26

 幽子はさまよっていた。陸斗の家を離れたら行く当てなんてなかった。定位置がないことがこんなにも不安だとは思わなかった。

 ――なんであんなこと言っちゃったんだろう。

 幽子は後悔していた。いくらまいっていても言ってはいけない言葉はある。陸斗にとってはお母さんのことがそれだ。傷つくことは分かっていた。でも分かっていて言葉の刃を突きつけた。自分が家族に恵まれなかったことが重なってしまい、陸斗には同じ道を歩んでほしくなかった。けれど、それだから陸斗のために見ていたことを伝えたなんて自己弁護だろう。本心は傷つけることでなぜか自分が回復する、そんな錯覚にあったのだ。実際なにも変わらないのに。

 善人であろうと思う。でもそれができない、自分の人間らしい部分に嫌気がさす。

 いつしか幽子は家の前で立ち止まっていた。鈴木葵の家は自分の家だけど他人の家のようだった。帰る場所がないのに吸い寄せられるように辿りついた。幽子は門を抜け小さな庭に踏み入れる。和紙に水が染みるように急速に記憶が戻ってくる。

 プールを広げたり、アサガオを植えたり。庭にある花壇もそのままだ。そのまますぎて複雑な気持ちになる。雑草が生い茂り手入れが行き届いていない庭を想像していた。自分が亡くなったのだから、どこかでそうあってほしいと思っていた。でもそんな悲嘆を微塵も感じさせない風景。花壇の花が生気を放ちグロテスクな原色が映る。

 幽子は進めなかった。死んでいるのに痛みを感じた。胸の中心を押さえて痛みをしまい込む。自分が破壊されるのを感じる。拒まれている、そう感じた。自分のことを全く理解してくれなかった親の住む家に居場所はなかった。やっぱり死んでからも居場所はないのだ。

 走りだした。自分は死んでいるのに何事もなく社会が続くことが恨めしい。なにもかもうるさかった。助けて――幽子は叫んだ。しかし、誰にも聞こえない。

 静かな場所に行きたかった。鈴木葵の墓に行きたいと願った。いつもだったら目を閉じて開けた瞬間に願った場所にいた。でも何度やっても無駄だった。

能力が消えていた。もうどうでもよくなって諦めの笑いが出てきた。

 数日間探し続けても幽子はどこにもいなかった。近場はすべて回った。休みの日は遠くを調べた。心当たりのある場所はもう回りきったと思う。それでも幽子は見つからなかった。

 驚きはなかったと言えば嘘になるけれど、お母さんが誕生日を覚えていないことを冷静になってみればあり得た話だった。じゃなきゃケーキの好みを忘れやしない。

 部屋の空白が寂しいまま迎えた中間テスト当日。

 幽子からもらった解答用紙はまだ持っていた。見ることはいけないことと思いながら、お母さんのことを考えると学校に来ても手放せずに悩んでいた。でも――。これに手を出したら終わりとの思いもあった。自分や幽子に対する裏切りだった。

 目を閉じた。幽子は言っていた。君は成績が上がっても不幸せそうだ、と。

 陸斗は解答用紙を少し破った。紙の裂ける乾いた音がした。止まらなかった。破片になった解答用紙は下駄箱そばのゴミ箱に入れて教室に向かった。独力だけでテストに臨む。勝算なんてないのに、なぜかとてもすがすがしい気分だった。

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