第20話 悪魔は主に毒を盛る

 ──数時間後。クロウム騎士団、仮宿舎。


 夜が近付き、窓にぽつりぽつりと明かりが灯り始める。エマの部屋も例外ではなく、風呂上がりの濡れた髪を拭き上げた彼女の手によって、室内は明るく照らされた。


 直後、何者かの気配を察してエマは振り返る。



「……サリくん?」



 薄暗い部屋の壁際に佇んでいたのは、部下であるサリだった。

 エマは嘆息し、「上司の部屋に無断で入るなんて何考えてるのよ」と叱咤しつつ濡れた髪を手ぐしで梳かした。彼女はカーテンを閉め、ベッドに腰掛けて足を組む。



「一体何の用? ポーカーの誘いならお断りよ、あなたすぐイカサマするもの」


「エマさん。……本日は、申し訳ありません」



 重々しく口を開いたかと思えば、突如頭を下げたサリ。

 告げられた謝罪の言葉に、エマは目を細める。



「……何なの、改まって。今日のこと? だったら何も謝る必要ないわ、あなたの軽率な行動は私の教育不足よ。気にしなくていいから部屋に戻りなさい」


「嫌です。俺が帰ったら、エマさん、あのクソ貴族のところ行くでしょ」


「何か問題ある?」


「大アリです。……あんた、今からあの男に何されるか分かってんすか? カラダ売れって言われてんですよ。股開いて好き勝手にヤらせろって言われてんだ、あんたそれに従うんですか」



 サリは静かながらも怒りを孕んだ口調で捲し立てる。対するエマは相変わらず表情ひとつ動かさず、冷静に「そうね」と頷くだけだった。


 その反応にサリは一層苛立ったが、彼女は続ける。



「一晩我慢するだけであなたの首が繋がるのなら、安いものでしょう。勝手な行動は多いけれど、サリくんは優秀な人材だもの。あなたを失うわけにはいかないの」


「……あっそ。俺の首繋げるために、自分がクソ野郎にカラダ差し出すってわけ」


「ええ」


「ふざけんなよ。俺はあんたのそういうところが大っ嫌いだ」



 サリは大股でエマに歩み寄り、彼女の細い肩口に掴みかかる。そのまま強引に華奢な体を押し倒したサリは、エマを組み敷いて四肢を押さえつけた。


 端正な顔が至近距離に近づき、エマの頬はカッと熱を帯びる。



「っ、ちょっとサリくん、冗談はほどほどにしなさい! 突然何するのよ!」


「あらら、このくらいで動揺しちゃって、あの冷静沈着な騎士長補佐様が意外とウブなんですねー。……本当は経験なんてないんでしょ、あんた」


「……っ、う、うるさい! さっさと退いて、いい加減にしないとぶん殴──」



 ぎしり。言葉を言い切る前に端正な顔が迫り、視界がぼやけて暗くなる。

 二人分の体重を支えるベッドが切なく鳴いて軋んだと同時に、エマの唇は、サリのそれと重なっていた。


 瞬く間に硬直した体。昼間ドビーにぶたれて切れた唇に熱が伝わり、塞がったはずの傷口がぴりぴりと痺れる。


 抵抗どころか、呼吸することすらも出来なかった。

 身をよじることも、顔を背けることも出来ない。

 ただ唇が触れ合っているだけ。けれど、まるで交じり合う視線に魔法をかけられて、体が石にでもなってしまったかのように動けない。


 自分は騎士長補佐。身体能力も高い。しかし、女の自分と男の力を比べてしまえば、男の方が断然強いということも熟知している。抵抗など意味を成さないということも。


 これがサリではなく、ドビーが相手だったとしても、もちろん。



「……っ、いや……っ」



 未知の恐怖を覚えたエマが強く目を閉じ、思わず彼を拒んだ──刹那。


 重なり合っていたサリの唇は、にんまりと弧を描いた。



「……隙あり」


「──っ!?」



 ハッ、とエマが目を見開いた時には、既にすべてが手遅れだった。

 口付けに気を取られていた彼女の手首には一瞬で縄が巻き付き、ベッドのパイプに固く縛り付けられる。


 身動きが制限されたエマはサリの思惑にようやく気が付き、己を組み敷いているそいつを即座に膝で蹴り上げた。「ゔっ……!」と呻いてよろけた彼だが、したり顔で口角を上げると、ベッドに縫い付けられたエマを満足気に見下ろす。



「……ははっ、残念、エマさん。こんな簡単なことで隙見せるなんて、可愛いとこあるんすね」


「……っ、ちょっと、どういうつもりよ! ほどきなさい!」


「ヤダね。ほどいたらあんた、俺の首繋げるために別の男のモン咥えに行っちまうっしょ? でもお生憎さま、俺は俺のやり方で自分の首繋ぐんで。どうぞご心配なく」



 飄々とのたまい、エマのポケットから抜き取った鍵をチラつかせるサリ。それはジゼやエメリナを閉じ込めていた牢の鍵だ。エマは一層焦りをけぶらせる。



「あ、あなた、本当に何考えて……! 忠義に背くようなことするつもり!? だめよ、そんなことしたら自分がどうなるか分かってるの!? やめなさい、いま謝れば見過ごしてあげるから……!」


「だから最初に謝ったっしょ? 申し訳ありませんって」


「なっ……!」


「あんたが正義や忠義に熱いのは知ってるよ。人の内面をよく見てて、情に脆いのも知ってる。俺はエマさんのそういうところが好きで、あんたの下に就いたんだから。……けど、国への忠義? 騎士としての正義? そんなもん、俺には関係ないね」



 サリは躊躇なく言葉を発し、取り出したビスケットをくわえて噛み砕く。ベッドに縛り付けられて歯噛みするエマへ含みのある笑みを向けながら、彼は部屋の明かりを落とすとその身をひるがえした。



「俺が守ってるのは、今も昔も、この国じゃない。──あんただけだよ、エマ」



 振り返ることなく告げ、扉を閉める。何をしでかすか分からない部下の姿を、エマは悔しげに見送ることしか出来なかった。


 一方のサリは彼女の部屋を出て、先ほど重ねた唇を指先で撫でる。口角を上げた彼は手に入れた鍵を回し、「さーて、ひと暴れしますかァ」と舌なめずりをして、長い回廊を歩き始めたのだった。




 *




 一方、その頃。窓のない地下牢の中。

 投獄されたジゼは膝を抱え、力なく座り込んでいた。


 鉄格子の向こうには屈強な見張り番が二人。ジゼの〝歌〟への対策なのか、耳栓らしきものを常備している。


 鉄格子自体も祓魔素材ふつまそざい──いわゆる魔力を無効化させる素材で作られているらしく、唯一の頼みの綱であった魔法も使い物になりそうにない。


 脱獄するのは不可能だろう。

 黙って座り込むジゼの脳内を占拠していたのは、やはり、連れ去られた彼女のことだった。



(エメリナ……)



 このままドビーの手中に収められ、〝不幸〟の烙印に縛られ続けるかもしれない人魚を思い、ジゼはくしゃりと長い髪を握り込む。


 窓のない地下牢。無機質で殺風景な部屋。この場所にいると、昼も夜も分からず、時の流れすら分からなかった幼い頃のことを思い出してしまう。

 閉鎖的な空間で長く過ごしていると、自分でも気が付かぬうちに、移ろう時間の感覚がおかしくなるのだ。


 エメリナが連れ攫われてから、まだ数時間。

 けれど、本当に、〝まだ数時間〟なのだろうか。


 百年経っても見た目が変わらないような自分である。

 気が付かぬうちに、実は何日も経過しているのでは? それどころか、何年、何十年と時が経っているのでは? エメリナはすでに殺されているのでは? 再会することが叶わなかったウェインのように、もう、すべてが手後れになっているのでは──?


 悪い想像ばかりが膨らみ、不安で胸が押し潰されそうだ。



「……エメリナ……」



 縋るように呟いた、直後──何かが壁にぶつかるような鈍い音が、彼の耳に届いた。



「……おい、今の音は何だ?」



 見張りの一人が口にする。隣の男も何らかの異常に気が付いたのか、「耳栓のせいでよく聞こえなかったが、確かに、何か音がしたよな……?」と同意した。


 その時、何者かが地下の階段を駆け下りてくる。現れたのは血相を変えたサリだった。



「お、おい! お前ら何してる、侵入者だ! 人魚の噂が外部に洩れたんだか何だか知らねーが、賊が攻め込んで来やがったぞ!!」



 ただならぬ様子で捲し立てるサリ。見張りの男達だけでなくジゼまで焦燥に駆られ、俯いていた顔を上げる。


 見張りの男二人は顔を見合わせて慌ただしく立ち上がった。



「はあ!? 何だって!? じゃあ、今の音はそれか!?」


「ああ、緊急事態だ! この騒ぎが例の貴族様の耳に触れちゃマズい、責任押し付けられて俺たち全員の首が刎ねられるぞ! 上にバレて騒ぎがデカくなる前に、今すぐ人魚を安全な場所に移す! 人魚の保管場所はどこだ!?」


「だ、第六倉庫です……! そこの水槽に人魚が──」



 ──ゴッ。


 しかし、見張り番の一人が人魚の居場所を吐露した瞬間、状況は一変した。


 悪魔さながらに口角を吊り上げたサリはたちまち豹変し、屈強な男二人の顔面をまとめて蹴り飛ばす。

 残像すら見えない速度。強烈な攻撃を受けた二人は苦鳴と共に倒れ、困惑する間もなく強く髪を掴み上げられる。


 サリは狂気的な笑みを浮かべ、彼らの頭部を容赦なく床に叩き付けた。



「──情報提供、どーもありがとさん。騎士の風上にも置けねえバカ共」



 意識を飛ばした二人を嘲り、サリは口角を上げて再び立ち上がる。ゆらりと牢の中に視線を向ければ、何が起こったのか状況を咀嚼しきれていないジゼと目が合った。



「……っ!?」


「ハロー、ご機嫌いかが? 古代人サマ」


「お、お前……っ、何してんだ……!? 何で仲間を攻撃して……!?」


「別に? たいした理由なんてねえよ。どうもあんたと利害が一致しちまったみたいでさァ、ただそんだけ。喜びな、出獄させてやるぜ? 俺の〝肉〟をその喉で飲めたらな」



 肉を飲む──不可解な言動にジゼが警戒している間に、サリは牢の鍵を開けて中へと入ってくる。「姫を奪還したいんだろ?」と迫る彼は、程なくしてジゼの手枷に鍵を差し込んだ。



「は!? お、おい……!」


「黙ってよーく聞け、古代人。出獄後、あんたが俺の指示にぜーんぶ従ってくれて、尚且つ消えない罪・・・・・がひとつ増えても良いってんなら、この鍵回してやる」


「……!」


「さあ、飲むか? この条件にく。味の保証はしねえが、俺は最後までしっかり火を通す主義だ。身の安全は確保されたも同然。もちろん姫の分までな」



 どうする? と問われ、ジゼは手のひらに汗を滲ませる。


 曖昧な条件。真意の分からない言葉。ただでさえサリは悪魔のような男だ。嘘かもしれないし、罠かもしれない。


 だが、ジゼにとって悪い話ではないし、他にこの牢獄を抜け出せる手立てなどないのは事実。サリはそれをよく理解しており、ジゼの心理も熟知していた。


 彼は、この肉を嚥下せざるを得ない。

 囚われの人魚を取り戻すために。



「……っ、分かった……」



 ややあって、控えめに紡がれた答え。サリは楽しげに目を細め、想定通りだとほくそ笑む。



「飲み込みが早くて助かるね、古代人サマ。さすが、ヤバい肉を何度も飲み慣れてるだけある」


「……おい、笑えねえ冗談やめろ」


「くくっ。まあまあ、仲良くしよーよ。仮にも俺は騎士なんだぜ? あんたが俺の条件を飲んだ以上、名実ともにあんたは俺のご主人様だ」



 かちり。先ほどの宣言通りに鍵が回され、手枷が外れる。

 重みのなくなった手首をさするジゼの前で、サリは自身の胸に手を当て、片膝をつくとわざとらしくへりくだった。



「この命に変えてでも、あなた様を人魚姫のところまでお連れすると約束いたしましょう。我が主」


「……うわ、気色悪っ。普通にしろよ」


「はあ〜? ノリ悪ぅ。ふざけんなよ、俺がスベってるみてーじゃん。なぶり殺すぞ」


「お前ほんとに俺のこと守る気あんのか!?」



 不穏な言葉を口走るサリに一抹の不安を覚えながらも、彼らは立ち上がり、牢を出ていく。


 ジゼの飲み込んだこの肉が、幸福の蜜なのか、それとも不幸の毒なのか。


 おとぎ話の結末は、まだ誰にも分からない。

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