エピローグ

 遠くから音が聞こえる。甲高い電子音がさっきから反復している。だんだんと近づいてきてついに陸斗は無視できなくなる。時刻を見ると、八時三十分。

「やば!」

 陸斗は自室を出てリビングに向かう。すでに沙依とお母さんが席に座っていた。

「遅いわよ」お母さんは陸斗に言ったが、顔は笑っていた。「今呼びに行こうとしてたのよ」

「ごめんごめん」

 陸斗は席に着く。テーブルには隣の沙依と同じトーストとスクランブルエッグが並んでいた

「キャンプの疲れ?」沙依が訊ねてきた。

「たぶん」陸斗は頭を掻いた。

 久しぶりのキャンプ場は疲れた。長く学校と塾しか行っていなかったから、自然の刺激は強すぎたのだ。それでもお父さんが好きだった場所に家族全員でようやく来られたことを嬉しく思う。お母さんと沙依と同じテントの下で横になれる日をどれほど待ち望んでいたことだろう。

「そろそろ行かなきゃ」

 陸斗は誰よりも遅く起きて、誰よりも早く朝食を終えた。

「えっ、一緒に行かないの」沙依が驚く。

「いいよ。ちょっと恥ずかしいし。どうせまた会えるじゃん」

「りょーかい。じゃあまたあとで」沙依が言った。

 手早く身支度を整え、外に出た。最近、沙依と外出する機会が増えた。それはそれでいいのだけれど、やっぱり学校の人とかの目線を気にしてしまって恥ずかしい。

 お母さんも沙依も変わった。競争はなくなって平和な毎日が愛おしい。こんな日が来るなんて思わなかった。

 陸斗はふいに込みあげた涙を拭った。

 ――いけない。また、泣くなって言われてしまう。約束したのに。

病院でお母さんに思いをぶつけてからしばらく経ったある日、お母さんはおばあちゃんと二人だけで会った。お母さんはそのことについて多くは語らなかった。虐待を行っていた事実は変わらないし、お母さんは今までの行いを許すつもりはない。それは子供の頃の自分に嘘を吐くことになるから。と――そんなやり取りだけをお母さんは教えてくれた。

 二人の真の和解はまだ難しいだろう。おばあちゃんは贖罪の気持ちを持っているけれど、それをまとめて引き受けられるほどお母さんの気持ちに整理はついていない。

 でも、と思う。この話をしているときのお母さんはどこか晴れやかだった。ずっと抱えていた名称不明の感情がようやく特定できたようだった。数十年経って、二人は少しずつ歩み寄ることができたのだ。その進歩を肯定的に捉えたいと思う。

「よっ」

 お母さんのことを考えていると、後ろから肩を叩かれる。頌大だった。

「あれ、今日はツイッター見てないのか」

「止めたよ。いいことないし」

「それがいい」頌大は笑った。

 幽子が消えたあと、学校で陸斗は頌大に謝罪した。自分の言葉で頌大の相談に乗らなかったこと。約束を破って裏切ったこと。そして嘘を吐いたこと。最後に最も重要な、幽子という幽霊がいて、その力を借りたことを教えた。どんな反応が来るか緊張した。ひょっとしたらさっきまでの謝罪なんて無意味になるくらいの失敗かとも思った。

 しかし頌大は驚かなかった。なんと頌大は陸斗のツイートから幽子の存在に気づいていたのだ。どうやら躍起になってツイッターで幽子の手がかりを探していたあたりからバレていたらしい。

 本当のことを教えてくれて嬉しい、と頌大は言った。良い意味でリクを変えたのはその子だったんだな。そう言ってくれて心から救われた。それから頌大の方も謝った。陸斗に粘着して心ない言葉をぶつけてしまった。ごめん、と。

 そうやって仲直りした。けれどもとの仲に戻ったかというとそうではない。なぜなら、もとの関係は隠し事だらけだったから、嘘や隠し事をなくしたゼロからの友だちになろうと、気持ちを伝えた。つまりゼロからのスタートになる。時間はかかるけれど、前よりずっと固くて切れない、本物の関係を目指して僕たちは進んでいかなければならない。

「それにしても鈴木さんと連絡を取り合っているなんて驚いたぞ。リク、女子の友だちいたんだな」

「まあね、頌大にも紹介しようか」

 陸斗が得意気に言うと、頌大が軽く頭を小突いた。

 これから波蒼のいる病院に向かう、そう思うと緊張する。

 卒業式の日、波蒼は卒業生代表としてスピーチした。全校生徒の前。壇上で型どおりの演説を終えたあと、波蒼はこの学校で広まっている、自殺した男の子の幽霊の噂について述べた。プログラムになかったことで教師は皆一様に驚いていた。教師の制止をよそに波蒼は続けた。

 すなわち、その噂に出てくる男の子はこの校舎から飛び降りたけれど死んではいないこと。成績を苦にしたのではなくいじめを苦にしたこと。そして、彼の名前は鈴木葵で、なぜそんなことを知っているのかというと、その葵が自分の兄であるということ。ザワつく生徒の前でさらに波蒼は、今後この噂をしないで欲しいと言う。さらに鈴木葵は自分にとって最高の兄だと宣言してスピーチを締めくくった。誰もなにも言えず、水を打ったように体育館は静かになり、波蒼が壇上から降りる上履きの音だけがコツリと鳴った。

「あれは、格好いいよなぁ」頌大が言った。

「頌大、ひょっとして……」

「違うって。鈴木さんじゃなくて、話してる内容のことだよ」頌大は慌てて否定した。

 病院に着くと、鉄面皮の波蒼が出迎えた。

「二人とも遅い」

「ごめん。リクが寝坊して」頌大が謝った。

「もう待ってるから」波蒼は言った。「こっち、ついてきて」

 陸斗は波蒼のあとに続く。

 初めて来る大きな病院だった。国立の小児対象の医療施設は難しい病気を取り扱っていた。陸斗がエレベーターに乗る前のわずかな時間に十人もの白衣を着たスタッフとすれ違った。この誰もが人の命を救っている――陸斗は自分の夢と照らし合わせた。

 陸斗の新たな夢。それは恵美がしきりに言っていた公務員ではなく、カウンセラーだった。親と向き合えない子供を支援したいと思って、その夢のために高校でも勉強を続けたいと思っている。沙依は進学しなかった。画家の夢を叶えるためだ。そこまではお母さんも頷いたけれど、さすがに旅をすると言われたときはちょっと揉めた。いくら直感や美意識を磨くため全国の美術館を回ると言われても、沙依は女の子だ。親ならば身の危険を心配するだろう。しかし結局、お母さんは押し負けて、沙依は今も旅の準備をしている。

「さ、着いたわよ」

 波蒼が示した病室の前で、陸斗の緊張は最高に達した。

 幽子が消えたあと波蒼の携帯が鳴った。陸斗を驚かせたのはそれが病院からの電話だったからだ。波蒼は言った。お兄ちゃんが戻ってきたって――。

 幽子は神様と転生の約束を結んで、自分の名前も死の真相も究明した。だから転生できる。けれど、どんな姿にとは神様は言わなかった。トカゲかもしれないし、海外に産まれることもあり得た。でも神様はしなかった。代わりに、もう一度鈴木葵の姿を与えた。もう一度生き直すというかたちで、植物状態にあった体を蘇らせたのだった。

 これまで幽子はリハビリと経過観察で入院していた。そして今日は幽子の退院の日。一年もの間、この日が来るのを待っていた。

「お兄ちゃん、入るよ」

 波蒼が病室のドアを開けて、頌大が先にずうずうしく入っていく。陸斗はなかなか入れない。まだ心の準備ができていない。この先に幽子がいるなんていまだに信じられない。

 陸斗は思った。恵美と向き合えたのも、自分自身と向き合えたのもすべては幽子のおかげ。幽子がいたから、自分は変われた。だから、これから僕自身も生き直さなければならない。僕は僕を生きる。失われた時間をこれから少しずつ取り戻す。好きに生きる。たくましく生きる。どんな言葉でも構わないけど、どしゃぶりでも生きていかなければならない。死ぬなんて簡単に言っちゃダメなんだ。幽子はきっと許してくれないだろうから。

「陸斗、どうしたの? 入ろうよ」

 陸斗は遅れてやって来た沙依と一緒に病室に入った。

「開けて」

 波蒼がベッドを囲ったカーテンを示す。この向こうに幽子がいる。陸斗は感動で動けない。しかし覚悟を決め、ついに、カーテンを開けるとなかは空っぽ。

「は?」

 陸斗が拍子抜けした声を出すと、頌大が笑った。沙依もにやにやと笑っていて、波蒼だって穏やかな表情をしていた。

 沙依が姉らしくハンカチを差し出してくる。

 ――なるほど。そういうわけかよ。

 サプライズなんて、泣くかよ。もう高校生になるんだから泣くわけない。まして人前なんかで。皆してこんなくさい演出しやがって。でも――。

 幽子と過ごした日々が勢いよく流れ込む。幽子はもう一人じゃない。沙依に頌大に波蒼、多くの人に見守られている。孤独な人間なんかじゃない。

「やぁ、泣き虫くん」

 懐かしい声がして、陸斗は涙を拭う。肩に乗せられた柔らかな手の感触を感じながら、陸斗はゆっくりと後ろを振り返った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕と私の通心簿 佐藤苦 @satohraku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ