6 書かれたものは全て虚構である
今回は「虚構エッセイ」の中でもとりわけ「虚構」に焦点を当てて展開します。未読の方はリンク先からどうぞ。
【ある晴れた日に】SFPエッセイ013
https://kakuyomu.jp/works/1177354054892340431/episodes/1177354054892589417
この作品は最も虚構から遠く、高階自身のエッセイと言ってもいいくらいなのですが、同時に内容を読んでもらえばわかるように「仮に高階が自分自身の意見や考え方を書いたものであっても虚構は虚構」という内容になっています。
この作品はSFPエッセイと銘打ったシリーズの13作目で、従ってすでに12編の虚構エッセイを書き上げた後で書いています。最初のうちは「エッセイらしさってなんだろう」とあれこれ試して、だんだんそれが見えてきて「語り手の存在感」である、という考えにたどり着きました。では「虚構ってどういうことだろう」と考える中で、それこそ話の内容を荒唐無稽にしたり、SF的にしたりと試すうち、必ずしも非現実的なことを扱わなくても「語り手を演じる」ということだけで「虚構」にはまるということがわかってきました。
手探りだったものの、「走りながら考える」ならぬ「書きながら考える」日々を通じてだんだん「虚構エッセイ」の像が見えてきました。
そんな中でふと考え直したのは、以前から漠然と考えていた「書かれたものは全て虚構である」という視点に照らすと「語り手を演じる」というけれど、本当はそれすら不要なのではないかというものです。作品からまるまる抜き書きすると
“ たとえそれが、ぼくの個人的な体験に基づき、個人的な記憶をなぞり、誇張もなく偏見も排して誠実に書き留めようとした手記だったとしても、そこにはそのように書こうという「意図」があり、世を論じるでもなく、小説を書くでもなく、言葉遊びをするでもなく、個人的な手記というスタイルを選んだという「方針」がある。有限の文字数で書くものだから当然のことながら、そこには選ばれた話題があり、選ばれなかった話題があり、取り上げた話題をどのタイミングでどう書くかという判断がなされている。つまり「編集」がある。”
という部分がそれにあたります。続くパラグラフの頭に書いている通り「文字で書かれたものは全てフィクションである」と言いたいわけです。ノンフィクションと銘打っていても「編集」された以上は「事実そのもの」であるわけがなく、編集者の意図に沿って情報は取捨選択され、「このように伝わってほしい」という意図のもとに再構成されています。それもまた「虚構」だと言えるのではないかというものです。
もちろん、だとすると世の中にあるエッセイは全て虚構だということになってしまって、わざわざ「虚構エッセイ」などという必要はなくなるのですが。でも元々そのように考えていた以上、この話を避けて通るわけにはいかないな、ということで正面から向き合ってみることにしたのがこの作品です。
エンディングで問いかけているように、「そこに書いたことを1ミリも信じていなくてもあたかも心からそう思っているように書くことができる」というのがここでのポイントで、これは情報に接する際のファクトチェックなどにも通じるリテラシーの話でもあるわけです。
ごく普通のエッセイを書いておきながら、最後の最後に「この内容がぼくの意見だと素直に信じちゃうんですか?」と問いかける部分が虚構っぽいとも言えますが、蛇足といえば蛇足です。あまりにも普通のエッセイで終わってしまいそうだから、つい小心者なので付け足したというのが実情ですが、おかげですごく意地悪く、しかもテキストへの信頼について混乱を引き起こす怪作になりました。
とはいえ、目にした情報をあまりにも容易に信じ込んでしまう人が多く、デマが氾濫する世の中なだけに、「書かれたものはみんなフィクションだから」「書いた人のなんらかの意図が必ず入っているものだから」というくらい冷めたスタンスで物事を見る人が増えてもいいのでは、と大真面目に思います。
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