7 虚実皮膜のベストバランス
第14作目にして、書き上げた瞬間に「ああこれだ」と実感したのが
【ガルダイアで割れたカップ】
https://kakuyomu.jp/works/1177354054892340431/episodes/1177354054892609243
という作品。ぜひ先に目を通してください。虚構エッセイの理想的な形の一つがこれで示されたと感じています。
内容についてはご覧いただいた通り、冒頭、SNS疲れについての分析から始まります。2004年にmixiに招待されて以来、複数のSNSを利用してきた経験と観察をもとに書いているので、前半は高階個人が書いたエッセイだと言っていいでしょう。Facebookを最初に構想し構築した人々がどのようなタイプの「種族」で、彼らが意図したのはもっとゆるやかな「生存確認」程度のものだっただろうということ。でも実際に爆発的にユーザー数を増やす中で、もっと濃いつながりを求める人々が出現したこと。その結果いわゆるSNS疲れに陥る人が続出してしまっている状況をざっと振り返り、まとめています。
mixi時代の知人は全く架空の人物で、このような人はぼくのマイミクシィには存在しません。なので、ここからが虚構だと言えばそう言えなくもないのです。けれども、ここに描いた通りの行動をする人はいなくても、今までに知りあったたくさんの人々の中にいても不思議はない人物像になっています。だから、架空の人物ではあるものの、こういう人がいたかもしれないと思わせる程度には不思議な実在感があります。
例えば知り合いの何人かは世界を飛び回っていて、行く先々の建物や町並みや食べ物や音楽などを写真や映像、そして的確な洞察で紹介してくれ、旅から旅の生活の一端をおすそわけしてくれます。そういう人は複数います。
例えば知り合いの何人かはびっくりするほど律儀に「イイネ!」(mixi)や「いいね!」(Facebook)や「ハートマーク」(Twitter)をつけてくれます。ぼく自身は他の人の投稿を全部は見きれないからと早々に読み逃すものがあることを受け入れており、というより諦めており、とてもそんな風に人の投稿にリアクションできないので、ありがたいやら申し訳ないやらなのですが、そういう人も複数います。
例えば知り合いの何人かはせっかくのバカンス先からもログインして記事を書いたり、こちらの記事に反応してコメントをくれたりもします。これもまたありがたいと思う反面、休暇中くらい日本の日常から解放されて非日常を味わえばいいのではないかと余計な心配をしてしまいます。
それから、悲しいことに知り合いの何人かは亡くなってしまいました。この作品に書いたような事情ではなく、ただ事実として、SNSで交流のあった人の中には亡くなってしまうことがあります。そのアカウントが削除されない限り、その人の書き込みは残っているし、ぼくのところに書き込んでくれた言葉も残っているし、時にはSNSが「今日は●●さんの誕生日です」などと知らせてくることもあります。
そんな実際に経験してきたことが背景にあるので、この作品に出てくる、「お気に入りのマイカップが割れちゃったよ!」と日記に書いていた「彼」は実際にいてもおかしくないような存在感を放っています。そしてその「実際に存在したかもしれない彼」を思うぼくの気持ちには嘘はありません。義務感のようにつながり続けねばならないとSNS疲れを起こしてしまいがちな人には、時には「自分自身を保つためには孤独が必要なのだ」と伝えたい思いにも嘘はありません。
この虚構エッセイのエンディングが、完全なフィクションでありながら、わりと語り手──それがぼく自身なのか架空の語り手なのかはぼくにも区別がつきません──の思いがひしひしと伝わってくるのは、そういう事情があるからなのではないか、と思うのです。そしてそれは虚構エッセイの一つの理想形だなとも考えているのです。
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