【ガルダイアで割れたカップ】SFP014

 Facebookで書くことではないかもしれないけれど(註:この文章はFacebookに載せるべく書いていたものだ)、のべつまくなしに友達とつながっていることが大事なわけではない。おそらく、マーク・ザッカーバーグや創業の中心メンバーたちは、そんなことは最初からわかっていたはずだ。というか、むしろ人はわかりあえっこないというのが前提にあったはずだ。対面ではろくにコミュニケーションはとれず、オンラインだと多少自信が持てて、直接メッセージのやり取りはしないまでも、相手の気配や痕跡を感じ取れれば(生存確認とも言うし、ストーキングとも言う)それで満足、という種族が開発したツールなのだ、もともとは。

 

 ところがいろいろな条件が重なって、あれよあれよと世界で数十億人からの人が利用するようになる拡大の過程で、当然のことながら、そんな初期の設計思想やら哲学やらは芥子粒のように小さく見えなくなってしまい、Facebookユーザーは「ともだち!ともだち!」と連呼するようになり、友達至上主義的とでも呼ぶほかない、いささか薄気味悪い状況が現出してしまった。リアル版『20世紀少年』である。その結果Facebook疲れを起こす人が出てきている。

 

 日本では2005年あたりにmixiで同様な症状を体験済みの人も多いと思うが、Facebook疲れは、おおまかに言えばこんな症状を呈する。誰に頼まれたわけでもないのに片っ端から「いいね!」をつけねばいけないような義務感にかられたり、「友達」の投稿を一つも読み逃してはいけないと思い込み、一日中スマホやパソコンの画面にはりついた状態になったりしてしまう。その結果、これまた誰に頼まれたわけでもなく、相手も気にしていないにもかかわらず、「いいね!」を押せなかったことや、投稿を読み逃したことに罪悪感すら覚えたりする。とはいえ人間なので24時間張り付いていることなど無理で、当然のことながらどうしても取りこぼしが出てしまい、そのことに無力感を覚えたり自分を責めたりしてしまう。

 

 これは何年も前の、しかもmixiでの話だが、国内外の世界遺産の地を次々に訪ね歩いている友人がいて、行く先々から旅先の写真や旅の記録をアップしていた。出不精のぼくにとってそれらは、いつも珍しく刺激に満ちていてとてもありがたいレポートだったのだが、一点だけ気になっていたことがあった。彼が旅先からも知人のエントリに「イイネ!」をつけたり(mixiではカタカナの「イイネ!」なのだ)、まめにコメントを書き込んだりしていることだった。ぼくが気になったのは「旅に出てまでmixiをしなくてもいいのではないか?」ということだ。余計なお世話と言えばそれまでで、どこでmixiを使おうが勝手である。でも、日本を離れてすごい景色やすごい文化の中に飛び込んでいる時くらい、mixiなんかから離れればいいのに、と思って見ていた。やはりというか、やがて彼はmixi疲れに陥り、その後いろいろ不幸なことになってしまった。

 

 冗談みたいに聞こえるかもしれないが、本当にそういう人が出てきてしまうのだ。10何年前にmixiをめぐって全く同じ現象を見てきたし、その後Twitterが勃興した時にもほとんど同じようなことが言われたし、Facebookでも同じ、若干ニュアンスは違うがLINEでも同様なことが起きている。要するにどこのSNSでも大なり小なり似たようなことが起きていて、もういまさら珍しい話でもないのに、同じ罠にはまる人が後を絶たない。

 

 少し冷静になって、そんな道具がなかった時代の人間がどう振る舞っていたかを、ほんのちょっと考えればすぐにわかることなのにと思う。24時間誰かとべったり一緒にいるなんてどんな人にとっても到底耐えられないことだし、ましてやそれが複数の「友達」が相手となったら、間違いなく心か体の調子を崩す。当たり前の話だ。人間にはそんなことはできないのだ。そんなことはできない生き物なのだ。

 

 でもまあ、この問題がここまで顕在化したのはFacebookの“おかげ”と言ってもいいかもしれない。そう。ぼくは別にFacebookを責める気はない。mixiもTwitterもLINEも責める気はない。これらSNSのおかげで「人はつながりあっていたい」という表向きの明るく楽しげな世界観と、その裏返しとして「人には孤独が必要である」という身も蓋もないが極めて重要な事実を再確認できたのだ。

 

 外を向いてさまざまな情報を受け入れる時間も重要だが、同時に外からの情報をできるだけ遮断して内側を整理する時間も同じくらい重要だ。睡眠はそのための最高の装置だが、起きている時間の中でも一人になる必要がある。もしもそれを許さないような環境があるなら(それはブラックな上司かもしれないし、粘着質の「友達」かもしれない)、そんな関係は断った方がいい。少なくとも重視すべきではない。軽んじていい。友達もとても大切だ。でも友達を大切にするにはまず自分自身がきちんと保たれているのが前提だ。自分自身を保つためには孤独が必要なのだ。

 

 昨日、世界遺産巡りの彼が死んだことを知った。ずいぶん前のことだったという。自ら死を選んだらしい、とのことだった。mixiだってとっくの昔にやめていたし、その後彼がほかのSNSに手を出したのかどうか、ぼくは知らない。でも、もしもあの頃と同じように友達やらつながりやらを自分自身よりも大事にするような無理を重ねていたのなら、その姿勢が、そのあり方が彼を追い詰めたに違いない、と思ってしまう。勝手な思い込みかもしれないが。

 

 2006年ごろ、危険な土地に赴いた彼が「お気に入りのマイカップが割れちゃったよ!」と書き込んでいたmixi日記をなぜかありありと思い出す。そこにはあまりセンスのいいとは思えないカップがまっぷたつに割れた写真が添えられていた。暗い宿のテーブルの上に置かれたカップはフラッシュでやけに白々しくうつり、周りは暗く沈んでいた。その他の写真はその日の観光の様子だった。そこはガルダイアという場所で、中東だったか、北アフリカだったかのイスラム圏で、1000年も前の街並みが残っているとのことだった。パステルカラーの、のっぺりした壁の真四角な建物がぎっしり並び、丘の上には尖塔が立っていた。

 

 ぼくはガルダイアで割れたカップのことを思い浮かべる。ガルダイアが国の名前なのか町の名前なのか知らないが、そこではきっとコーランの詠唱が聞こえていて、賑やかなバザールがあっただろう。ぼくはこうしてお前のことを一人で考えているよ。お前も、ガルダイアで割れたカップのことを、一人、ただ、思い浮かべる時間を持つべきだったんじゃないのか。

 

(「【ガルダイアで割れたカップ】」ordered by 山口 三重子-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・友人などとは一切関係ありません。

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