第215話

 僕は何者なのか、いや、何者という概念すらなかった。言われたことをこなす。そこに感情などというモノは介在しなかった。そもそも感情とは何なのか、それすらわからない。


 本というモノを読んでから、それらが幾分かわかってきた。皆こんなことを考え、悩み、生きているのかと初めて理解した。それはまるで長い眠りから覚めたように、僕は様々な感情や想いを重たい瞼を擦りながら知ることができた。


 読んでいた本も丁度よかった。


『クール・ハンド・ルーク』

『刑務所のリタ・ヘイワース』


 どれも監獄、刑務所を舞台にしている。この本の登場人物達は、生きることの意味を感じることができない。夢や希望をもっていない。


 おそらく読者、普段生きている読者に夢や希望を与えることを目的として書かれているのだろう。


 しかし、僕は夢や希望を語る以前の問題を抱えている。


 何故生きているのかわからないのだ。僕は無味無臭、透明人間だ。それは暗殺を生業にしていたのなら優れた才能なのかもしれない。しかし人間、いや生物としては失格だ。腹がへったら食事をしたり、眠たくなったら眠りにつく、死を予見したのならそこから脱する。そして子孫を残す。子孫を残すことは僕の年齢で考えれば、まだ早いのかもしれないのだけれど、おおよそ生物が生き残る為の行動を僕は全くと言って良いほどとってこなかった。


 それにしても僕はこんなにお喋りだったか?今まで何も考えてこなかった。本を読んでからというもの様々な想いが溢れ、流れる川のように吐き出している。


 何にせよ15年分の思考がたまっているのだからこのくらい許してほしいものだ。


 さて、今の現状を整理してみよう。僕は自殺をした。そもそも何故自殺したのかわからない。僕の中の潜在意識が、生きることに拒絶反応を起こしたのだろうか。だけど僕は無味無臭、透明人間だ。自分にそんなことを考える思考回路などそもそもあったのか疑わしい。


 刷り込みって知ってる?卵から生まれたばかりの雛はまず最初に見たものを親だと思い込むらしい。僕は生まれたときの記憶はない。物心ついた頃と言えば今現在だ。さっきも言ったけど長い眠りから覚めたのが今だとすれば、自殺する前は眠りの中、夢の中だ。今の僕からすれば悪夢と言った方が的確かもしれない。


「きぼう……」


 生まれて初めて喋った言葉が、希望とは皮肉がきいている。希望とは何なのか、今の僕にはまだよくわかっていない。


 もしかしたら僕はそれを欲していたのかもしれない。あの悪夢の中で、希望という言葉すら知らなかったあの時、無意識に潜在的に求めていたモノなのかもしれない。


 僕は死んだ。自ら命を絶った。しかしどういう訳か僕は甦った。目の前にいる神様のおかげで。


「そう、貴方が僕を甦らせたんでしょ?」


 神様は混乱していた。いや?そのふりをしている?いずれにしろ僕はようやく自我というものに目覚めたんだ。


 しかし、僕の問い掛けのせいでレッドの授業は中止となってしまった。

 

 僕は二段ベッドの上から飛び降りて、監獄にある図書室へ向かった。


 案の定誰もいない。


 本を読まないから皆犯罪を起こすんだと、半ば強引な結論をつけて僕は、並んでいる本棚を覗いた。


『苦悩の首都』

『透明人間』

『時の探検家たち』


 殆どすべての書籍に興味を持った。とりあえず目についた本を幾つか拝借した。もう少しで休憩時間が終わる。


 自分の牢屋へと向かおうとする最中、光景を目にした。


「おらおら!!」


 ぐふぅ……


「まだたんねぇ……よ!!」


 がっ!


 殴られているのは神様から字を教わっている少年レッドだ。僕はそれを遠くから眺めている。この光景を見るのは2度目だ。


「おい、もう時間が」


「ったく仕方ねぇな!!おらよ!!」


 タンクトップを着ている柄の悪い男、まぁここは監獄だ、そういう連中が集まってるのは当然だ。その男の蹴りがレッドの腹部に当たり、彼等は去って行った。


 レッドはしばらくして立ち上がった。その時また目が合った。そして苛立ちげに呟く。


「へへへ、笑いたきゃ笑えよ」


 僕は黙った。こう言うときにどんな会話をするのか、ただわからなかったのもあるが、会話事態にまだ慣れていないのだ。


「笑ってもくれないのか……」


 そういうわけじゃないのだけど、と声に出さずに言い返した。いや、思い返した?これじゃあ意味が変わっちゃうか?僕は言葉という厄介な代物にあくせくしていると、レッドは言った。


「惨めだろ?オイラみたいに何も持たない弱い人間は、強い奴等にいつも痛めつけられる」


「いつから?」


 僕はレッドに尋ねた。


「さぁ?いつからかわからない。でもオイラ、最近まで死のうと考えてたんだ。ここにいてオイラは生きる希望や意味なんてものがなくなっちまったんだ。でもハルが来て、字を教えてくれて、オイラは希望を手にした。だからあんなに殴られても、毎日が地獄のようでもオイラは正常でいられる。生きていられる」


 殴られている姿は決して格好いいものではない。強者と弱者の図があからさまに見えるからだ。きっとレッドは照れ隠しのつもりで言ったのだろう。でも僕はそんな彼に憧れを抱いた。


『忘れちゃいけないよ、レッド。希望はいいものだ、たぶんなによりもいいものだ、そして、いいものはけっして死なない。』


 『刑務所のリタ・ヘイワース』にもそのようなセリフがあった。偶然にも『刑務所のリタ・ヘイワース』に出てくる登場人物もレッドという名前だ。これは偶然か?それよりも……。


 僕の希望は?夢は?なんだ?


「どうして、字を覚えることが希望になる?」


 レッドは答えるのを躊躇った。恥ずかしそうにしながら口を開く。


「……ある女の子から貰った手紙を読みたいんだ……ってお前!今笑ったろ!!」


 僕は何故だか笑ってしまった。それはレッドの希望に期待をかけすぎたからなのかそれとも字が読めないのに異性から手紙を貰うのがおかしかったのか。わからない。でも僕は笑った。そして希望を見つけた。


 僕の希望は希望を見つけることだ。

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