27

 「お母さんにどうして迷惑かけるの!!!」

 陸斗は黙って叱られていた。たくさんの言葉を投げつけられたけど、そのどれもが体を素通りしていく。正座をしたまま二時間、陸斗はお父さんの部屋で怒られていた。足の甲に刻まれた畳の目がうろこのようになって気持ち悪かった。

 学校から電話があったのはついさっき――テスト当日の夕方のこと。お母さんは電話の向こうに平謝りだった。お母さんの話を統合してその理由が分かった。どうやら校長先生に解答用紙を捨てたのを見られていたようだ。いつも挨拶してくれる生徒だから覚えていて、その礼儀正しい子がそわそわした様子でゴミ箱に紙を捨てた。それで不審に思ってその紙を広げたら先生たちが保管していたはずの解答用紙だった。驚いた校長先生は担任の先生に伝えて、急遽陸斗のその日のテスト答案を採点するとそれなりの高得点だった。それで不正が発覚した、ということだった。

 陸斗は経緯より点数の方に驚いた。前回には劣るものの上出来だった。誓って解答用紙は使っていなかった。普段の地道な勉強の成果がこんなところで現れるなんて思いもしなかった。でもお母さんに反論することはなかった。幽子がいなくなって気力がなかったし、今までズルをしていたことに変わりはなかったのだ。

 あのとき陸斗はバレてもいい、と思っていた。いつもは慎重に動くように注意しているけれど、そのときは制御できない感情が沸き上がって、紙片を唐突にゴミ箱に捨てたくなったのだ。心のどこかで見つけてほしいとも思っていたかもしれない。今までの不正を誰かに自分を裁いてほしかったのかもしれない。幽子がいなくなって、迷子になった気分だった。これほどまでに幽子に依存していたとは思わなかった。

「恥ずかしくてお母さんもう学校行けないじゃない。どうしてくれるの!」

 お母さんは激烈に怒っている。けれど陸斗の不正そのものより、不正の結果被る迷惑や恥に対しての怒りの方が大きい。世間体を気にするお母さんに容赦はなかった。成績が良かったことなんてもはや過去の遺物だった。一時的に褒めてもらってそれで終わり。後にはなにも残らない。

「やっぱり本当に頑張っているのは沙依なのね。沙依は不正なんかしないわよね」

 お母さんは上あごに引っ付いたみたいな甘ったるい声を出して、沙依の肩に手を置く。それは優しさとは無縁の響き。不正をしたことそれ自体を強く責められなかったのは、本心ではお母さんは自分の成績に期待していなかったことの現れだろう。陸斗は保険みたいなもので、あくまでついでなのだ。本命は沙依。沙依が安泰ならばあとは些末なことなのだ。その考えに思い至って、陸斗は打ちのめされた。

 陸斗は沙依を見た。以前なら沙依はこうやって自分が上位で比較されたとき、その優越感を隠そうとしなかった。成績も一時的に下降したけど今ではそれも取り戻しているし、ペナルティも解消された。どん底から這い上がったのだから思う存分喜んでよかった。その資格は充分ある。けれど今お母さんの隣に座っている沙依からは優越感なんて感じようもなく、笑み一つ浮かべなかった。まるで褒められたのにけなされたようで、とにかく沙依は沙依でなにか思い悩んでいる様子だった。次のテスト対策のこととか、勝者だけが知る重圧なのだろうか。

 部屋に戻ったあともお母さんの怒声は尾を引いた。幽子に相談しようと、つい部屋を見渡してしまう。

「幽子、どこ行っちゃったんだよ……」

 お母さんから許してもらうための条件を提示された。一つ、これまで以上に勉強すること。自由時間はなしで監視もされることを承知しなさい。二つ、学校に謝りに行くこと。どうして解答を手に入れられたのか説明して、心からの謝罪をする。お母さんを通した先生との話し合いで学校はしばらく休むことになった。騒ぎが治まってからお母さんと一緒に謝りに行くことを約束させられた。

 お母さんの言っていることは理解はできた。勉強をおろそかにしていたのだから勉強するのは当然。今回に限って言えば不正はしていなかったのだけど、今までは不正をしていたのだから謝罪するもの当然。お母さんの論理は正論すぎるくらい正論だった。

 でもなにか悲しかった。その冷たい論理は頭で分かっても受け入れられなかった。お母さんには守ってほしかった。決めつけじゃなくて、まずは不正をしたか聞いてほしかった。その上で理由を質してほしかった。不正をしたくてしたわけじゃなかったのだから、責めるより先にするべきことがあったと思った。悪いことをした事実に変わりはないけれど、それを望むことも許されないのだろうか。

 それで頌大に電話した。幽子がいないから頌大に頼るしかなかった。頌大は十コール目で出た。とても遅い応答だった。一言二言交わしても、頌大はいつもの飄々とした調子を抑え、よそよそしかった。不正のことがバレて、距離を取られているのかもしれなかった。

「テストのことみんな知ってるんだね」

「まあな。クラスLINEで流れてる」

「そっか……。僕はどうしたらいいかな」

 自分が置かれている状況を説明した。学校の問題に家の問題、一人で片付けるには荷が重かった。どうしたらいいのか本当に分からなかった。でも頌大は助けてくれるだろう。だって親友だから。かけがえのない友なのだ。

 電話が切れたかと思うほどの間を置いて、頌大の声が聞こえてきた。

「でもまぁ、親の言うとおりに行動するのが筋ってもんじゃないか。言われたとおり、最初から真面目に勉強する。今まで通りテストをがんばるしかない」

 それは以前の頌大だったら絶対考えないであろうことだった。頌大の性格ならばきっと、勉強なんかしないで謝る必要もないって肯定してくれると思っていた。かつて親に反発して愚痴ってきたように、僕にも刃向かえとけしかけると思っていた。もしや自分のアドバイスのせいで頌大の考え方を変えてしまったのかもしれない。あの自己啓発本の魔法にかけられて。

「そうは言うけど勉強したってなにも変わらないかもしれない。今までお母さんを信じて勉強してきた。でもこんな仕打ちを受けて、僕はもうなにを信じたらいいのか分からないんだ」

 正直に思いの丈を伝えると受話口から息遣いだけが聞こえてきた。顔が見えていないから怖かった。

「……お前変わったな」

「そうかな」

「ああ、変わったとも。――なぁリク」

 頌大の声色が変わった。もう一段階重く冷たく、まるで初対面の話し方みたいだった。不自然な場所で一呼吸をしてから頌大は言った。

「リクのツイッターに毎回アンチコメントしてるの。あれ俺なんだ」

「えっ」

 突然だった。耳の裏から首筋へ汗が流れていくのを感じた。

「ちょっと待ってくれよ、どういうことだよ」

「そのまんまだよ。リクをネットでいじめてたのは他ならぬ俺ってこと」

「どうして……。毎日のように粘着して僕を傷つけてきたのは頌大だって言うの? 嘘だよね。冗談だよね。友達じゃないか!」

「友達だと思ってたよ」頌大は叫んだ。「友達だと思ってたのに、リクは裏切った。人付き合いを損得で考えたり、遊ぶ約束を一方的に破られるのはもう嫌なんだ」

「それが頌大の言う裏切りってこと? 僕の性格とか都合とか。なら謝るよ。――ごめんって。もうしないって約束するから許してよ」

「そうじゃない。リク、本当に分かっていないんだな。芸人になるって相談をしたときアドバイスくれただろ。俺、あのときすごい嬉しかったんだ。でもあれってさ、嘘だったんだろ」

 嘘。陸斗は答えられずにいた。

「塾にいるときリクの鞄のなかが見えたんだ。普段参考書以外で本なんか読まないだろ。だから不思議に思った。ちょうど本屋に行く機会があって塾で見た表紙の本を探した。その本を開いたら驚いたよ。くれたアドバイスが同じ文言でそのまま本に載っていた」

「頌大、誤解なんだ。説明させてくれって」

「どこがどう誤解なのか教えてくれよ」

「確かに、本の受け売りだよ。僕はアドバイス慣れしてないから、本に頼ってしまった。それは認める。でもそこから発展させたアドバイスは僕の言葉だ。芸人の道は保留して今は勉強するべきだって」

 また嘘を吐いた。嘘を重ねてどれが本当の気持ちが分からなくなっていく。

「リクのアドバイスは本気だって言うんだな」

「うん」

「ならリクだって親の言うことを聞くべきだ。リクが俺にくれたアドバイスをそっくりそのまま返すよ。親の言う通り行動すればいいだろ。なのにそれをしたがらない。それって自分でしたアドバイスに自信がないってことじゃないか。いい加減なアドバイスを俺にしたってことだろ」

 頌大は陸斗のうわべだけの発現を見抜いていた。もうおしまいだった。 

「嘘を取り繕うのを止めろよ。もうそういうのいいよ」 

 言葉を挟もうとしても頌大はそれを遮った。

「俺のためを思って言ってくれたのかと本気で信じてた。自分の言葉で話してくれたって。なのにそれが他人の言葉なんて。リク、いつから変わっちゃったんだよ。昔はこんなじゃなかっただろ? 人を裏切ったり、不正をしたり、なぁリク。いつから変わっちゃったんだよ。戻ってきてくれよ……」

 頌大は泣いていた。自分の無味乾燥とした毒にも薬にもならない言葉たちがこんなにも頌大を傷つけるなんて思わなかった。

「頌大、ごめん。本当にごめん。僕が全部悪かった。認めるから……。許してくれよ」

「ごめんな、リク。俺は今のままのお前と友達にはなれない。――じゃあな」

 電話が切れてからも、陸斗はスマホを握りしめていた。

 大切な友人を失った感覚がいつまでも体を締め付けていた。

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