第2話 響きの海神

 葦原あしはらの姫神タツルは、神籬ひもろぎ伴船ともぶねとして赤と黒の二隻をつけた。これは、響きの海に伝わる弔いの習わしであった。


 神籬船ひもろぎぶねには曽良そら八潮やしお親子、赤の船には比売次ひめじ、黒の船には南方昆みなみかたのこんが乗った。南方昆みなみかたのこんとは、比売次ひめじの盟友であり、カラヒトオと戦った姫島の戦士、南方潘みなみかたはんの後継者である。いずれも航海の技に優れ、潮見しおみの達人である。


 湊を後にした神籬船ひもろぎぶねは、しばらく手漕ぎを続けて沖に出た。曽良そら比売次ひめじこんも潮目の変化を見定めるため、全身の神経を海面に走らせた。


 神島かみしまは、豊浦宮とようらみや磐座いわくらからは、真西に位置する入り日の島である。周りに島がなく、目の利くものなら、どこから見てもすぐに神島と分かる。だが、目に見えるがまま、真っすぐに行けるわけではない。潮に乗らねば渡れないのだ。


 一行は、まず陸地に沿って南西に流れる潮に載った。葦原あしはらの湊から見ると、神島かみしまは、遥か北西の孤島である。ひびきの海は、いつも南から流れてくる暖かい潮が北東に流れている。神島に渡るには、この北向きの潮を越えなければならない。

 ぼやぼやしていると、船は北東に流され、豊浦宮とようらのみやに戻されるどころか、そのまま隠岐おきの島まで流されてしまう。この北向きの潮を渡るには、早すぎず、遅すぎずの頃合いが大切なのだ。まずは、沖合の潮を見ながら、沿岸を南下しなければならない。


 曽良そらは真昼の極星きわぼちを見た。青々とした虚空みそらのその向こうに天津御虚空あまつみそらがあると曽良はいう。綿津見わたつみ爺に習った。


極星きわぼちを見たければ、天津御虚空あまつみそらを見るがいい。」

と、指を差して息子の八潮に諭した。


 その極星きわぼちを見つめながら曽良そらは、南からくる暖かい潮を探した。このあたりの海人たちは、この潮のことを「かしこね」と呼んでいる。先祖の知恵という意味らしい。

 曽良そらは、「かしこね」のことをこんに教わった。曽良そらは、沖を流れる「かしこね」がどこまで陸地に迫っているかを探っていたのである。


 こんの船から黄色の旗が揚がった。

「かしこねが近くに迫っている。これ以上、沖に出てはならぬ。陸地に沿ってそのまま進め。」

 という合図である。神籬船ひもろぎふねと二隻の伴船ともふねは、「かしこね」とは逆方向の南西に向かって漕ぎ進んだ。かしこねが陸地近くに張り出すと、遠回りではあるが、末路まつろのあたりまで南下しなければならない。そこから、「かしこね」の本流に乗って、再び、戻るのである。


 幸いにも嵐に会うこともなく、一行は進路を大きく北に向けて反転させた。二日目の太陽が南の空に差しかかった頃、遠くに響きの神島かみしまが見えた。


「あれが神島だ。響きの孤島とはよく言ったものだ。豊浦宮ようらみや遠賀葦原おかのあしはら、ひとつ柱の島(壱岐)、ふたつ島(対馬)の丁度、真ん中である。」

曽良は、島を眺めながら極星きわぼちに向かい、あめつちの位置を確認した。


 一行は、神島を見上げるほどに近づいた。波打ち際は、そそり立つ崖に覆われ、岩場に打ち突ける波は、白く濁る泡となっては、沖に消えていく。風も波も強くて寄り付けない。海が落ち着くのを待つよりほかはなかった。


 曽良そらは、太陽が赤くあめつちを染めながら、傾いていく姿を眺めていた。もう半日近く、神島かみしまのまわりを漂っていた。太陽は水平線に近づくにつれて日射しを弱め、赤味を増しては、照り返してまぶしくなった。


 茜色あかねいろの空気が空と海と神籬船ひもろぎふねを包み込んだ時である。神島かみしまの海にいくつもの渦が巻き、渦潮は、赤き飛沫しぶきを上げて、神籬船を取り巻いた。突然、比売次ひめじが張り裂けんばかりの声を上げて叫んだ。

「これより、響きの海、海神の世界に入る。みなみな、心の迷いを祓いて、海神に身を任せよ。」


 その時であった。三隻の水主衆達かこしゅうたちは、驚いて目をむいたが、目の前に現れた、真っ赤に色付く怪しき渦潮を冷静に見つめていた。それぞれの水主頭は、渦と渦の間に出来た細い通り道に沿って、かいを握って操った。


 三隻の船は、お互いに遠ざかり、離れ離れとなって波間の陰に姿を消した。曽良そらの船には、神籬ひもろぎの中に若宮の木箱がある。八潮やしおは、咄嗟とっさに、若宮の箱をひもでくくり付け、自分の身体に巻いた。


「響きの海神うみかみが現われたか。」

曽良そら神籬ひもろぎに向かって声を出した。


 いくつもの渦が神籬船もろぎふねを取り巻いていた。曽良そらは流れに巻き込まれないように、水主衆と心を一つにして渦を避けた。八潮やしおは若宮の木箱をわが命であるかのように両腕の中に抱きかかえた。


 ようやくに難をのがれて神島の沖に出たのだが、息つく暇もなく、そこは、島ごと海底に吸い込まれるのではないかと思えるほど、巨大な渦潮うずしおがごうごうと恐ろしい音を立てながら、うごめいていた。


 神籬船ひもろぎふねは、けるいとまもなく巨大な渦の流れに巻き込まれてしまった。もはやあらがうことは出来ない。水主衆かこしゅうかいを海面から上げ、全員が船端にしがみついた。他の二隻の船も同じように、海の藻屑もくずとなって渦の中で翻弄ほんろうされている。


「いよいよ、海神のお出ましか。比売次ひめじは身を任せよと言ったが、手荒い出迎えであることよ。みなみな、耐えてくれよ。」

 曽良そらは天を仰ぐと、神籬ひもろぎに掛けられた御幣みぬさを引き抜き、それを海中に投げて大声で叫んだ。


「響きの海神うみかみに申す。わが名は綿津見わたつみ曽良そら宇都志雲野之比古次神うつしくもののひこじのかみに成り代わり、豊浦宮とようらみや若宮わかみやをお連れ申した。どうか心穏やかに、若宮わかみや御魂みたまをお納め頂き、海神みかみとしてお祀り下されますようお願い申す。」


 すると、真っ赤な渦の中から、白い飛沫しぶきをあげながら龍神りゅうじんが現われ、天を蔽う茜雲あかねぐもに向かって真っすぐに昇った。龍神りゅうじんは、雲の上をひと巡りすると再び、天上から勢いよく下りてきて、今度は海に潜り、とぐろを巻く巨大な渦となった。海上は、真っ赤な飛沫しぶきが色鮮やかに変化へんげして舞い散った。


 八潮やしおは、若宮わかみやの木箱を両腕で抱え、荒波に耐え、龍神りゅうじんの行方を探った。入り日の赤光と七色の飛沫しぶきを浴びた龍神りゅうじんは、神籬ひもろぎの前に立ち上がると、龍牙りゅうがを開き、紫舌しぜつを伸ばした。


豊浦宮とようらみや曽良そらとその子八潮やしおに申す。よくぞここまで来てくれた。豊浦宮とようらみや若宮わかみやの魂は預かった。時が来たるまでは、われが若宮わかみやの守護となってお守りいたそう。」

 龍神りゅうじんに飲み込まれんばかりの曽良そら八潮やしおは、余りにも温かみのある声に、緊張した身体が一気に緩んだ。


曽良そらよ、これより神籬ひもろぎを解き、若宮かみやの木箱をあかねの渦に流し、わがふところに送り給え。そして新しき豊浦の宮に戻り、この白き珠を若宮わかみやとして祀るように、宇都志雲野之比古次神うつしくもののひこじのかみに申し伝えよ。」


 曽良そらは、海神うみかみに言われるまま、神籬ひもろぎの縄をほどくと、八潮やしおが胸に抱える木箱を手に取ると、今にも吸い込まれそうな轟音ごうおんの中に若宮の魂を委ねた。


 若宮の木箱は、神籬船ひもろぎふねを離れると、勢いよく流れの中に吸い込まれ、海の底深くに姿を消した。神籬ひもろぎの棚には、龍神りゅうじんが残した乳白の珠が芳香を放ち夕日に映えていた。


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