第二章 / されど、孤独を知る
第6話 お喋り人魚の世話係
小瓶を介して互いの意思疎通が成り立つようになってから、数日。
人魚とジゼの会話は少しずつ増え、ジゼはエメリナの仕草や表情から、彼女の伝えたいことがなんとなく分かるようにすらなっていた。
これまで何を考えているか一切理解できなかったのが嘘のように、エメリナは自分の意思を赤裸々に訴えてくる。その上、意外と頑固だ。一度主張した訴えが受理されるまでなかなか譲らないという一面も持つ。
そんな彼女の所持する小瓶の中では、今日も今日とて、エメラルドのあぶくが声を乗せて弾けているのだった。
『ねえ、ジゼ、あれなに? おしえて』
『エメリナ、おなかすいた。はちみつ食べたい』
『ジゼ、まち、まだ? 歩くのはやく、もっとはやく』
「……」
『ジゼ、エメリナのこと無視する』
『無視、いや。ジゼ、ねえねえ』
『ジゼってば』
「……」
『ジゼ』
『ねえ、ジゼ……』
『ジ~~~ゼ~~~!』
──あぁぁぁッ、くそうるせえええッ!!
だだっ広い荒野を歩きながら、ジゼは頬に押し当てられた瓶から聞こえる声に辟易して自身の眉間を押さえた。一方のエメリナは鏡から身を乗り出し、ジゼの肩に両肘を置いてのしかかりながら不服げにむくれている。
彼女は人魚のくせに意外にも喋り好きなのか、事ある毎に鏡から上体を突き出しては──衣服越しに──密着し、ジゼの頬に小瓶を押し付けて距離を詰めてくるのだった。
誤って地肌に触れて火傷でもさせてしまったら困ると何度も注意を促すが、好奇心の塊であるエメリナはなかなかそれを素直に聞き入れてくれず、結果的にジゼがことごとく彼女を無視するという状況が続いている。
先日までは人魚の声が聞こえずモヤモヤしていたというのに、いざ意思疎通の手段を手に入れてみると、今度は応対するのがめんどくさくなってしまったジゼであった。
「マジでコイツ、早く売り飛ばそう……喋り好きの人魚なんてレアだろ……絶対高く売れる……大丈夫、次の街までの我慢……我慢だ……」
『むっ、ジゼのばか! エメリナ、売られるのいや!』
「うるせーお喋りクソ人魚!! つーかお前、あんま鏡から顔出すなっつってんだろ! お前が鏡から出るとその分の重力かかって重くなんだよ、あと単純に危ねぇわ! 落ちて怪我したらどうすんだ!」
『エメリナ、いたいの、いや……』
「だろうが!! 黙って大人しくしてろ!!」
相変わらず子どもさながらの奔放な人魚を叱咤し、ジゼは苛立ちをあらわに荒野を進んでいく。エメリナはぷくぅと頬を膨らませ、鏡の中で泡を吐いた。
いつでも彼女の
暇さえあればぺちゃくちゃと声入りの瓶を押し付けられる結果となってしまい、いい加減ウンザリだ。
(はあ……コイツが大人しく売られてくれねーから、路銀もほとんど残ってねえし。次の街では少し稼がねーとな……)
遠くを見ながら、ジゼは腰元に携えた愛用の竪琴を指で撫でる。
この竪琴は、ジゼが育ての親であるウェインから幼い頃に譲り受けたものだ。演奏の腕には自信がある。次の街は比較的大きい街だと聞いているため、人魚が売れずとも演奏によって少しは路銀が稼げるだろう。
(本当は人魚をさっさと売って金に変えちまうのが理想的だが……コイツのこの様子だと、いくら質屋に持ち込んだところでまた表に出てこねえのは目に見えてんだよな……)
何度も怒らせてまた水浸しにされんのは御免だぜ……と虚空を見つめ、ジゼは冷静に状況を整理した。
前の
元々の飼い主であるドビーに己の存在を気取られてしまっては面倒だからだ。
(チッ……仕方ねえ。店を数件回って人魚が出てこねえようなら、コイツを売るのは荒野を超えるまでお預けだ)
持ち主の坊ちゃんに見つかって我が身を危険にさらすより、お喋り人魚の世話を延長する方がいくらかマシだろ。
ドビーの追跡を警戒するジゼは冷静に思案し、次の街でエメリナを質屋に持ち込むのは控えめにしようと、渋々決断するのだった。
* * *
「──はいよ、旅人さん。こいつが部屋の鍵だ」
「ありがとうございます、助かります」
日が暮れる前に次の
エメリナは街が近づいた頃から人の気配を察知して鏡の中に閉じこもってしまっていたが、部屋に入って扉を閉めるなりちゃぷんと鏡から顔を出す。
ジゼしかいないタイミングを見計らって現れる彼女に、彼はフンと鼻を鳴らした。
「……ったく、変に知恵つけやがって……」
「?」
「はあ〜……まあいいか」
ため息混じりに呟き、ジゼはエメリナのいる鏡を床に置くとベッドに腰掛けて愛用の
盗み出されて以来野宿続きだったエメリナにとって、ここが初めての宿だ。彼女は瞳を輝かせ、のそりと鏡を出ると興味深そうに床を這い始めた。
「あっ! おいバカ、濡れたまま移動したら床が水浸しになるだろ!? 部屋の中うろつくなら体拭いてからにしろ!」
「……?」
「あーーっ、水から出やがったら何言ってんのか分かんねえ!! めんどくせえな、そこ座れ! 拭いてやるから!」
苛立ったように吐き捨て、ジゼは念入りに肌を手袋で隠すと厚手の布を大きく広げた。エメリナは大人しく指示に従い、ちょこんとその場に留まって濡れた体を彼に委ねる。
彼女に近付いたジゼの視線の先にあるのは、美しい曲線を描く華奢なくびれと、程よくふくらむ形のいい胸元。
自分から言い出したとは言え、目の前の人魚はとにかく露出が多く、鱗やヒレがある以外はほとんど人間の女と変わらない。一応薄っぺらな布の衣装で胸元は隠されているが、もし脚が生えていればおそらく娼婦と見まごうことだろう。
その体とまともに向き合うことになってしまい、ジゼは一瞬やばいと後悔して生唾を飲んだ。……が、すぐに『ただの魚相手に何考えてんだ』とかぶりを振る。
「……ほら、動くなよ。火傷したくないだろ」
できるだけ優しい言い方に努め、ジゼはエメリナの肌からしたたる水滴を安物の布切れで拭き取り始める。
ムカつく人外が相手といえど、仮にも女だ。ただでさえ繊細な肌に触れなければならないとあって、ジゼは些か緊張しつつ極力控えめにそれを滑らせた。
しかし、それがかえってエメリナにはむず痒いのか、彼女はくすぐったそうに身をよじって笑いを堪えるように肩を震わせる。
「〜……っ!」
「お、おい、動くなって! マジで危ないから! 傷がついたらどうすんだよ、文句ならあとで聞いてやるから大人しくしろ!」
どうやら他人の手で触れられることに慣れていないらしく、エメリナは口元を手で覆って笑い、くすぐったさに耐えているようだった。
それを叱咤したジゼは暫しの間を置いて水滴の拭き取りを再開させるが、手袋越しに触れた人魚の肌の肉感はやはり人間の女とほとんど変わらず、つい狼狽えてしまう。
(うっ……。く、くそ……女なんか縁もないし、苦手だってのに……)
触れるたびにぴくぴくと細やかに震え、ジゼを見つめる潤んだ瞳。
人生のほとんどを演奏と金稼ぎに費やしたせいで異性への免疫が乏しいジゼにとって、外見だけは愛らしいこの人魚の視線は毒に等しい。
まるで、こちらが
(お、落ち着け……俺はただ、濡れた体を拭いてやってるだけだ……! 別に疚しいことなんて何もしていないし、
早鐘を打つ胸を落ち着かせようと自らに言い聞かせ、濡れた胸元やくびれを極力見ないようにしながら、ジゼは彼女の顔や体を拭いていく。
視線が交わるのも最低限に控え、伏目がちに「……あんま、こっち見んなよ……」とか弱く呟くのが精一杯だった彼だが、何も考えていないであろうエメリナはじいっと見つめてくるばかりで腹が立つことこの上ない。
そうこう悪戦苦闘しながらも、なんとか煩悩に打ち勝ち、上半身と髪の水滴を拭き終わったジゼ。
彼はふうと息を吐き、再び口火を切る。
「……ほら、上半身終わったぞ。今度は腰から下と尾びれも拭くから──」
「っ! 〜〜っ!!」
「うわ!? お、おい、何だよ急に!? 暴れんなって!」
ひと仕事終えて安堵したのも束の間。ジゼが下半身の方へと布を移動させようとした直後、それまで大人しかったエメリナは突如嫌がって暴れだした。
同時にヒレの水滴がびしゃびしゃとベッドに飛散してしまい、顔をしかめたジゼは素手で触れないよう配慮しながらどうにか彼女を押さえつける。
「ちょ、いきなり何なんだ!?」
「……〜〜っ」
「くそ、何言ってんのかわかんねえ……。くすぐったくて嫌なのは分かるけど、もうすぐ終わるから! もう少しだけ我慢しろって!」
諭そうとするジゼに対し、何かを訴えようとしているエメリナ。だが、ここは水中ではないため声が泡になってくれず、伝えたい言葉がよくわからない。
頬を桜色に染めてイヤイヤと首を振る彼女に首を傾げつつ、「いいから、じっとしとけよ」とジゼは念を押して鱗の水滴を控えめに拭った。
たちまちエメリナはびくっと反応し、頬を更に赤らめる。
「っ……!」
「あーあ、水浸しのまま暴れるからベッドが濡れちまったじゃねーか……もう暴れんなよ?」
「……! ……!」
「は!? おい逃げようとすんなって! まだヒレとか濡れてんだから」
「〜〜!」
何を嫌がっているのか、エメリナは真っ赤な顔で首を振って何度もジゼを押し返そうとする。その行動の意味がわからないまま、ジゼは「危ないぞ」と彼女の抵抗をいなし、手袋に包まれた指先で尾ヒレに触れた。
「……っ……!」
「へえ~、ヒレって角度によって光沢の色が変わるのか。付け根の部分とか特に質が良さそうだし、ここだけでも高く売れそ……いや、綺麗だから丁寧に扱わないとな。ちゃんと傷付けないように拭いてやるから安心しろよ」
「っ、~~……っ」
ジゼは優しくヒレを握り、鱗との境目や骨張った付け根に付着した水滴を丁寧に拭き取っていく。しばらく経つと次第にエメリナの抵抗は弱まってきたものの、触れるたびに肌がぴくぴくと跳ねる様はやはりどうも不自然で──そこでようやく、ジゼはエメリナの調子がどこか悪いのではないかという考えに至った。
「……? お前、大丈夫か? もしかして痛い? なんか、やけにビクビクして──」
そう問いかけた、刹那。
ジゼは続けようとした言葉を思わず飲み込む。
彼の視線の先では、息を乱したエメリナが頬を紅潮させ、とろんと力なく瞳を潤ませて壁にもたれていて──ぎくりと背筋が冷えた。心臓も大きく跳ねあがる。
(は……え? なに? その顔)
ジゼは生唾を嚥下し、何の言葉も発せずに硬直した。拭っていた手の動きも止めたままでいると、エメリナは頬を赤らめたままよろよろとジゼから離れて床を這い、鏡の近くに転がっていた小瓶へと手を伸ばす。
とぷり、小瓶を掴んだ手を
ややあって水で満たした瓶の中にぷくぷくと泡を吐いた彼女は、それをジゼに押し付けると逃げるように離れて行き、部屋の隅で縮こまってしまう。
ぷかり、ぷくり。浮かぶエメラルドの泡沫。
ジゼは嫌な予感を感じながらも、ぎこちなくそれに顔を寄せ、恐る恐ると耳を傾けた。
『──ジゼ、の、』
『…………えっち』
(何でッ!?)
真っ赤な顔で尾ひれを隠し、部屋の隅でむくれているエメリナ。
どうやら人魚にとって〝えっち〟な場所を触ってしまっていたらしく、ジゼは焦燥を抱えながら「おい、それどこ触ったのがまずかったんだよ!? ヒレか!? 鱗か!?」などと問い詰めるが、エメリナは恥ずかしそうに目を逸らすばかりで彼の問いに答えてくれなかったのであった。
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