煙草の煙
中村ハル
第1話
一人きりの夜。
友達もいて、仕事もある。
それでも、私は、完璧に孤独だった。
何が寂しかったのか、何故、孤独だと感じたのか、それは今となってはもう、さっぱりわからない。
仕事を終えて一人きりの家に帰り、鍵を開けて、ヒールを脱ぎ捨てる。その瞬間に、真っ暗な部屋に心を折られたように、私はどさりと鞄を床に落とす。
壁のスイッチをぱちりとつけて、部屋が煌々と明るく灯る。それと同時に、私の心は、電源が落ちたかのごとく、ぴたりと動きを止めてしまう。
惰性で食事を作り、もそもそと胃に落とし込む。同僚から貰ったお洒落な缶のクラフトビールのプルタブを起こす気力もなく、だらしなく背を丸めて床に座る。
そうして、テーブルの上の灰皿を引き寄せ、煙草に火を点けた。
煙草は別れた彼が置いていった物だ。灰皿も。
銘柄は、よく知らない。
白いパッケージで、少しだけ、バニラみたいな匂いがする。
吸えないのだ。それまで、吸ったことすらなかったのだ。
今でも、吸っているわけではない。ほんの少し、煙を口の中に溜めるだけ。
小さな火の灯る煙草の先を見つめながら、白く煙たい匂いの筋が指先から立ち昇って、天井近くで霧散するのを眺めるのが好きだ。
唇に咥えて、恐る恐る息を吸う。
ぽうっと、煙草の先の火が燃え立つ。
少しだけむせて、後は口に入った煙が喉に達する前に、慌てて吐き出す。
せわしなく、そして少し慣れると、今度は細く。
本当は、嫌いなのだ、煙草なんて。
嫌なのだ、バニラの匂いのする煙は、あの人を、思い出させる。
寂しさを紛らわせるためだけに、ただ、煙草を吸い続けた日々。煙草を吸うためだけに、生きていたような日々。
何が、それほど、孤独で苦しかったのかは分からない。
でも、それが、すべてだった。煙草を吸う、というその行為だけが、私が生きる理由だった。
他は、何にもいらない。
何も、欲しくない。
LEDの蛍光灯が闇を押しやって、部屋の中は暗がりの一つもない。
そんな眩しい闇の中で、私は立て続けに煙草に火を点ける。
家に帰れば、呼吸をするように、絶えず煙を吸っては吐き出す。
空っぽの身体の中を、白い煙が満たしていく。
バニラの混じった、甘く苦い香りが、私の中を汚して、満たしていく。
頭の芯がしびれて、ただ、白く渦巻く煙の行方を目で追う。
同じ形は、二度とは現れない。
飽きもせずに立ち昇り、私を悦ばせる。
私のためだけに、その肢体をくねらせ、絡みつき、頬を、鼻腔を撫で上げる。
私は唇を少し開け、甘い匂いの吐息を漏らす。
白く揺らめく、煙草の煙。
そんな日々を、どれだけ繰り返したのだろう。
今は、一緒にいてくれる誰かが、傍らにいる。
それが、とても、幸せだと思う。
片時も離れず側に寄り添ってくれるのが、たとえ、何だったとしても…。
テーブルの上の灰皿は、とうに溢れて零れ落ち、床に積もった煙草の吸殻から白い筋が幾本も伸びる。煙草とライターはカートンで、別れた彼がたくさん置いていったままだから、まだまだなくならない。
甘い煙は部屋中に立ち込め、締め切ったカーテンが霞んで見える。目の前は、夢のように、煙の向こうで白く揺れる。
唇に咥えた煙草の先から、煙が昇る。煙の軌道を辿って、張り巡らされた白い糸。
いつからだろう。
煙草の煙は吐き出す先から、蜘蛛の糸のように実態を伴って、細く儚く、それでも切れずに、立ち昇って部屋に散る。煙の軌跡を、白い糸が教えてくれる。
びっしりと、部屋の中には、甘く苦い白い糸が張り巡らされて、私を優しく包み込む。
蜘蛛の巣に捕らわれた虫に似てなす術もなく、けれど私は半ば陶然と、その煙の糸に巻かれて、手足を蠢かす。動く程に糸は手脚に指に絡みつき、もう、身動きもとれない。
その優しい糸に絡まって立つ私に、獲物を求める蜘蛛のように、べったりとしな垂れかかる影。
白く優しく、甘くて苦い、バニラの香りのする姿。
私は鼻腔を広げ、唇を薄く開けて、しな垂れてくる形に顔を埋める。
白く甘い煙でできた恋人は、霧散して、崩れて、また元に戻り、私の頬に触れる。
触れられると、少し煙くて、むせてしまうが、むせて息を吸うほどに、私の中に深く入り込んでくる。私の中を、満たしていく、甘く儚く苦い煙。
私は絡みつく白い影に、微笑みかける。唇の端から、煙草の煙が、零れ出る。
首元に、ゆるゆると、煙のように霞む手が絡みつく。
ああ。
なめらかに、そして、優しく、私の膚の上を、滑っていく。
こふっと、バニラの匂いに咳き込むと、唇から溢れる、煙草の煙。
それは膚をなぞる指と溶け合い、白い糸へと姿を変える。霞んで滲んでいた指は煙の糸を纏って、はっきりと輪郭を結ぶ。
甘く匂いの筋を引いて、白い指が、掌が、私の首を締め上げる。
私の唇は、わなないて、薄く開く。胸の底に溜まった煙草の煙が、細く漏れ出す。
今はもう、息も出来ぬほどに指先が、きつく強く膚に食い込む。
それでも、私の口元は、嫣然と微笑むのが分かる。
ああ。
もっと、強く。
私を、抱いて。
死が、二人を、別つまで。
灰が灰に還っても。
白く甘いバニラの香りは、小さな繭のように、私のすべてを包み込んで、閉じた。
真っ白な、闇の中に、私はひとり。
ほうっと、最期に唇から漏れた白い吐息が、煙だったか魂だったか、私は知らない。
煙草の煙 中村ハル @halnakamura
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