30
幽子は陸斗の通う学校にいた。もう陸斗のところにはいられない。自分に許された場所はここ。鈴木葵が自殺した学校しかないのだ。
誰にも愛されなかった、と幽子は苦笑した。家族には否定され、クラスメイトには冷やかされ、陸斗が抱えていた問題は解決したけど、波蒼との問題はなにひとつ解決できなかった。
――陸斗、喜んでたなあ。
陸斗は本当に泣き虫だった。中学生にもなって人目を憚らずあんなに泣くなんて、見ているこっちが恥ずかしい。でも感情を放出させられて少しだけ羨ましいと思う。
あの子はもう成績を上げる必要がないだろう。脇役は早々に退散しなければいけない。この体も"無"になりかけている。陸斗の願いが叶い、こっちは目標が達成できなかったから神様も消却しようとしているのだろう。
そのことを陸斗には言わなかった。もし陸斗の願いが叶ったら、消えてしまうなんて、やる気に水をかけるようなものだ。せっかく勇気を出したのだから背中を押してあげたい。
体の色が薄くなっている気がする。いずれ透明になって空気と同化するのだろう。感じていた体の重みが軽くなって、地上に留まらせていた感覚がなくなっていく。もうあまり時間はない。誰も聞いていないけれど、自分のために、さよなら、と唇を動かした。
「幽子!」
陸斗の声が聞こえた。それは幻聴じゃないことが、開かれた戸を見て分かった。陸斗、と言いたかった。でもできない。それは未練を感じさせてしまうから。
「なんで、いなく、なっちゃったんだよ」
息が上がって息継ぎの場所がおかしい。陸斗は体を壁で支えていた。走ってきてくれたことに心が動かされそうになるけれど、近づいてくる陸斗にどうにか平静を装って幽子は言った。
「感動の場面に水を差すわけにはいかないでしょ。よくこの場所だって分かったね」
「ここしかないから。きっとここだと思った」
まったく全部読まれてると、幽子は心のなかで笑った。
「陸斗、お母さんと和解できてよかったね。カッコよかった。出会ったときから見違えるようだった」
陸斗は表情を歪めた。
「……なんで嘘を吐いたんだよ」
「なんのこと」
「その姿だよ……! 僕の願いが叶ったら消えちゃうなんて言わなかった」
「わたしが消えるって分かってたら、陸斗はお母さんとの問題を解決するの止めてくれた? 可哀想と言って同情するだけで、わたしのことを心から思って行動してくれることはないんでしょう。陸斗が羨ましいよ。陸斗は生きて、わたしは死ぬ。陸斗は和解できて、わたしは最後までできなかった」
抑えていたのに結局言ってしまった。ここまで山あり谷ありでそれでもなんとか仲良くやってこれたのに、気持ちよく別れられない自分の情けなさ。未練がましさ。
「できるよ」陸斗は小さな、だが確信のこもった声で言った。
きっと慰めるために嘘を吐いていた。あれほど嘘を吐かないと約束したのに、まったくこの子は学ばない。それとも、それも優しさの一種なのだろうか。
「そんな根拠のない励ましをしないで」
「今度は本当にできるんだ」
そのときだった。
「渡辺……」
どうして――。目を疑った。波蒼が屋上の戸の前に立っていた。
*
「僕がここに呼んだんだ」
お母さんとの和解を終えた陸斗は幽子がいなくなっていることに気づいた。嫌な予感がした。お母さんたちに断り、病室を出て陸斗は走った。向かった先は学校だった。直感がそう告げていた。その道中、波蒼にLINEで連絡していた。
「渡辺、本当に、本当に……ここにお兄ちゃんがいるの」
波蒼が信じられないという表情で、一歩ずつ近づいてきた。
「ああ、ここにいる」
「じゃあ話したい。私に話させてよ! 私はお兄ちゃんに謝らなきゃいけない」
必死な波蒼の叫びを聞いて陸斗は幽子に目を向けた。けれど幽子はその視線を躱す。
「幽子、鈴木さんと話さないか。僕の姿を使えば話せるはずだろ。そうすれば幽子は転生できる。だから……なかに入って鈴木さんと話さないか」
幽子がくるりとこちらを向いた。陸斗は期待したが、幽子の返事は芳しくなかった。
「波蒼にはただ陸斗が話しているようにしかみえないでしょ」幽子が言った。「そんなの意味ないよ。波蒼に演技じゃないってどう証明するの」
確かにその通りだった。自作自演に思われてもおかしくない。本物の鈴木葵の姿が見えない限り波蒼も本心を語れないだろう。そして、その背後には波蒼を許していないという心情があるとも思った。陸斗は波蒼に向かって、首を横に振った。しかし、波蒼は引き下がらず、そのまま見えていないはずの空間に語りかけた。
「お兄ちゃん、聞いて。私渡辺と話したの。最初は信じられなかったけど、鞄に付いたお守りを見て分かったよ。あれ、お兄ちゃんが作ったんだよね。お兄ちゃん、部屋にいっぱい手芸があった。だから分かるよ。そこにいるんでしょ。見えなくても、私には分かる」
波蒼が言ったのと同時だった。光の粒が幽子の周りを覆っていく。それがゆっくりと溶けていくと、男の子の姿が露わになった。鈴木葵が手のひらを見つめている。神様は幽子に、善行を積めばサプライズがあると言っていた。それが今、報われた。
「お兄ちゃん」波蒼が呟く。「会いたかった……」
「こんなタイミングでサプライズなんて、神様はホントいい加減だね」
「お兄ちゃん……本当にごめんなさい。私は許されないことをした」
波蒼は声を震わせた。
「今更謝罪なんてされても無駄だよ」葵は冷たく言った。「遅すぎるの」
「ごめんなさい。本当に……。あんなこと言ってお兄ちゃんを傷つけた。なんでお兄ちゃんのこと分かってあげられなかったんだろう」
「口先だけならなんとでも言える」葵は平坦に言った。
「お兄ちゃん……」
波蒼は目に涙を溜めて、葵に手を伸ばす。しかし葵はそれを振り払う。
「分かるよ。そう言われても仕方のないことを私はした。どれだけ責められても足りないくらい。お兄ちゃんにしたこと自分で自分を許せない。でも……信じて欲しいの。こんなことしてもお兄ちゃんには許してもらえないかもしれないけど、罪滅ぼしをしてる」
「そんなの嘘でしょ。波蒼は普通に学校に通って、学生やってるじゃん。罪悪感があるなんて感じ微塵もしない」
「私が学校に行ってるのは、お兄ちゃんの名誉を取り戻すためだよ」
はっきりと言った。
波蒼が言っていることが嘘じゃないことを、陸斗はここに来る途中電話で聞いた。波蒼は葵が自殺を図ったことに責任を感じていた。クラスメイトや親のこともあるけど、自分の一言が葵にとどめをさした、とひどく後悔していた。あの時あんなことを言わなければ、葵は屋上から飛び降りることはなかった。
その日から誰よりも勉強し、葵の通う中学へ行った。元々成績は良くなかったが、努力して入学することができた。でもまだ不充分だった。成績の悪い人間の言うことは正論であっても戯れ言と見なされ、成績の良い人間の言うことは皆信じる。常に成績最優秀でいなければならなかった。そうやって頂点に立っていずれは、誰を好きになってもいい、偉くなってそうセカイに宣言しようとしていた。次世代のリーダーとして、親やクラスメイト、みんなの意識を変えようとしていた。それが贖罪だった。それが兄の名誉を取り戻す方法だった。友だちも、恋愛もいらない。すべては葵のため。孤独が波蒼を強くした。でも、できることなら一度だけ、一度だけでいいから面と向かって葵に謝りたかった。
「私はお兄ちゃんがいじめられていたあの学校に入って、みんなの意識を変えたかった。先生も、生徒も――。ううん、その先にいる色んな人に訴えたかったの。そのために説得力がある成績が必要だった」
「そんなのでたらめだ」
「どうして信じてくれないの」
「信じられないよ。波蒼、わたしはこの姿になってから家に行ったから全部知ってるんだよ。綺麗に手入れされた庭を見て、波蒼たちの心が荒れているようには見えなかった。わたしが死んだっていうのに誰も悲しんでいないんだ。そんな家族の言葉なんて信じられるわけがない」
「死んだ? ……お兄ちゃんは勘違いしてるよ。私たちは今もずっと病室にいる!」
「どういうこと」葵は狼狽えた。
「お兄ちゃん、覚えてないの? お兄ちゃんは飛び降りて寝たきりになったの。それでずっと目が覚めないまま。だからいつ目が覚めてもいいようにお父さんとお母さんが交代で付きっきりになってるんだよ」
「お父さんたちが?」
「うん。お父さんずっと後悔してる。なんでもっと寄り添ってあげられなかったんだろうって。だから悲しんでないわけないよ。ずっと、泣いて、苦しんでる」
「そっか……」葵は一旦閉じた口をゆっくりと開いた。「じゃあずっと勘違いしてったってわけだ。死んでからも家族から見放されるなら、もうどうでもいいって思ってた。でもそれが間違いなんて、……笑っちゃうよ」
葵は笑って、それから泣いた。波蒼は葵の肩を支える。
「お兄ちゃん、ずっと話したかった。神様はきっともう目が覚めないお兄ちゃんに最後に会わせてくれたんだよね」
「ごめん……」葵の言葉はそこで詰まった。
「私、お兄ちゃんの妹でよかった」
それから二人は無言で見つめあった。言葉がなくても二人は通じあっていた。波蒼は膝を吐いて声を上げて泣いた。葵はその背中を優しく、優しく撫でた。
*
風が吹いていた。普段だったら生徒の声でうるさい学校も日曜だと静かだった。陸斗は幽子に近づく。
「幽子、いや葵のがいいのかな……」陸斗は頬を掻いた。
「いいよ、幽子のままで」
幽子は穏やかに笑った。男の子の姿になって初めて見る笑顔だけど、不思議と初めてのような気がしない。この笑顔を見られるのもあと少しだと分かっていたから目に焼き付けた。
「この姿、驚いた?」
「なんとなく予想ができたよ。幽子はずっと賢かった。年上だとしても驚かない」
「ここからすべて始まったんだよね。わたしが記憶を取り戻そうとして、陸斗は死のうとしていた」
「僕は間違いを犯すところだった。幽子は命の恩人だ」
「せっかく友だちになれたと思ったのにね」幽子が笑った。
「ああ。でも和解できてよかったじゃん。これで転生できる」陸斗は首の後ろで手を組む。
「うん……」
「幽子にまた、会えるかな」
「会えるよ。陸斗が願ってくれれば、必ず」
優しい嘘なことくらい分かっていた。転生すればきっと前の記憶なんてなくなるはずだ。でも聞かずにはいられなかった。
「なぁ幽子、僕はこれからどうすればいいかな。幽子がいなくなったとき僕はすごく心細かったんだ」
「一生取り憑いて、また背中でも叩こうか」幽子は軽口を叩いた。
「背中……は、やっぱり魔法じゃなかったんだ。僕を叩きたくて」
「細かいことは言わない。現に自信がついてよかったでしょ」
幽子が言って、陸斗は鼻を鳴らした。でも本気で怒っているわけではなかった。
「冗談はさておき……陸斗、君はようやく自分の人生を歩けるようになったんだよ。だからこれからは自分で考えな。人は他人の人生を歩けない。私が一番よく知ってる」
「幽子……ありがとう」声がうまく出てこない。涙が声を留めてしまう。
「泣くなって」
「うん。……でも寂しいよ」
「わたしだって同じだよ。でも――」そこで幽子の口調が切り替わった。「お別れしなくちゃ」
「もう、なの?」
「神様はせっかちなんだ。さぁ後ろを向いて。幽霊は消えるところを見られちゃいけない」
「幽子、君は僕を助けてくれた。勉強がすべてじゃないって教えてくれたし、僕のやりたいことを見つけようとしてくれた」
「わたしは行かなきゃいけない。陸斗、後ろを向いて」
「お母さんとも和解させてくれて、沙依ともやっとわかり合うことができた。感謝してもしきれない。本当にありがとう」
「とにかく後ろを」
「性格を直してくれて、僕という人間を矯正してくれた。それもこれも全部幽子の――いたっ」
幽子の平手が飛んできた。
「早くしてよね。時間がないんだから」
陸斗は後ろを向く。その肩に幽子の手が置かれた。温かくて優しい手だった。陸斗がまばたきをすると涙が一筋流れる。
「陸斗」
「うん」
「達者で生きろよ」
ふっと、肩に置かれた手の質量がなくなる。
「幽子ーーー!」
穏やかな風がまた吹いた。幽子の姿は風に乗って空の向こう側に永遠に消えていく。
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