28

 幽子が消えた。頌大に見捨てられた。お母さんだって。もうどうでもよかった。

 部屋の掲示物を剥がした。自分の成績なんて見たくない。点数なんて意味がなかった。トロフィーはガラクタで、賞状も無価値だった。なにもかもゴミ箱に捨てた。小さなゴミ箱にはこれまでの旅路がうずたかく積み重ねられている。山が崩れてもまだ捨てた。息が荒い。参考書を破いて、教科書を投げて、お気に入りのペンを折る。全部を部屋の一カ所に寄せて、引っ越してきたばかりみたいにまっさらな部屋になった。こんなに部屋が広かったか、初めて自分の部屋を与えられたときのことを陸斗は思い出せなかった。捨てても捨ててもすっきりすることなんてなくて、空しくて、体中が埃まみれになって、疲れてその場に座った。卒業アルバムも全部捨てた。過去の思い出を切り離したかった。

 でも、と陸斗は写真を手に取る。こればっかりはどうしても捨てられなかった。

 ――お父さん。薄暗い部屋のなか、陸斗は静かに家族写真を抱いた。

 夜になって家を出た。学校に忍び込んで静かに死ぬつもりだった。また学校を選んだのはここがすべての始まりだったからだ。これ以上ないくらいの適した場所だ。

 フェンスを越える。雨は降っていなかった。心も穏やかだ。人間、本当に死ぬ気なら止まれないものだとこのときようやく分かった。終わりになる。これでお母さんや頌大、それから幽子ともお別れなのだ。

 幽子には謝りたかった。でも魂になって再会してからでも遅くないと思った。そして天国に行く。そこまで考えてから勝手に天国行きだと決めている自分に苦笑した。最後まで自分中心の考え方をするとは情けない。

 そうやって、もたついていると後ろに引っ張られる力があって、思い切りフェンスに倒れた。幽子かと思ったら違った。沙依だった。沙依は息を切らしている。見ると靴も満足に履けていない。踵を踏み潰して走ってきたようだった。

「なんでここにいるの」

「なんでって……。追いかけてきたんだよ。アンタ、なんかヤバそうだったし」

「助けなんて望んでないよ」

「……いいからまずこっちきなよ」

 沙依は服を離してくれなかった。沙依は最後の瞬間まで邪魔する気だった。言葉の静けさと矛盾して、掴んでいる力は強い。服の部分がしわくちゃになっている。なかなかその場から動かない僕に対して、沙依はまた腕を引く。

「こっち、きな」

 一人で死にたいムードが沙依にかき乱される。仕方なく再びフェンスを越えると、沙依は腕を組みながら、「アンタ、部屋覗き見てたでしょ」

「なんのこと」

「とぼけんなよ。アンタが女子校に行った日、アタシの部屋の前に来たでしょ」

 そのことか、と陸斗は思った。どうやら沙依は気づいていたようだった。部屋の戸を閉め忘れていたのだろうか。いや、そもそも開いていたと思ったが。

 陸斗は白状した。

「……女子校に行ったことをもう一度口止めするはずだった。女子校のそばではうやむやにされたから。でも沙依……泣いてたから、声が掛けられなかった」

「やっぱり、いたんだ。なんで食事のとき、お母さんにチクらなかったの。アタシの弱点をお母さんに言えば、アンタが塾をサボったことより、こっちに関心を惹きつけられたかもしれないのに。お母さんは弱い人が嫌いだから」

「だってそんな気分になれなかったから。それに塾をサボったのも事実だろう」

「ふーん。アンタ……変わったね。そんなにいい奴だったっけ」

 そんな言葉をどこかで聞いた。変わった、変わったと無責任に人は言うけれど、本当に人は変われるのだろうか。

「どこが。――僕が死ぬ前にそれを伝えに来たの?」

「違うよ。全然違う。陸斗、前にアタシが包丁を持ったときに勘違いして止めてきたの覚えてる?」

「果物を切ろうしてたってやつ」

「そう。あれ、陸斗が正しいよ。あの包丁、果物を切るつもりじゃなかった。あのときは本当にどうにかしようとしてた。アンタに止めてもらって感謝してる。それを……アンタに伝えにきた」

 突然の告白に陸斗は驚いた。

「待ってよ。それ、どういうこと。冗談でしょ」

「冗談じゃないよ。あのまま家にいたら自分がずっと操られる気がしてた。家出しても連れ戻されるだけだし、逃げ出すにはそうするしかなかった。自分が死ぬか、それとも」

 沙依は口ごもった。言ったとしてもその先は聞きたくなかった。

 知らなかった。沙依がそんな恐ろしいことを考えていたなんて。沙依はずっと幸せそうに見えた。頭の構造が違う姉。僕よりずっと成績がいいし、維持するのも向上させるのも容易いからお母さんに特に好かれている。なのにそんなことを言うなんて。

「なんで。なにが不満だったの。沙依はお母さんに叱られることなんてなかったはずだ。僕はそんな場面数えるほどしか見てない。僕より全然少ないじゃん」

 沙依は表情を変えず、口先だけで笑った。

「そんなのいかようにもやりようあるだろ。虐待は見えないところでされてたよ。虐待されてたのはアンタだけじゃない。アンタより三年長く生きてんだ。三年あったら壊されるのに充分だよ」

 虐待。まさかと思った。だって暴力だって振るわれていないのに。まさか自分たちがされているなんて、沙依に言われるまで意識しなかった。ただ厳しいだけのお母さんだと思っていた。優しくて厳しいお母さんの姿は、けれどあの祖母の姿に重なった。

「アンタが助けてくれた。死ぬところだったアタシをね」沙依が言った。「だからアタシも助ける。それでおあいこでしょ」

 沙依が言いたいことはこれだった。このために僕を追ったのだ。意地悪だと思っていた姉の優しさに胸が苦しくなった。でも素直になれない。

「助けてもらっても意味ない。どうしたらいいか分からない」 

 すると沙依は笑った。

「陸斗、アンタやりたいことないの」

「ないよ。そんなの」

 幽子に言ったように同じ言葉が出てしまう。でも本当にやりたいことがないのだろうか。一度でも心の声に耳を傾けたことがあっただろうか。耳を傾けていたのは常にお母さんの声じゃなかっただろうか。こうやって離れてようやく自分の考えが生まれてくる気がする。

「アタシはある。やりたいことが」

 凜々しい声だった。まとっていた暗いベールを解き放ったような。

「なに」

「笑うなよ。――画家」沙依は頬を赤らめてポツリと言った。

 自分の前でこんな顔をしているところは見たことがなかったから、言った内容に笑うよりも驚きの方が大きかった。沙依の夢を、僕は当然のように知らなかった。血のつながった家族なのに、この三歳違いの姉のことをなにも知らなかった。

「でも、もうできないんだ」

「どうして? 目指せばいいじゃん」

「無理だよ。アタシは期待を背負わされてる。分かるだろ? もう逃げられないところまで来てるんだ」

 そう言って沙依は、肩を震わせて泣いた。陸斗は沙依が部屋で泣いていたことを思い出す。口に手を当ててしか泣けなくなってしまった姉。

「アンタはさ……やりなよ。やりたいこと。急がなくていいから、見つけるんだよ。幸せになって、復讐してやるんだ」 

 沙依は押しつぶされたような声で言う。傷だらけだった。握られた手の先を見ると、腕に細かい傷があった。沙依はずっと苦しんでいたのだ。

 陸斗はつられて泣きそうになった。助けたいと思った。成績なんてもうどうでもよかった。これ以上成績に人生を左右されるのはごめんだった。成績だけを見ていたなんて間違いだった。あまりにも近すぎてそれしか見られなかった。分かりやすい評価ばかり気にして、本当に大切なことは背後にあるのに気づけなかった。こんなに苦しんでいる沙依が常にいたのに、一体なにをしていたのだろう。

「戦おうよ」ほとんど反射だった。

「えっ」沙依は短い言葉を発した。「無理だよ」

「やってみなきゃ分からないじゃんか」

「分かるよ。お母さんにかなうわけがない」

「でもこのままでいいわけがないんだ。僕も、お姉ちゃんも」

 もしかしたら沙依の言うように、本当に無理なのかもしれない。でも、やる前に逃げるのは臆病者のすることというだろう。お母さんに本当の気持ちをぶつける必要がある。今まで一度も向き合ったことがなかったのだから。落とし物だらけの人生はもう嫌だった。

「行こう」

 陸斗は沙依の手を握って立ち上がらせた。驚いた顔の沙依は縋るように立ち上がった。倒れないように支えて、今度はこっちから離さなかった。昔、お父さんは家族が助けてくれると言っていた。それは心地のよい教訓じゃなかった。沙依が助けてくれたことで、身をもってそれが事実だと受け入れられた。お父さんは間違っていなかった。

 陸斗は歩き始めた。これから二人でお母さんと対峙する。自由になるために、もう一つ沙依に言うべきことがあった。もう一人の大切な存在のことをまだ伝えていない。

「お姉ちゃん――」

 そうして、陸斗は幽子のことをすべて話した。

 あれだけ探しても見つからなかった幽子が突然見つかった。探し物は探そうとすると見つからなくて、あるとき突然見つかるのと同じ現象だった。幽子は八百屋に並べてあるリンゴに手を伸ばしている。食べようか葛藤しているようだった。盗みには違いなかったので、すんでのところで幽子は手を引っ込める。

「一個だけなら買おうか」

 陸斗が軽口を叩くと、幽子は一瞬ビクッとして恐る恐る背後を振り返って、「陸斗……」とだけ呟いた。

 幽子を見つけた瞬間は嬉しくてたまらなかった。一人だった自分が繋ぎ止められた気がして、なにも解決していないのに心が軽くなったようだった。けれどそれで楽になる前に幽子には言うべきことがあった。

「幽子、僕は謝らなきゃいけない。僕はずっと間違ってた。君を傷つけることばかり言っていた。それに気づけなかった。自分のために言ってくれた言葉も、そのたびに無視して、流して、僕は本当にダメな奴だった」

 やっと言えた。自分のちっぽけなプライドを捨てられた。言葉はすぐに返ってきた。

「わたしこそ……ごめん。陸斗を傷つけた。言わなくていいことを言ってしまった」

 謝ってしまうとすっきりした。幽子の目を見つめる。もう嘘を吐くのはやめだ。陸斗は思い切って決意を口にした。

「僕はお母さんと話すことにした」

 幽子の目が瞬いた。

「それには幽子の力がいる。お願いだ。助けてほしい……」

「助けてあげたい……。でも、もうわたしにその能力はないの。願っても自分のお墓に転移できなかった。あの便利な能力は消えてしまった。わたしに残ったのはただの透明な体だけ」

 陸斗は首を横に振った。

「能力なんてもういいんだ。それに頼るなんてどうかしてた。僕は幽子の知恵を借りたい。お母さんを説得するための作戦を考えたいんだ」

「作戦?」

「そう。お母さんに僕たちの気持ちを伝える作戦。あ、安心してよ。お母さんの問題が解決したらすぐに幽子の問題に移るから。幽子は絶対僕の力で転生させるんだ」

「陸斗……」

 幽子の頬が安心したように緩んだ。

「それで幽子に紹介したい人がいるんだ」

 それまで隠れていた沙依を呼んだ。幽子は驚いていたけど、陸斗の選択を納得してくれたようだった。沙依には幽子の姿が見えないから、買った果物を幽子に持たせて間接的に幽子の存在を証明した。沙依は浮いた果物に口を大きく開けて驚いていた。それから三人で作戦を練った。どうすればお母さんを説得できるか頭を悩ませた。しばらく経って草案ができた。これならば、と陸斗は思った。一人なら無理でも三人ならどうにかなるかもしれない。

 夜は深くなる一方で、スマホが鳴ったのはそのときだった。電話に出た沙依の顔が引きつっている。沙依は震えた声でこう言った。

「お母さん、倒れたって」

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