29

 お母さんは市内の病院に運び込まれていた。そのときの状況を医師が教えてくれた。

 いつものように家事をしていたお母さんはめまいと頭痛が酷くて薬を飲んだ。けれど三十分経っても治まる気配はなくてむしろ酷くなっていく一方。それで救急病院に行くために子供たちに伝えようと思ったら、二人ともいない。その間も症状は増悪していく。そして救急車を呼んだ――らしい。救急隊が来たときにはお母さんは倒れていた。極度の疲労と睡眠不足によるもので、しばらく点滴をしていれば大丈夫だろうと五十代くらいの医師は語った。病気でもなんでもないのにどうして救急車を呼んだのか、とでも言いたげな様子だった。

 陸斗は処置室の背もたれのない椅子に座って、目をつぶったままのお母さんを見ていた。沙依は椅子には座らず立ったままで小さなスペースをせわしなく歩き回っている。

 点滴のしずくのスピードがじれったい。横になったお母さんは明らかに弱っていて、見る影もなかった。お母さんがこうなってしまったのは仕事や家事の忙しさだけではなかった。たぶん、自分たちにも原因があった。立て続けに起こった二人の子供の問題がお母さんの負担を大きくしてしまっていた。成績の低迷、不正行為、そして夜間の無断外出。救急車を呼んだとき、お母さんは一人でどれだけ心細かっただろうか。

 陸斗は後悔した。その夜は寝ずにお母さんの手を握っていた。お母さんはまるで死んでしまったように眠っていて、瞼が開いたのは朝の光が差し込み始めたころだった。

「陸斗。……沙依。ここは……」

「病院だよ。お母さん倒れたんだよ」沙依が言った。

「病院……。そうだわ、気分が悪くて救急車を呼んだんだっけ」

 常用している安定剤のせいかゆったりとした口調だった。起き上がろうとしたお母さんを沙依が気遣う。

「お母さん、無理しないで」

「大丈夫。休んだら楽になったわ」

 確かに少しずつもとの調子に戻ってきた気がした。でも記憶は曖昧なようで、ここに来た経緯を説明しても頷くだけで、二人の外出に関しては触れられることもなかった。それが反って不安で、見つめているとお母さんはその視線の意味に気づいて笑った。

「二人ともそんな大げさな顔して見ないでいいわよ。お母さんはいいから、それより、もっと大事なことがあるでしょ。家に帰って勉強しなさい」

 そう来るとは思わなかった。お母さんはこの期に及んでも自分の体調よりも子供たちの成績を気にしていた。言うしかない。陸斗はついに覚悟を決めた。

「お母さん、僕はお母さんに言わなくちゃいけないことがある」

「なに? 陸斗はまだお母さんに話していないことがあるの」

 急に変化したお母さんの低い声色に以前の自分だったら打ち負かされていた。けれどここで言わなきゃもう一生こんな機会はないと思った。足裏に力が入る。

「お母さん、僕もうこんな生活嫌なんだ。勉強ばっかりに追われていろんなものを犠牲にしていくのは耐えられない」

「陸斗なに言ってるの……。今までずっと頑張ってきたじゃない」

 お母さんはため息を吐く。それはどこか安堵のため息のようだった。たぶん、優しく慰めればまた元通りになると思われていた。でも、もうそうやって操作されるのは嫌だった。

「僕は……もう頑張りたくない」

「どうしちゃったの急に。勉強が必要なのは今後の人生で苦労しないためなの。今はまだ分からないと思うけど、大人になれば分かること。だからこれは陸斗のためなのよ」

「お母さんのためじゃないか! 勉強、勉強って、お母さんは病気だよ」

 柔らかい声と差し伸ばされた手を、陸斗は振り払った。

「お母さん、僕たちは家族だよね。いつからこんなになっちゃったんだよ。昔はこうじゃなかった。もっと近くてなんでも話せる関係で、悩み事とかも話せて、うまく言えないけど安心できた。でも今は――冷たくって、競争しあう他人みたいだ」

「言いたいことはそれだけ?」

「いや、お母さんには話してないことがたくさんある。お母さん、僕はいじめられているんだ。お母さんは知らないでしょ。ネットでも叩かれて、ついこないだ親友も失ったこと」

「聞かなくても想像はできるわよ。どうせ余計なことでも言ったんでしょ。ちょうど今みたいに。いい? あなたは黙っていればいいの。それから親友ってあの南くんでしょ。成績も悪かったし断ち切って正解よ」

 お母さんは切り捨てた。でも陸斗は負けなかった。聞いてくれなかった自分のことを全部知って欲しかった。そして、前のお母さんに帰ってきて欲しかった。

「それだけじゃないよ。僕は塾をサボったんだ。あの一回だけじゃない。ゲーセンに行ったり映画に行った。普通の中学生がしていることをしたかったんだ」

「お母さんが知らないとでも思ってたの。あとから塾に確認したわ。ずっとサボってたんでしょ。そんなの分かっていたこと。これから勉強で挽回しましょう。もっともっと頑張るのよ」

「頑張るってなに。頑張ってどうするの? その先にはなにがあるの? それって友だちや自分の十代を犠牲にするほど大切なことなのかよ?」

「ええそうよ。あなたには分からないだろうけどね。沙依は医者で、陸斗は公務員。それでいいじゃない。なにが不満なの」

「それは僕のやりたいことじゃない。やりたいことを決められるのは僕だけだ」

「じゃあ、あなたはなにをやりたいの?」

「えっ」陸斗は言葉に詰まった。

「ほらね、やっぱり決まってない。生意気なこと言うんじゃないの。あなたは現実を分かっていない――沙依もそう思わない?」

 お母さんの知らない陸斗のことを話したら、お母さんは目を覚ましてくれると思っていた。いじめられていると告白したら守ってくれると思っていた。でもお母さんは全部を知っていたふうに装ってしまう。

 沙依はお母さんの威圧感にすっかり萎縮してしまっていた。絶体絶命だった。

「沙依もあなたが現実を分かってないって思うって。二人が言うんだから間違いないわよね。分かったら、もう帰って勉強しなさい」

「行こう……」と沙依が促す。

 陸斗は出たくなかった。ここで引き下がれば水の泡になってしまう。幽子の力を借りるときかと思った。超自然的な能力でお母さんを無理やり説得するというのが当初の予定だった。幽子の力を見せつければお母さんは陸斗の言うことを聞いてくれるだろう。でもそれは脅迫による支配であって、お母さんのやっていることと変わりない。だから、すぐに助けてもらえる距離なのに、病室の外にいる幽子には最後まで声をかけることはできなかった。

 なにかあれば幽子、幽子と縋り付いていた。ずっと幽子に頼ってばかりでいいことなんて一つもなかった。沙依の協力がなくても、幽子の助けがなくても、今度こそ自分の力でお母さんを説得するべきだった。

「どうしたの、早く行きなさい」お母さんが言った。

 陸斗は大きく息を吸った。

「うるさい! 僕はもうお母さんの言いなりにならない」

「親に向かってその口の利き方はなんなの」お母さんは目を見開く。

「もうたくさんなんだ! 僕は成績に振り回されて色んなことを見失った。時間も、友だちも本当になにもかも。お母さん、僕はテストでいい点が取れなくて死のうとしたんだ。それもこれもお母さんのため。お母さんに好きになってもらうためだけに! それも知ってる、で済ませちゃうの」

 涙が溢れてくる。拭っても拭っても馬鹿みたいに頬を流れる。お母さんに分かってもらいたくて必死だった。

「勉強、勉強って。僕はお母さんの道具じゃない。僕だって意志がある。僕知ってるよ。勉強を求めるのは理由があるってこと。おばあちゃんとお母さんの問題を僕に転嫁しないでよ!」

 感情が溢れて、論理的に話すことさえままならなかった。ただ、気持ちで押し切った。

「なんであの人が出てくるの……まさか」

「僕はおばあちゃんの家に行ったよ」

「どうしてそんなことをしたの!」

「必要だったから。僕にはおばあちゃんが必要だった」

「もう聞きたくない。なにも聞きたくないわ」

 お母さんは耳を塞ぐ。でも陸斗は話すのを止めなかった。

「聞いて、お母さん。おばあちゃんはお母さんのことを沢山話してくれた。お母さん、苦しかったんだよね? ずっと一人で寂しかった」

「知ったような口を聞かないで! 苦しみの内容も知らないで」

「分かるよ。僕には分かる。暴力を振るわれたこと、無視されたこと。でも聞いて、おばあちゃんは後悔してる」

「あの人に吹き込まれたのね。あの人のやりそうなことだわ」

「違うよ。なんで分かってくれないの。おばあちゃんは苦しんでいた。お母さんにした仕打ちにずっと苦しんで一時もお母さんのことを忘れないって」

「演技はあの人の得意分野なの。霊能力者を謳うくらいだから」

「そうじゃないよ。本当におばあちゃんはお母さんのことが大切だった。大切だったからこそ過ったんだ」

 祖母は祖父を失い、お母さんもお父さんを失った。失ってしまった愛がみんなを狂わせてしまった。心に余裕がなくていっぱいいっぱいだった。そのことをお母さんに伝えたかった。なのに、どんなに真剣に言ってもお母さんは心を閉ざしていた。

「こんな子産むんじゃなかった」お母さんが冷たく言った。「帰りなさい」

 沙依が服の裾を掴む。潮時だと言っていた。でも陸斗は絶対に動く気がなかった。沙依の力も幽子の力も借りられない。沢山の言葉を尽くしてもお母さんは説得できない。なにをやっても届かない。でも、それでもここから離れることはできなかった。今、離れたら一生お母さんとも沙依とも家族になることはできない!

「なんで――」陸斗は言った。「好きでもない僕をなんで産んだんだよ!」

 辺りが静まり返る。

「僕はずっと真面目に頑張ってきた。言われたとおりになんでもやった。なのになんで報われないの。なにが足りないの。なんで――」

 声を絞り出した。

「お母さん、僕はお母さんのこと好きだよ。お母さんはさあ……僕のこと嫌い? 勉強できない子は嫌い? お母さん、目を覚ましてよ。僕はただ普通の家族になりたいだけなんだ。それがこんなに難しいことなの」

 陸斗が伸ばした手をお母さんは振り払わない。目の奥に小さな光が見えた。

「お父さんがいなくなって、お母さん一人で大変だったよね。僕、全然分かってあげられなかった。……お母さん、もう僕たちのために頑張らなくていいんだよ」

 優しく言った。気持ちを伝えたかった。お母さんへの感謝も、謝罪も全部込めた。

 お母さんの瞳が揺れる。戸惑いの先に別の感情が見えた。

「……ね」

 微かな声だった。

「ごめんね……ごめんね」

 お母さんは泣きながら、陸斗を小さな腕で抱いた。沙依も後ろで泣いていた。今まで泣けなかった分をここで出し切ろうとしているかのようだった。

 陸斗はお母さんを受け止めた。お母さん、大丈夫だから。僕はここにいるから。だから、やり直そう。そう伝えた。抱き留められた瞬間、陸斗は中学受験のときを思い出した。あのとき、お母さんを受け容れることはできなかった。でも今は違う。

 陸斗はしっかりと強い力でお母さんの愛情を受け止めた。 

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