曽良そらは自分のことよりも、櫛彦くしひこの身体をいたわった。


「なんの、なんの、われらは、いつもの海の航海よ。若宮わかみやは無事に神島に届けて参った。それよりも、もがりの宮は、哀しみに明け暮れ、豊浦宮とようらみやは悲しみの涙で曇っております。新たの宮は、まるで黄泉の宮でありますぞ。」


大戸之自おおとのじは、曽良そらにそう言われると、はっとわれに返った。

「そうか、われら比古次神ひこじのかみをはじめ、一族全員がうつろな魂のまま、黄泉よみの国を彷徨さまよっている。豊浦宮とようらみやの落成は、新しき秋津洲あきつしまの門出であったはず。このままでは、ここは黄泉よみの国の入り口と言われても仕方なかろう。曽良そらよ、よくぞ気づいてくれた。」


櫛彦くしひこの眼がいつものように輝いた。

曽良そらよ、われは目が覚めた。われらは、高天原を下り、瀬戸の海に入ってからというもの、淡路宮を築き、カラヒトオと戦い、古の秋津大宮を蘇らせた。さらには、兄、豊雲野之神よくもののかみは、穴戸あなどの早瀬を渡り、響きの海に宮を築かれた。今、豊浦とようら若宮わかみやが響きの海神うみかみとなられたのであれば、われらもまた、大いなる西の海に出よと言うことではないか。」


「えっ。」

 曽良そらは櫛彦のあまりの変わりように驚いた。


「われは、これまでに秋津洲を幾度となく巡ってきたが、南方みなみかた族や南風はえ族の海には行ったことがない。葦原あしはら比売次ひめじからは、西の海の話をしばしば聞くことがある。さっそく、兄、比古次神ひこじのかみの許しを得て、ひとつ柱の島やふたつ島を訪ねてみたいものだ。曽良そらよ、付き合ってくれるか。」


 かつて瀬戸にやってきた時、まだ十三歳であった櫛彦くしひこは、すでに四十歳を越えていた。櫛彦くしひこは、乙姫おとひめと結ばれ、大戸之自神おおとのじのかみ大戸之辺神おおとのべのかみとふたり神の名を戴いてからは、八尺瓊勾玉やさかにのまがたまを祀る秋津大宮あきつおおみやを守る日々が続ていた。


 櫛彦くしひこが久しぶりに口にした「曽良よ、付き合ってくれるか」というのは、秋津洲あきつしまを巡る時の合言葉であった。もちろん、久治良くじらも一緒という意味である。久々の航海に目を輝かせている櫛彦の姿があった。


「ありがたき言葉、心待ちにしておりました。わがアツミ一族は、神津島を拠点にしながらも、宇都志うつしの一族には代々にわたってお仕え申して参りました。アツミの石津見いしつみは、科野しなのの山中に安曇野あつみのを開きました。さらに、祖父アツミの綿津見(わたつみ)は、瀬戸に入り、阿波あわ大御島おおみしま穴戸あなと豊浦とようらの神々とは、いつも心を一つにしてまいりました。」


「そうであったな。アツミ一族には、代々にわたって感謝いたしておるぞ。」


櫛彦くしひこの君、いや大戸之自神おおとのじのかみとは、わが一族の命果てるまで一緒にございます。それにわが子、八潮もやがて十八になります。すでに、われらが最初に淡路の島に上陸したころの年を越えております。ひとつ柱の島は、われも初めてのこと、是非にも連れて参りたいと思うております。」


 櫛彦くしひこは、曽良そらの言葉で、かつての若き日の思いに心が揺り動かされた。


「覚えていよう、あの淡路の島、ゆずり葉山にはよく登った。あの島は、そなたの祖父、綿津見わたつみが、この瀬戸に初めて宮柱を築いた島であったな。鳴門の渦潮を渡り久治良くじらと出会った場所でもあった。」


櫛彦くしひこの脳裏には、次々と幼き日の思いが蘇った。

八潮やしおは、もうそんな歳になるか。新しき豊浦宮とようらには、若き力と希望が必要である。是非にも、連れて参るように。」


落ち込んだ櫛彦くしひこの気持ちを曽良そらは、ひとつひとつ、がしていった。


「それと、南方潘みなみかたのはんのことでございます。」

南方潘みなみかたのはんと言えば、あのカラヒトオとの海戦で、秋津大宮を守った三百年の英傑のことであるか。」


「いかにも、そのはんのことでございます。奴らは、一族の世継ぎを、血筋ではなく、航海の技と海の絆を最も大切にする者を選びます。あの英雄潘の後を継いだのは、あめのひとつ柱の島のさらに西の海ある知佳島ちかしまかしら南方昆みなみかたのこんと言う海人であります。」


「ほう、南方みなみかたといえば、瀬戸、小豆島(あずきしま)のサホ姫の故郷ではないか。秋津洲八族の一つである。新しい頭は、こんというのか。」


櫛彦は、正気が戻ったようで、人の話に耳を澄ましている。

こんは、不思議な魅力を持っております。はんに似て、南方特有の航海術に長け、黒潮に祈りを捧げ、大海を渡る一族の絆を最も大切にしております。」

「そちら、綿津見族わたつみぞくと同じではないか。」


「確かに、海の航海を操るところは、同じでありますが、それだけではありません。あの太古の海底大爆発によって、漂流の民となった者たちの子孫です。奴らの周りには、海の彼方の見知らぬ異人がいつも一緒にいるのです。昆の心の中には、われらとは全く違った世界があると思っております。団結の強い一族をなし、遥か南の海人との交流があります。昆とは戦いのない心安らかな折に、一緒に海に出てみたいと思っておりました。」


 櫛彦くしひこは、せきが切れたように話し出した曽良そらを見て、目の奥で笑いをこらえながら、すました表情を取り戻した。


「なんだ、すでに準備は出来ているようだな。ならば早速、豊浦宮とようらみや比古次神ひこじのかみに許しを得にまいろう。豊浦宮とようらみやの希望は西の海、南の海にあるはずだ。」


といって、立ち上がると比古次神こじのかみの元へ向かった。

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