第7話 独りぼっちの人魚姫
それなりに活気づき、人で賑わう『第二人工居住区』、通称〈アルバ〉。
この街にたどり着いて二日目の朝。
人魚を売りに出たジゼは、さっそく苦戦を強いられているのだった。
「あァ? 人魚ぉ? そんなもんいるわけねーだろ。詐欺なら他所でやんな」
──バタン。
「ふぅん、人魚ねえ……くくっ、兄ちゃん、そんな何百年も前のおとぎ話信じてんのかい? 可愛いねぇ~。おじさんと二人で食事してくれたら、買い取ってやってもいいかなあ〜。もちろん君も」
──バタンッ。
「人魚? 今さら存在するわけないでしょう。あれは迷信に近しい寓話に過ぎません。そもそも人魚などという存在が最後に記録されたのは二百年以上も前の話であって、彼女たちは長寿でしたが外傷に弱く〝人魚の喉の肉を食らえば不老不死になる〟などというデマを信じた人間によって乱獲され負傷し絶滅したと言われ──」
「あーーっ、うるせーな!! 分かったよ、それじゃあな!!」
──バタンッ!!
豪快に出入り口の扉を閉め、ジゼは
ややあって、鏡面からは怒った顔のエメリナが顔を出した。彼女は頬を膨らませ、小瓶を大きく振りかぶるとジゼに目掛けて投げつけてくる。
まっすぐ飛んできたそれを、ジゼは反射的に受け止めた。
「うぅおっ!? 危ね……!」
『ジゼ、またエメリナ売ろうとした! エメリナおこった! ジゼきらい!』
小瓶から聞こえた声。
眉根を寄せ、ジゼは目尻を吊り上げる。
「あァ!? うっせーな、腹立ってんのはこっちだわ! 大金がいるんだよ俺は! つーか危ねーから瓶は投げんな!」
「?」
「〝タイキンってなあに?〟みたいな顔してんじゃねー!! カネだよ、カネ!! カネ手に入れてさっさとこの国出ていかなきゃなんねーんだ!!」
鏡の中に小瓶を投げ返し、やがてジゼは腰を上げると昨晩丁寧に手入れした竪琴を掴んだ。
エメリナは戻ってきた瓶を拾ってぷくぷくと泡を詰め、小首を傾げる。
『ジゼ、どこいく?』
「どこでもいいだろバーカ」
──ぴゅっ!
「冷てッ!? おい水かけんな!!」
真面目に答えないジゼにお得意の水鉄砲攻撃を放った人魚は、伏目がちにじとりと彼を睨んでいる。ジゼは濡れた顔をうざったそうに袖で拭い、彼女に竪琴を見せつけた。
「どっかの誰かさんが金にならねーから、本職で小銭稼いでくるんだよ。路銀が足りねえ」
『ほんしょく? エメリナは?』
「お前は留守番」
『えー!!』
あからさまに顔を顰め、エメリナは連れていけと言わんばかりに手のひらで床を叩いた。しかしジゼは「ダメ」と冷たく一蹴する。
「お前の鏡、ずっと背負ってると重いんだよ。万が一落としたら危ねーし、お前に気ィ使ってる余裕はない。演奏には集中力がいるんだ、大人しくここで待ってろ」
『エメリナ、ひま……』
「わがまま言うな」
『ジゼ、いじわる! けち! 怒りんぼ! ……あと、えっち』
「おいまだ引きずってんのかよ!? 昨日のは謝ったろ!? どこ触んのがダメなのか知らねえけど!!」
昨晩うっかり〝えっち〟な場所を触ってしまったことをいまだに根に持っているエメリナに焦りつつも、ジゼは「と、とにかく連れていかねえからな!」と言い放った。
頬を膨らませたエメリナは終始不服げだったが、やがて諦めたらしく、鏡の縁に顎を乗せてしゅんと悲しげに眉尻を下げる。
叱られた子犬のようなその表情にジゼの心は少しばかり揺らいでしまうが、流されるものかとかぶりを振った。
「べ、別にこのまま置いていくわけじゃねーんだから、そういう顔やめろよ……稼げたら、帰りに蜂蜜買ってきてやっから」
『……はちみつ、たくさん?』
「一個だけだよ!! 欲張んな!!」
『けち!』
ぷつんと不服の声が弾ける小瓶。
ジゼは深くため息を吐きこぼし、「お前、絶対に鏡の中から出んなよ?」と口酸っぱく念を押したのちに、竪琴を持って部屋の扉を開けた。
「じゃあ、行ってくるから。日が暮れる前には帰ってくる」
「……」
「う……。だ、だから、そんな泣きそうな顔すんなって。すぐ迎えにきてやっから。大人しく待ってろよ、じゃあな」
──ぱたん。
扉が閉ざされ、鍵まで閉められて、静かになった部屋の中。
本当に置いていかれたエメリナはふてくされ、
……が、ほんの数分で顔を上げると、おもむろに鏡面に浮上して銀枠の向こうへと顔を突き出す。
しかし、もちろんそこにジゼの姿はない。
エメリナは眉根を寄せ、また、とぷりと水の底に沈む。
だが、やはりそれも長くは続かず。
数分経つと再び鏡面に顔を出し、キョロキョロとジゼを探す彼女。けれど、どこにも居ない。
ジゼの不在を確認するたびに眉尻を下げ、水底に沈んで、暇を持て余し、耐えきれずにまた鏡面へと浮上する。
それを何度も繰り返して、ジゼが帰ってきていないことを思い知らされるたび、彼女はむすりと唇を尖らせた。
『ジゼ、いない、たいくつ……』
結局そのまま二時間ほど経ってもジゼは帰ってこず、エメリナは泡を込めた小瓶をつまらなそうに転がし、尾ひれを水中で揺らめかせる。
ちゃぷん、ちゃぷん。こうしていると思い出すのは、狭い水槽の中で過ごしていた薄暗い日々だ。
水遊びをして、たまに水面に顔を出して、壁にかけられた絵画の向こうに広がる知らない世界を想像する。そんなことを繰り返し、何年もずっと、ひとり寂しく屋敷の地下に閉じ込められていた彼女。
人間と関わる機会なんて、これまでドビーの一族以外にはほとんどなかった。エメリナにとってはトレイシー邸の人間など嫌悪と恐怖の対象でしかない。顔も見たくなかったため、ひとりでいる方が気楽だとずっと思っていた。
だから、ひとりぼっちなんて、慣れていたはずなのに。
『……ジゼのばか』
生まれて初めて出来た、自分の声が届く話し相手。
態度は悪いし、言葉遣いは乱暴だし、人魚を〝商品〟としか見ていないような男だが、エメリナにとってはあの狭い水槽の中から広い世界へと導いてくれた唯一の人間だ。
これまで数日間、片時も離れることがなかったためか、急に一人にされた彼女は今まで知り得なかった『寂しい』という感情にしょんぼりと耳ヒレを垂れる。
『ジゼ……』
『ジゼってば……』
『うぅ……』
『ジゼ……』
早く帰ってきて、と泣き出しそうな顔で小瓶の中に泡を込めた──刹那。
ふと、垂れ下がったエメリナの耳は階段を上がってくるブーツの音を拾い上げた。
「……!」
はっと顔をあげ、たちまち輝く瞳。足音が少しずつ近づいてくるのを確認した彼女は、胸を躍らせて鏡の中から這い出てきた。
──ジゼが帰ってきた!
そう信じて疑わずに床を這い、部屋の扉へ向かうエメリナ。そう高くない位置にあるドアノブに手を伸ばし、容易く鍵を開錠してしまう。
ふんすっ。得意げに胸を張り、彼を迎え入れようと何のためらいもなく部屋の扉を開け放った。
しかし、廊下を通りがかったその人物と目が合うやいなや、無邪気にほころんでいた表情は硬直する。
「うおッ……! な、なんだ、いきなり……」
「……?」
「──え? ……人魚!?」
扉の前を通過しようとしていたのは、ジゼではない。小汚い無精髭を生やした中年の男で、同じ階の部屋に向かおうとしていただけの別人だった。
彼はきょとんとしている人魚を見下ろし、しばらく動揺していたが、やがて下卑た笑みを口元に浮かべる。
「こ、こいつァ驚いた……本物の人魚か? そんな馬鹿な……何百年も前に滅んだはずだろ?」
「……? ……?」
「なんだっけ……人魚の喉の肉を食えば不老不死になるんだったか? ……いいや、そんなことより、これが本物の人魚ならとんでもねえ値が付くに違いねえぞ……! こいつはすげえ、まるでおとぎ話みてえじゃねえか!」
男は欲を烟らせた瞳を爛々と輝かせ、聞き慣れたフレーズを口にしながらエメリナの肩に掴みかかる。その瞬間、エメリナの肌は激痛を伴って焼け爛れた。
「──ッ!?」
「おおっと!? な、なんだ!? 肌が焼けちまった!?」
「……っ、……!!」
「くそ、せっかくの売り物が気持ちわりィ色になっちまった……! なんだこりゃ、人魚ってのは触ると焼けちまうってのか? 面倒くせえ……!」
不用意に肌に触れられ、痛みと熱に戦慄するエメリナは変色した皮膚を押さえながら怯えた様子で後ずさった。しかしすぐに腕を捕まれ、再び激痛を伴った腕の皮膚が焼ける。
「──っ!!」
「ああ、くそ、また触っちまった! どこもかしこも爛れちまう、焼けねえところを掴まねえと」
「……っ、──っ!」
床にくずおれ、泣き叫ぶ人魚の声は誰の耳にも届かない。エメリナは出ない声で激痛に苦しみ喘ぎながら床を這うも、即座に髪を掴まれて男の元へ引き戻された。
生まれて初めて感じる絶望に、こぼれ落ちる大粒の涙。獣のごとき男の欲深い目に射抜かれ、エメリナはすくみ上がる。
「くくっ、逃がさねえぞ人魚姫。これ以上傷付ける前に大人しくしてくれよォ」
「……っ」
「ほぉ〜? どうやらアンタのご主人様は留守みてえだな? 持ち主不在の落とし物は、責任持って保管しといてやらねえと」
──まあ、持ち主の手元に戻るとは限らねえけどな。
薄汚く口角を上げた男の声を耳で拾い上げ、髪を強く引かれたエメリナは、焼けた肌の痛みと恐怖に苦悶の表情を浮かべる。
そのままずるりと部屋から引きずり出され、じたばたと暴れながら彼女はジゼの名を叫んだが、その叫びが音を発することはなかった。
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