第19話 古代の指標に抗って
「ああ、エメリナ! ようやく会えた、僕の花嫁!」
退路を絶たれた牢の中、エメリナは顔面蒼白で狼狽える。その視線の先には、長らく彼女を捕らえて寵愛していた貴族──ドビーの姿があった。
彼は恍惚と表情を緩め、一歩一歩、エメリナの元へ迫ってくる。
「本当に心配したよ……もう僕の手元には戻ってこないんじゃないかって、毎日夜も眠れなかったんだ」
「……っ」
「さあ、エメリナ、おいで! その美しい顔を僕によく見せておくれ!」
両腕を広げ、感極まった様子でドビーは呼びかけた。
エメリナは血相を変えて後ずさったが、背後は壁。逃げ場などありはしない。怯えるエメリナを抱き寄せてやることもできないジゼは、ただ鋭い目つきでドビーを睨むのみだった。
更に迫ってきたドビーはやがてジゼとエメリナの前に立ち、二人を見下ろす。しかしその瞬間、彼の顔に浮かんでいた不気味な笑みは消えた。
その瞳が冷たく映していたのは、エメリナの肌に残る、痛々しい火傷の痕。
「……エメリナ……? なんだい? その姿は」
「……っ?」
「肌が醜く焼けてしまっているじゃないか。あんなにも美しい姿だったのに」
冷え切った声色。光を灯さない瞳。
隣のジゼになど目もくれず、ドビーはエメリナだけを見つめている。
彼女は今にも泣き出しそうな顔でジゼの髪をぎゅっと握り込み、縋るようにそれを自身の口元に押し付けた。そんな動作のひとつひとつですら、ドビーの癪に障ってしまう。
「なんだ、その顔は……これがエメリナ……? 僕のコレクションだと……?」
「……っ、……」
「違う……そんなはずはない、僕の花嫁はもっと美しい。宝石のように輝いて、儚さと神々しさ、そしてどうしようもない神秘の孤独を、その瞳に宿しているはずなんだ……。表情も変わらず、声も発さず、煩わしい主張など一切せずに黙って側にいるだけ──それが僕の人魚だろ!? お前は誰だ!? 誰がお前をそんな醜い姿にした!?」
怒鳴りつけ、ドビーは唾を飛散させながらエメリナに迫った。彼女の身の危険を察したジゼはすぐさまエメリナの前に出るが、途端に裏拳で頬を殴り飛ばされる。
「っう……!」
「──!!」
「ああ、やはり……外から入り込んだ汚い害虫のせいで、美しかった宝石の輝きが失われてしまったのか」
どしゃり、床に倒れ、頭部を足で踏みつけられるジゼ。革靴の踵がこめかみに食い込み、「い……っ」と苦鳴を上げる彼に、ドビーは冷たい視線を投げかけた。
「恩知らずの害虫が。小汚い身なりの哀れな吟遊詩人にこの僕が声をかけてやったって言うのに、君は僕の愛する花嫁を盗んだんだ。あの日の僕がどれほど悲しんだか分かるかい? 心に深い傷を負ったんだよ?」
「あ、ぐ……っ」
「この僕を出し抜けるとでも思ったか? なあ?」
ガンッ。ガンッ。振り上げられた足が何度もジゼの頭部を踏みつける。
床に激しく叩き付けられる彼の姿にエメリナは声にならない悲鳴を上げるが、ドビーの耳には届かない。
「言っただろう? 殺されたくなければ、何か盗もうだなんて思うなって。わざわざ忠告してあげたのに、愚かなヤツだ」
「……っく、ぅ……っ!」
「ゴミの分際で反抗的な目をするな!!」
さらに頭部を踏み付けられ、鼻からは血が噴き出す。額も出血したらしく、ジゼの意識は朦朧とし、目の前は徐々に赤く滲み始めた。
エメリナは何かを叫びながらドビーの目の前に飛び出し、ジゼを庇うように両腕を広げる。しかし寵愛しているはずの彼女ですらも、ドビーは容易く蹴り飛ばした。
「っ、エメリナ……!!」
「……っ……」
脇腹を蹴り付けられたのか、エメリナは青白い顔で腹部を押さえて蹲っている。ジゼは「てめえ!!」と枷の嵌められた両手でドビーの胸ぐらに掴みかかった。
「アイツのこと大事なんじゃねえのかよ!! 殴るなら俺だけにしろ!!」
「黙れッ!! アレは僕の物だぞ、どうしようが僕の勝手だ!! どうせすぐ治るんだからな!!」
「コイツ……!」
先ほどエメリナのことを『愛する花嫁』と形容していたのは一体何だったのか。本当に彼は、人魚のことをただのアクセサリーや宝石と同じようにしか思っていない。
上流貴族、ドビー・トレイシー。
出会った時から今に至るまで、ジゼが彼に抱く印象は、やはり一貫して変わることがなかった。
──どこまでもいけ好かないクソ野郎。
「てめえ……っ、エメリナのこと、本当にただの石ころと同じようにしか思ってねえのか!? なのに『愛してる』なんて言葉使ってやがったのかよ!? ふざけんな!! アイツは──」
「うるさいうるさい!! 君が僕に何か言えるような立場か!? どうせ君もエメリナを金にしようとしか考えていなかったんだろうが、この盗人!!」
どくり。心臓を掴まれたような感覚に襲われ、ジゼは息を詰める。
得意の虚言を投げ返すことすらできなかった。エメリナを金にしようとしか考えていない──まさに、その通りだったからだ。
人魚は、ただの商品。
自分とウェインを繋ぐための消耗品。
関係性の根底にある二人のしがらみが、ぐるぐると脳内をめぐって飛び交う。
硬直したまま動かないジゼを見上げ、エメリナは瞳を潤ませた。が、やはり彼の口から反論の言葉が飛び出すことはない。
口籠もってしまったジゼを見下ろし、ドビーは「ほら見ろ」と嘲笑う。
「所詮は君も僕と同じだ。エメリナを金の成る道具としか思っていない」
「……ち、が……」
「見たまえエメリナ、滑稽だろう? こいつはお前自身に優しくしていたわけじゃない。お前にある〝商品価値〟を守りたかっただけだ。形が少し違うだけで、考え方は僕と同じ。お前は彼にとっても、ただのアクセサリーやお飾りのひとつに過ぎないんだよ」
「違う、俺は……っ」
「何が違うんだ!! 黙って這いつくばってろゴミめ!!」
再び顔面を蹴られ、床に叩きつけられる。呻くジゼを足蹴にしながら、ドビーは懐に忍ばせていたナイフをおもむろに取り出した。
「何か盗んだら殺す──僕はあの時、確かに警告したからね。それなりの覚悟があってエメリナを奪ったんだろう? 吟遊詩人」
「……う、ぐ……っ」
「だったらお望み通りに、僕がその喉元を切り裂いて殺してあげようじゃないか! あははッ!! 罪人には罰を!! 僕を傷つけた者には死を!! さあ、華麗なる貴族の手で、今すぐ君に断罪を与えてやろうッ!! あはははははははッ!!」
狂気的に目を見張り、ドビーは高笑いとともにナイフを振り上げた。風を切る刃は瞬く間に彼へと迫ったが──しかし。
鈍色の切先は、ジゼの喉を
「……そこまでです」
きんっ──耳鳴りすらしそうな一瞬の静寂を裂き、迷いなく割り込んだ声。
血走ったドビーの眼球がぎょろりと動いて捉えたのは、自らが抜いた剣でジゼを守ったエマである。
「……は……?」
「ナイフをお納めください、トレイシー卿。彼の身柄はクロウム騎士団が保有しています。いくら上流階級のお方といえど、我々の許可なく罪人を殺すことは黙認出来ません」
「……はあぁぁ?」
冷静に告げるエマだが、彼女の主張にドビーは眉根を寄せて青筋を浮かべた。向けられた剣を一瞥し、彼はさらに苛立ちを募らせる。
「女ぁ……! 貴様、たかが騎士長補佐の分際で何を偉そうに命令している!? この僕に剣を向けてタダで済むと思っているのか!?」
「無礼は承知の上です、トレイシー卿。しかし我々にも規則が──」
「黙れ、僕と対等に会話ができると思うなよ血生臭い女騎士がッ!!」
──バシィッ!!
鈍い音が牢に響き、エマの頬は殴打される。
ジゼやエメリナが息を呑んだ直後、それまで静観していたサリの目の色もがらりと変わった。かと思えば、彼は瞬く間に床を蹴る。
張り詰める空気。目にも留まらぬ速度で距離を詰めたサリ。
腰元の剣を引き抜き、瞳孔すら見開かれた目でドビーを捉えながら迷わずそれを突きつける。
しかしその攻撃すらも、エマの剣先がすんでのところで防いで弾き返した。
──カラン。
音を立て、サリの剣は床に落ちる。
「……サリくん、軽率な行動は控えなさい。貴族を殺したらどうなるかわかっているの? あなたが処刑されるわよ」
殴打の際に切れた唇の出血を気にする素振りもなく、静かに部下を叱咤するエマ。攻撃を止められたサリは沈黙を続けながらも殺気を隠さず、露骨な敵意をけぶらせた瞳でドビーを睨みつけている。
彼の視線に気圧されたドビーは後ずさって冷や汗を流し、「き、貴様ら、二人揃ってこの僕に剣を向けるとは、よっぽど死にたいようだなぁ!?」と震える声で吠え始めた。
「み、身の程を知れ、積み上げた死体に群がるハエどもめ!! 貴様ら騎士団が存続できているのは誰のおかげだと思ってる!? 僕のような上流貴族の支援があってこそだぞ!? 僕が上に掛け合えば、貴様らの人生なんてすぐに潰せるんだ!! 僕に逆らうなよ!!」
「……失礼いたしました、トレイシー卿。何とぞ非礼をお許しください。部下にもよく言い聞かせますので」
「そんな簡単に許せるか!! 怪我するところだったんだぞ、僕は!!」
傷口の血を拭いもせずに頭を下げたエマだが、ドビーの怒りはおさまらず彼女の髪を掴み上げた。
「おい女、詫びるならそれ相応の覚悟があるんだろうなァ!? 僕は怒っているんだぞ!? 貴様らの首を刎ねることも容易い!」
「……心得ています。私はどうなっても構いません。その代わり、部下とこの罪人の処遇はこちらに任せて頂けませんか」
「ほう! なら、貴様はどうなってもいいんだな!?」
ぐっとエマの髪を強く引っ張るドビー。サリの眉間には一層深いシワが刻まれるが、上司の指示に従ってその場を動くことはしなかった。
ドビーはエマの顔をまじまじと見つめ、下卑た笑みを浮かべる。
「ふ、ふん。よく見れば整った顔立ちをしているじゃないか。そうだなァ……いいだろう。それなりに
「……ご厚意痛み入ります」
「ああ、いいとも。今夜、宿の僕の部屋に来るといい。そこで誠意を尽くして詫びて貰おうか」
髪を掴み上げられたまま、そろりと顎に添えられた手。上向かされたエマは表情ひとつ変えずに「ええ」と肯定した。
夜に女が男の部屋を訪ねて誠意を見せる──その行為にどういった意味合いが含まれているのか、分からないわけではない。従順に頷いたエマを見つめ、サリは静かに手のひらを握り込んだ。
一方でドビーはにこやかに微笑み、「話が分かる女で助かるよ」とエマの髪を解放し、今度はエメリナに視線を移す。
びくりと震え上がって逃げようとする彼女の髪を即座に捕まえた彼は、激しい抵抗も意に介さず人魚を牢の出口へと引きずり始めた。
「っ、エメリナ!!」
「──!!」
激痛が走る体を強引に起こし、エメリナの元へ駆け寄ろうとするジゼ。しかし痛めつけられた体はうまく動かず、立ち上がる前にどしゃりとその場に崩れ落ちてしまう。
「う……っ、くそ、エメリナ……っ」
言うことをきかない体の重みに耐え、手を伸ばすが、届かない。届いたとしてもその手に触れることなど出来ない。
泣き叫ぶエメリナは牢の中から引きずり出され、ドビーによって連れ去られていく。声など聞こえないはずなのに、『ジゼ』と己の名を呼ぶ彼女の声が、彼の耳には確かに届いていた。
遠くなる足音。少しずつ見えなくなる姿。
引きずられて剥がれ落ちたエメラルドの鱗ばかりが、宝石のように床に散らばる。
「っ、はあ、エメリナ……っ、くそ、エメリナを、返せ……! ちくしょう……ッ!」
「……面白いこと言うのね。自分が盗んでおいて、返せだなんて」
こつり。ブーツの踵を床に打ちつけ、落ちた剣を拾い上げながらエマが告げる。彼女の言葉にジゼは声を詰まらせたが、すぐに奥歯を軋ませた。
「黙れ……っ! 俺は、あいつを、ただ……」
「ただ、何? あなたはあの子の何に執着しているの? 希少価値? 見た目の美しさ? 商品として魅力的だから? 確かに、闇市でオークションにかければ国ひとつ買えるぐらいの価値がついてもおかしくないわね」
「うるせえッ!! もう金なんてどうだって良いんだよ!!」
床に視線を落としたまま怒鳴りつければ、狭い牢獄にジゼの声が轟く。静寂が包む中、彼は力なく蹲り、自身の頭を抱えた。
「本当は、少し前から気付いてたよ……もう、残ってたウェインの寿命なんかとっくに尽きて、死んじまってんだろうって……」
「……」
「今さら金なんか作ったって、何の意味もないって、本当は気付いてた……人魚を見付けんのが遅かったんだ……俺はただ、現実を認められずに、エメリナにすがってるだけだった……」
「だったら、もういいでしょう? あの子を手放しても」
「ダメなんだよ!!」
エマの指摘に声を張り上げ、ジゼは顔を上げる。目を細める彼女と視線を交えながら、ジゼは「ダメだ……」と再度繰り返した。
「アイツは、渡さない……何がなんでも、俺が取り返す……」
「……あなた、なぜあの子にそこまで固執しているの? 金を作る必要はないんでしょう?」
「俺は、エメリナを〝不幸な人魚〟にしたくない……」
か細く伝えれば、エマは目を細めたまま口を噤んだ。
──人魚は不幸な生き物だ。
書物の中で、古代の人間達が出した答えに、ジゼは抗う。
「人魚は不幸な生き物なんかじゃない……たくさん笑うし、かと思えばすぐ怒るし、拗ねると面倒くさくて、でも、また幸せそうに笑う……。〝不幸〟なんて、人間が独断で決め付けた勝手な指標だ。声が出なくて怪我しやすいってだけで、哀れな生物だと思い込んでる」
「……」
「エメリナは道具じゃない。宝石でもない。意思のある生き物だ。幸せになっていいんだ。……なのに俺たちは、すぐにそのことを忘れる。声が聞こえないから。体が脆いから……ただそれだけのことを人間の物差しで傲慢に測って、相手が自分より劣ると思い込む。俺は、アイツをそんな物差しで測りたくない……だから、俺が必ず──」
「くだらないわ」
エマはジゼの主張を遮り、彼に背を向けた。先ほど拾った剣をサリに投げ渡し、彼女は牢の出入り口へと歩む。
「結局、人魚に情が移ったってだけでしょう? あなたこそエメリナの可哀想な境遇を哀れんで、自分が救えると思い込んでるだけのただの思い上がりよ」
「っ、違う、俺は……!」
「でも、今の話を聞いて分かったことが一つある」
こつり、足を止め、エマは鉄格子の前で振り返った。長い髪を耳にかけ、彼女は告げる。
「──あなた、ちゃんと人間よ。ジゼ」
言葉を紡いだ口元が、どこか笑っているように見えて。
ジゼは息を呑んだが、すぐにエマは「行くわよサリくん」と部下に指示を出して牢から離れた。
それまで何も言わず静観していたサリも黙って彼女に従い、扉を施錠して後に続く。かくして、牢には冷たい静寂が戻ってきた。
その場に残されたジゼは、満ちる静寂の中で一人、壁に立てかけられた空っぽの
──あなた、ちゃんと人間よ。ジゼ。
「……にん、げん……」
鏡に映る自分には、ヒレも、鱗もない。見慣れたいつもの自分の姿が映っている。腕があって、脚がある、ただの人間の姿が。
自分は、人間。
至極当たり前のその事実を、彼は数百年生きて、初めて嘘偽りなく誰かに告げられたような気がした。
自分が、ちゃんと、人間であると。
「俺は……化け物じゃ、ない……」
呪われた喉元をさすり、掠れた声で紡いで、ジゼは痛む体を起こしながら鉄格子の中で俯く。
鏡に映った一人の人間は、連れ去られた人魚を思い、ただ無力に膝を抱えることしかできなかった。
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