第15話 左側に遺された贖罪

 とぷりと日が落ち、農村ポルタは虫の音が響くだけの静寂に包まれる。窓際に腰掛けて夜空を眺めていたジゼは、以前よりも少なく感じる星々の光を仰ぎながらぼうっと遠くを見つめて口を閉ざしていた。


 足元には、昼間購入した高級蜂蜜。

 そして、うんともすんとも言わない鏡。



(人魚が全然出てこねえ……)



 疲弊した表情で溜め息をつく。どうやら彼は、蜂蜜による人魚の誘導作戦に失敗したらしい。


 はあ〜、と再び深く溜め息を吐きこぼしたジゼは、「人魚」と静かに呼びかけ、努めて謙虚に、優しい声色を紡ぎ始めた。



「なあ……この前は、俺が悪かったって。ちゃんと謝るから出てきてくれよ。お前、何も食ってないだろ? いくらでも蜂蜜食わせてやるからさ……」


「……」


「おい、もしかして体調悪いとかじゃないよな? どこか痛いところでもあるのか? 一瞬だけでいいから顔見せろよ、怒ったりしないから」


「……」


「……くそ、コイツ、マジで頑固だな……」



 前髪を握り込んだジゼ。彼は一瞬黙り込み、何か考える素振りを見せたが、ややあって突如「あーあ!」と大袈裟に声を張った。


 その声に驚いたのか、反応がなかった鏡面にはわずかな波紋が浮かぶ。ジゼは構わず言葉を続けた。



「どうやら人魚姫さまは、俺の顔なんざ二度と見たくもないらしいなァ! 仕方ねえ、売るのは諦めて、もう鏡ごとこの宿に置いていっちまう・・・・・・・・かぁ!」


「……!!」



 ──ちゃぷっ。


 声高らかに宣言した途端、静かだった鏡面がエメリナの動揺を表すかのように揺れる。ジゼはしっかりとそれを確認し、わざと大きく足音を立てて扉へと向かった。


 がちゃり、ドアノブをひねり、彼は告げる。



「じゃあな、アホ人魚! もう二度と会うことはねえぜ、さよーなら!」



 その言葉を最後に、バタンと扉は閉められてしまった。


 静まり返る部屋。ベッド脇に立てかけられたまま揺れる鏡面。やがて、ぷくり、泡沫が浮かぶ。


 それまで一切姿を見せなかったエメリナだが、静かな部屋の様子に怖気付いたのか、しばらくするとついに鏡の中から顔を出した。


 ぱく、ぱく。


 不安げに耳ヒレを下げ、泣き出しそうな表情で何らかの言葉を紡ぎながら這いずり出てくる彼女。


 しかし、エメリナの体が半分ほど鏡から出てきたところで──バッ、と布の広がる音が響き、その背には暗い影が落とされた。



「オッラアアア!! やーーーっと捕まえたあぁぁ!! まんまと騙されやがったな、このクソボケ人魚があああ!!」


「──ッ!?」



 直後、真後ろで待ち構えていたらしいジゼが勢いよく飛び出してきてエメリナの体を毛布越しに拘束する。

 当然暴れようとするエメリナだが、彼は毛布でぐるぐると彼女を包み、直接肌に触れぬよう安全を確保したままベッドの上に押し倒した。


 薄手の布にくるまれてミイラ状態になった人魚に覆いかぶさった彼は、にたりと口元に不敵な笑みを浮かべる。



「くっくっく……ようやく捕まえたぞ、人魚ォ……」


「~~っ!!」


「おいおい無駄な抵抗はよせよ、もう逃げられねえぞ。テメェは売りに行くたび鏡の裏に隠れて全然出て来やがらねえからなァ、俺も後ろに隠れて全く同じことしてやったぜ。ざまーみろ、ばァァァ〜か」



 いびつに口角を上げながら嘲笑うジゼ。その表情たるや、もはや舞台の悪役さながらである。


 先ほどの『置いて出ていく』という演出も、全ては彼のハッタリだった。扉の開閉音のみ大袈裟に響かせたのちに鏡の裏手へ回った彼は、不安がったエメリナが出てくることを見越して待ち構え、まんまと策にハマったところを捕獲したというわけだ。


 布越しではあるものの、二人の対面は約二日ぶり。じたばたと暴れるエメリナ様子を見る限り体調面に問題はなさそうで、ジゼは密かに胸をなで下ろす。



「ったく、余計な心配させやがって……。拗ねんのはいいけど、顔ぐらい見せろよ。あとせめて何か食え」


 ──べちんっ!


「ゴルァ!! テメェ尾ひれで俺の尻を叩くな!」



 ジゼの臀部にヒレを叩き付けたエメリナの両頬を毛布越しにつねり、ジゼは毛布を掻き分けて彼女の顔を覗き込む。

 すると、目元を真っ赤に腫らしたエメリナがジゼをきつく睨みつけていた。潤んだ瞳と視線が交わり、ジゼは思わず狼狽える。


 まさか、水中でずっと泣いていたのだろうか。



「お、おい、何泣きそうな顔してんだよ……そんなに嫌だったのか? 俺の顔見るの」


「……」


「……それとも、俺がこの前、お前に〝嫌い〟って言ったせい?」



 控えめに問いかけた瞬間、エメリナの表情は分かりやすく悲哀を帯びてぽろぽろと涙を落とし始めた。ジゼはギョッと肩を震わせ、「うわあああっ!! ちょ、泣くな泣くな!!」と慌てふためく。



「わ、悪かった! 俺が全部悪かったって! あの時はちょっと夢見が悪くて、つい八つ当たりしちまったんだよ……!」


「……」


「よく考えてみろ、俺はただ『人魚なんか嫌い』って言っただけだろ!? でも、別にお前のことが嫌いって言ったわけじゃない! な!? ほら、俺そんなにお前のこと嫌いじゃねえから! 多分……!」



 咄嗟に絞り出した言い分を並べ立ててみれば、それまで泣いていた人魚の顔が僅かに上向く。彼女は訝しむような表情でぱくぱくと何らかの言葉を紡ぐものの、いつものように声にはならない。


 けれど、ジゼには何となくエメリナの言わんとすることが読み取れた気がした。



「……ほ、ほんとだって。嘘じゃない」


 ぱく、ぱく。


「は? なんだよ、俺の言うことなんざ信じられねえって言うのかよ」


 ぱくぱくぱく。


「まあ、無理もないけど……いやでも、もう少し信用してくれてもよくないか?」



 流れるように続く会話。

 彼女への返答の五割は当てずっぽうだったが、残りの五割はエメリナの唇の動きも含めてそれなりに読み取れている自信があった。


 ジゼは訝しげなエメリナの頭を毛布の上から撫で、静かに語りかける。



「……なあ、機嫌直せよ。お前が大人しいと、なんかこっちまで調子出ねーんだよ……」


「……」


「この前は悪かった。ほら、これで仲直りだ。……許してくれるか? エメリナ」



 普段滅多に呼ばない名前で呼びかけ、毛布越しに彼女の手を握る。

 エメリナはしばらくムムムと口元をへの字に曲げていたが──やがて観念したのか素直に頷き、毛布の中でもぞもぞと身じろいだ。


 どうやら『離して』という意思表示らしい。

 そこでようやく、ジゼはエメリナをベッド上に押し倒しているという現在の状況を冷静に自覚し、サッと顔を青ざめる。



「うっ、うおああッ!? わ、悪い、重かったか!? 痛かったのか!? 火傷は!?」



 矢継ぎ早に問えば、エメリナはふるふると首を横に振った。どうやら怪我はないらしいが、包まれていた毛布を抜け出した彼女の表情は相変わらず覇気がない。


 耳ヒレを下げたままジゼを見つめたエメリナは、何らかの言葉を紡いで、ゆっくりと彼の胸に擦り寄ってきた。



「え!? お、おい、危ないって! ホントに火傷するぞ?」


「……」


「……エメリナ?」


「……」


「……何だお前、どうした? ははーん、さては寂しかったんだろ」



 やけに密着してくるエメリナは、冗談交じりに問いかけたジゼの言葉にも素直に頷く。その様子にジゼは笑い、普段ならば即刻引き剥がすであろう人魚の抱擁を大人しく受け入れた。



「鏡の中なんかに立てこもるからだぞ、ばーか」



 言い聞かせ、そばにいることに安堵しながら息を吐く。


 今は素手であるため、彼女を抱き返してやることは出来ない。下手に身を寄せ合うことも出来ない。

 その肌に触れることが出来ない現実が、ほんの少しだけ、歯がゆいと思ってしまう。



(もしこいつが人間だったら……なんて、何考えてんだろうな、俺)



 無意識のうちに片手をもたげ、翠色の美しい髪を掬って撫でた。繊細な人魚の肌には触れられないが、髪ならばいくら触れても痛がられることはない。


 人魚の髪は撥水性が高く、水から出ても濡れそぼったり湿ることは無いのだと聞いたことがあるが、触れてみると確かに人間の毛髪とは質が異なるように感じた。見た目が人型に近いとは言え、やはり彼女は人ならざるものなのだ。


 自身の髪に触れられていると気が付いたのか、エメリナはおもむろに顔をもたげる。ジゼはどこか憂いを帯びた表情で彼女の髪をいじっており、エメリナはしばし何かを考え込んだ後、結われたジゼの長い髪を突然ぱくりと口に含んだ。



「……あっ、こら! 俺の髪は食うなって!」



 唐突な彼女の行動を制そうとするジゼだが、エメリナは彼の髪を口に含んで離さない。まむまむと唇を擦り合わせ、上目遣いにジゼを見上げる。


 出会った頃にも見受けられたこの行為に何の意味があるのか、実のところ、ジゼにはよく分からなかった。最初は口元の汚れを拭き取っているのかと思っていたが、どうにもそれだけではなさそうで。


 小首を傾げたその時、ふと、ジゼは気が遠くなるほど昔遠いにウェインから聞いた言葉を思い出した。



 ──ジゼや。もしいつか、人魚に髪を引っ張られることがあれば、それはお前さんを知ろうとしている証だ。



 あれは、長く伸ばしていた金の髪を、片側だけ切り落とされた日に告げられた言葉。〝十三歳〟を超えたと判断されたジゼは、『そろそろいいだろう』と長い髪を右半分だけ切り落とされたのだ。


 短くなった毛髪の慣れない感覚に眉をひそめつつ、ジゼはウェインに尋ねる。



『髪は切るなってずっと言ってたのに、どうして急に片側だけ切ったの? ウェインとお揃いなのは嬉しいけど、なんか慣れない』


『はは、大人になる準備みたいなものさ』


『大人……? じゃあ、もう俺は大人なのか!? もうすぐウェインみたいに、真っ白でかっこいいヒゲも生えてくる!?』


『ヒゲはまだまだ先だろうなあ、お前さんは』



 無骨な手で頭を撫でられ、ジゼは『ちぇっ』と唇を尖らせる。ウェインは口癖である『すまない』を彼に投げかけながら続けた。



『いいかい、ジゼ。この左側の髪は切ってはいけないよ。いつかお前さんが大人になった時、きっと人魚がこの髪を引っ張るだろう。ワシがいなくなった後、お前さんには人魚が必要になる』


『……人魚? どうして? ウェインが居なくなるって何? ウェインは、俺とずっと一緒にいてくれるんだろ……?』


『ジゼや、ワシはもう老いぼれだ。お前さんには不幸ばかりを背負わせた。大人になればきっと分かる。お前には人魚が必要なんだよ』


『何だよそれ、嫌だ! 俺は不幸だと思ったことなんてない! 貧乏だって、友達がいないのだって、俺は我慢できる! 人魚なんか、いらねーよ……ウェインがずっと一緒にいてよ』



 幼な子のようなわがままを告げ、ジゼはウェインの膝に縋り付く。日毎に年老いて、出会った頃とは別人のようになってしまった養父。

 そのか弱い灯火がいつか消えてしまうのではないかと、ジゼは恐れを抱いていた。



『……人魚に、俺の髪を引っ張らせるために、片方の髪だけ長いまま残したの……? ウェインと、お揃いにしてくれたんじゃないの……』


『そういうしきたりがあるのさ、昔からね。いまの時代の連中には〝人魚が男を攫うから髪を伸ばす〟なんて誤った伝承が信じられているようだが、それは間違いだ。お前には教えておこう、ジゼ』



 さらり、ウェインはジゼの長い髪をすくい上げる。涙目で顔を上げたジゼに、彼は続けた。



『人魚は、人間の熱に触れられない。だが、髪だけはヒトの熱を通さないだろう? ワシらが髪を片側だけ伸ばすのは、人魚をあざむくためではなく、人魚と触れ合うためなんだよ』


『……人魚と、触れ合う……?』


『そうとも、ジゼや。もし、いつか人魚に髪を引っ張られるようなことがあれば、それはお前さんを知ろうとしている証だ。その子を大事にしてやりなさい。今はまだ分からないだろうが、いずれ分かる。お前は人魚を必要とする。必ず人魚を求めるだろう』



 くすんだ金色の毛髪が、しわくちゃなウェインの手の中で、するりとおもむろに滑り落ちる。



『お前の左側に残したこの綺麗な髪は、ワシが遺してやれる、最後の贖罪だ──』



 ──くいっ。


 刹那。

 過去の回想にふけっていたジゼの意識は、現実へと引き戻された。


 視線の先には、自身の髪を口にくわえたままキョトンとしているエメリナ。彼女がそれを引っ張ったことで、ジゼは我に返ったのだった。


 人間が髪を片側だけ長く伸ばすのは、人魚を欺くためではなく、人魚と触れ合うため──今しがた思い出したウェインの言葉を脳内で繰り返したジゼは、「まさかな……」と小さくかぶりを振る。



「お前、そんな細かいこと考えてねーだろ……今も多分、なんとなく髪の毛くわえてるだけだろうし……」


「?」


「お前と出会ったのだって、別に俺が人魚を求めたわけじゃない……俺が求めてるのは金だけで、俺はお前を売ろうとしてて、だから、俺は、お前と触れ合いたいわけじゃなくて──」



 バサバサッ!


 言い訳のように言葉を並べ立てていたその時、夜だと言うのに鳥の羽音が耳を叩いた。

 弾かれたように振り返るジゼだが、暗くて窓の外の様子はわからない。隙間から入り込む風の音だけが、ぴゅう、ぴゅう、耳に届いている。



「……何だ?」


「──!」



 訝しむ彼の傍ら、エメリナは何かを感じ取ったらしかった。肩を震わせた彼女は突如毛布を放り投げ、何かから逃げるように素早く鏡の中へと飛び込んでしまう。


「げっ、しまった!」


 一瞬ジゼは焦ったものの、また何日も鏡に立てこもるつもりでは、と危惧する彼の心配をよそに、人魚はおずおずと顔を出した。

 どうやら無駄な心配だったらしい。肩の力を抜き、ジゼは安堵する。



「なんだよ、びっくりした……どうした?」



 問いかけると、エメリナは泡の入った小瓶をコトリと床に置いた。



『そと、こわいおと、する』


「……怖い音?」


『エメリナ、こわい……』



 眉尻を下げる彼女の訴えに、ジゼは首を傾げながら耳を澄ましてみる。が、強く吹く風の音を拾い上げるばかりで、他には何も聞こえない。



「……なんだ、風が怖いのか? 確かに音は不気味だけど、大丈夫だからもう寝ろ。怖いなら眠れるまで話し相手になってやるから」


『エメリナ、ジゼのとなりで、寝ていい?』


「それはダメだ、寝ぼけてお前に触っちまったら怪我するだろ」


『けち……』



 ぷくう、と頬を膨らませ、エメリナは床に顎を乗せて耳ヒレを下げる。


 やがて再び顔をもたげた彼女だったが、その瞳はやはり不安を色濃く映し、風に叩かれて揺れる窓の向こうを見つめていた。

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