疲れてるひと
向いてない。向いてない。
最近,頭の中はそればかりだ。
社会人3年目,営業職。
人並みに,まともに生きてきたと思う。
中学,高校,大学とスポーツをやって,中堅私立大学を卒業後,新卒で職を得た。
そこまでは良かった。なんとなく思い描いていた,無難で幸せな将来像。
俺の将来像は,レールが途切れた先を想定していなかった。
当たり前に用意されたレールは,青少年しか乗せてくれない。
人生における,まあまあ早い段階でその終点を迎えることを,俺は知らなかったのだ。
覚悟がなかろうと,希望がなかろうと,ぽん,と投げ出されたら,たまたま掴んだ命綱に縋りつくしかない。
それが,社会で生きるということなんだろう?
それなりに上手くやれると思っていた仕事。
それなりにやりがいを感じている仕事。
ただ,日々を重ねると同時に,心の削りかすを積もらせていく仕事だ。
それはもう,ごりごりと。
容赦なく老いる。生きるために心をすり減らす。
大人ってたいへんだあ。
本当はもっといろいろ,細かく,あるはずの複雑な感情をひっくるめて,端的に「向いてない」と表現するしかできないでいる。
外回りのついでに,休憩をとることにした。
こう日差しが強いと,喉が渇く。数年前まで屋外で運動していたのを疑いたくなるほど,今は日光に焼かれるのが辛い。
目に入ったコンビニで缶コーヒーを買い,そのまま店先で飲むことにする。
もう,一歩も動きたくない。
そんな邪念が過ぎった瞬間,小さく頭を振った。
この考えは危険信号だ。とらわれると,本当に動けなくなる。
その時,急な刺激に,心臓がばくんと波打った。ポケットの中で携帯が震えただけだが,このところいつもこうだ。
応答し,切る。脇が汗ばんでいた。
さて,そろそろ行かねば___
缶を空け,備え付けのゴミ箱に投げ入れる。踵を返した。
「あの」
女性の声に呼び止められ,振り返る。制服のブレザーを着た女の子だった。平日の日中に,高校生が何をしているんだろうか。
「はい?」
彼女は俯き気味で,不自然に開けた口をわななかせていた。こちらから何か言おうかと思うほど,たっぷり間をとって彼女は言った。
「あなたが投げた缶から,中身が飛び散ったんです」
控えめに押し出された鞄。よく見てみればたしかに,肩に掛けたトートバッグの,白いキャンバス地に茶色い染みが散っていた。
まずい,やってしまった。
「すみません!本当にすみません,クリーニング代を,」
「いえ,あの,いいんです,そこまでしていただかなくても。でも……気をつけてください」
一度は俺も食い下がったが,彼女は聞き入れなかった。だんだん焦りを見せる彼女は,一刻も早く,この場を立ち去りたがっているように見えた。
すみません,と軽く頭を下げ,とうとう彼女は俺の横をすり抜けて行ってしまった。
そうだよな。
缶を投げれば,残った液体が飛び散る。そんな当然のことを想像しなかったのはなぜだろう。
知っているのに,さっきはそんなこと頭になかった。
そもそも,外でゴミを投げ捨てるような奴だったか,俺は。
妙な引っかかりを感じたまま,明々と照明が点いたアパートに帰宅する。
帰りに買ったコンビニ弁当を広げたところで,ふと思い出した。
俺は,料理が趣味じゃなかったか。
もうずいぶん,ろくに自炊なんかしていない気がする。昨日何を食べたかも思い出せない。それくらい,食に関心を払っていない。
そういえば,自分のためだけに飯を作るのは不毛な気がしてやめたんだ。少しでも長く寝たかったし,生活に手間をかける意味もないと思った。
バスタブも,いつから使っていないんだろう。
……だって忙しかったんだ。
意味もないことをぐるぐる考えては,明日を迎える。
土曜日は丸々寝て潰した。
日曜日は昼過ぎに起き出して,台所に立ってみた。立ってみただけでどうにもできず,結局カップ麺を啜った。
なんだか身体がだるくて,腹が減るまで座ってゲームをすることにした。機械的に進めていくだけの遊びに,楽しさなんかあるわけがなかった。
そして腹は減らなかった。
プライベート用携帯の通知がたまっているのに気づいているが,どうする気にもなれない。
面倒だったが,何とかシャワーは浴びた。さっぱりしない風呂ほど不毛なものもないかもしれない。
どうにか夜を迎え,淡い期待を胸に,早めに床に就いた。
悩ましいのはここからだ。
日曜日はいつも,朝方まで浅い眠りを繰り返す。ひどいときは1、2時間で目が覚める。
この日も例に漏れず,月曜午前には寝付けなくなってしまった。今日仕事なのに……また寝不足か。
こうなるともうダメだ。
だが,テレビなんか点けたらいよいよ寝られなくなりそうだ。
以前,同僚に勧められてインストールだけしてあったアプリを立ち上げる。個人が自由にラジオ番組を立ち上げて配信できるというアプリ。
この時間ともなると対して枠もないが、適当に開いてみた。
そこでは,眠れないならゆっくりお風呂に入って、と男が言う。内容はタイムリーだったが思ったより尺が短く、拍子抜けした。
…どうせすぐには寝られない。風呂を沸かして、寝直してもいいだろう。軽く浴槽をシャワーで流して,スイッチを入れる。
久々の湯の温かさについうとうとし、気づけば30分以上浸かっていた。
危ない。でも。
「そうか、俺,ちゃんと眠かったんだな……」
なんだか身体が重く、すぐにでも寝たい。ラジオの配信者の意図とはたぶん違うが,効果はてきめんだったようだ。
結局、そこから中途覚醒はすることなく,朝家を出るギリギリまで寝てしまった。
眠る時間は短かったものの,布団に入ってからスムーズに眠れるというのはいいものだ。
そんな当たり前のことさえ,俺はできなくなっていたらしい。
ここらで生活を建て直したい。
仕事は変わらずきついし,難しいかもしれないが。
とりあえず今日は、帰ったらまた湯を張ろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます