見えないひと

私は見えない。

そう感じるんだ。


たとえば,朝高校に着いたとき。

誰とも声を交わさないまま,下駄箱で靴を履き替える。

そのまま廊下をすり抜けて,席に向かうとクラスの誰かが陣取っている。

用もないのにトイレに方向転換して,しばらく時間を潰す。


ああ,喉が張り付いて動かないやって。

そんな日ばかり。



その日の3限目は,英語のグループワークだった。

最悪だと思った。

ペアワークなら,席順で相手が決まるからまだマシというもの。けれど,グループを作って,運良く余らなかったとしても問題はそこから先だ。


発言権がいったい私にあるかどうか。


考えるだけで憂うつ。

こんな些細なことで頭痛を覚える私も情けない。


こんな思いばかり繰り返し,繰り返し。

もういや。


私は,相も変わらず渇いて張り付いた喉の奥から,声を絞り出したんだ。

今日はじめて。


「体調が悪いので,早退させてください」

って。


言ったあと,お許しが出たあと,学校を出たあと。

なんて爽快感。

足の先から浮き上がりそうな感じ。


ここから出られるのがそんなに嬉しいのか。

ばかなんじゃないのか。


もうひとりの冷静な私が脳の奥で何か言っているけれど,今の私は文字通り無敵だった。



だから,たぶんあんなことができた。



飲み物を買うためにコンビニに立ち寄る。

体調はすこぶるよくて,気分もすこぶるよくて。いつものお茶じゃなくて,新製品に手を伸ばしたりなんかして。


店先に出ると,陽が輝いていた。

まぶしいや。

今日は暑い。

その場でジュースを開け,飲むことにする。


ピンク色をした炭酸飲料は,ぱちぱち散って,乾涸びた喉をこじ開けた。


そんな折,ガランっという音とともに,強いコーヒーの匂いが広がった。

振り向くと,同じく店先にいたサラリーマンが,コーヒー缶を投げ捨てたらしかった。

彼は行ってしまおうとするのに,不自然に匂いが残るので,まさかと思って身の回りを確かめる。


通学用にしていたお気に入りのトートバッグに,茶色い染みができていた。


”見えない”私がいちばん恐れていること。

他人から”見えない”こと。”見えない”ふりをされること。

「あの子誰だっけ」って言われること。


でも。


私くらい,私を見てあげなきゃ。

私くらい,私のために怒ってあげられなきゃ。


誰が私を見ようとしてくれるというの。


私を見ないまま,背中を見せるサラリーマンを呼び止めた。


気分の高揚がもたらした,束の間の行動力だったかもしれない。

けれど,その時の私には最善で当然の行動だった。


「あなたが投げた缶から,中身が飛び散ったんです」


潤った喉から,かすれもしない声が出せた。

鞄を押し出し,わかりやすいアピールまでしてみる。


物を投げ捨てるような人だ。逆上されたらどうしよう?

言ってしまってから,あれこれと考えが頭を巡らす。

冷静な私が笑い出す。


でも,思うのとは裏腹に,彼は丁寧な対応をしてくれた。

いくつも年下であろう私に。

”見えない”私に。




その夜は,なんだか眠れなかった。

ふしぎな高揚感は,未だ続いていた。

ベッドの中で,目を閉じては開けてを何度もやっている。

いい加減飽きてきたんだけど。

ぐるぐる回る思考が,私を眠らせてくれない。

枕元のスマホを手に取って,電源ボタンを押すと,3時前だと教えてくれる。


今日も学校はあるし,もうサボる気もないけれど,たぶん今夜は眠れない。

微妙に幸せなせいで。


慣れない1日を過ごしたついでだ。

慣れないことをしてみよう。

今日はとことん夜ふかしする。朝起きられなくても知らないもん。


手始めに,たまに使うラジオ配信アプリを立ち上げる。

ちょうど始まった枠があったので,それを開いてみた。


『もううんざりしてませんか。

 疲れちゃってませんか。』


そんなことを問う,宇宙人コウというDJ。


うんざりしている。

たぶん,疲れてもいる。


彼の温い声は,私の冷めやらぬ頭の中にすうっと入ってきた。


彼の言葉に従って,呼吸法を試してみる。

眠る気はさらさらないんだけど,ちょっとやってみたくて。


嫌なこと。怖いこと。

全部ぜんぶ,息に乗せて吐き出した。

あの缶コーヒーみたいに,捨ててしまえばいいんだ。


ゆっくり呼吸して,気がついたら睡魔がそこまで迫ってきていた。

おかしいな。あんなに眠れる気がしなかったのに。


頭の掃除でもできたんだろうか。


『それでは、またいつかの月曜日、午前3時に。

 おじゃましました。』


ぼうっとその締め台詞を聞きながら,思った。

みじか。

まだ10分かそこらしか経っていないのではないだろうか。


でもたったそれだけの時間で,私を落ち着かせてくれる彼は偉大にも思える。


私,今日をがんばってみようって,少しだけ思ってる。

クリアな頭で,あのサラリーマンの必死な形相を思い浮かべると,ちょっとだけ自信が湧いてくる,気がしている。


私は私を主張してもいいんだっていう自信。


ありがとね,どこかの誰か。コウさんも。


またいつかの月曜日を,待ってみることにする。

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壊れかけのAM3:00 夏永遊楽 @yura_hassenka

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