第5話 小瓶に言葉を詰めて

 夢を見た。やけに懐かしい夢だった。


 まだ幼かった自分が、たった一人の〝家族〟と共に、山奥で暮らしていた頃の夢。



『──ジゼや。聞くところによるとお前さん、黙って街に下りて怪我をしたそうじゃないか』



 痩せた老人の耳馴染んだ声を拾い上げ、まだ十歳にも満たないであろう幼い容姿の少年は振り向きもせず俯いた。


 窓のない狭い地下室。ポロン、ポロン、指先から奏でられる竪琴の音色は、まるで彼の心情を現しているかのように弱々しい。


 殺風景な地下室にあるものは限られていた。

 竪琴、本、絵画、おもちゃ。

 鍵のかかった小箱と、からっぽの魔水鏡ホロウメロウ


 そんな寂しい空間で過ごしていたのが、ジゼと、この老人だったのだ。



『おやおや、だんまりかい? つれないねえ。この老いぼれが、せっかくお前さんにたっぷりと説教しにやって来たというのに』


『……街になんか行ってない』


『嘘つきはドロボウになるぞ? ジゼ。正直に言ってごらん』


『……。こっそり、街に、行った……』



 ごめんなさい、とか細く付け加えて、ジゼの指先がまた力なく弦を弾く。


 ポロン。こぼれた音色は涙と混じり合い、頬を伝って地面に転がり落ちていった。そこには痛々しいアザがいくつか残っている。街の住人に殴られたようだった。



『……ねえ、何で俺、街のみんなに嫌われてるの?』


『何か言われたか?』


『街の子どもは、みんな俺のこと〝魔法が下手だ〟って馬鹿にする……。だけど、大人はみんな、俺に怯えて〝化け物〟って呼んで乱暴するんだ……』



 背中を丸めて涙を拭うジゼは、隣に並んで座った老人に頭を撫でられ、また大粒の雫を滑り落とす。


 赤子の頃に親から捨てられ、孤児となったジゼ。生まれてまもなく死の淵をさ迷っていた彼を保護し、その手でここまで育ててくれたのは、他でもないこの人──ウェインだった。



『……ねえ、俺、人間じゃないの? みんなみたいに魔法も上手に使えないし、ずっと部屋の中に閉じ込められてるし……俺は、化け物なの……?』



 ウェインは泣きじゃくるジゼに寄り添い、優しげに口角を上げて語りかける。



『はははっ、何を言うかと思えば。ジゼが化け物のはずないだろう? 普通の人間じゃないか』


『……ほんと?』


『本当だとも。ほら、見てごらん。鏡に映るお前さんは、どう見ても人間だ』



 ウェインが持ってきたのは、銀の装飾が施された鏡──魔水鏡ホロウメロウ。ウェインの言う通り、鏡面に映り込むジゼの姿は、いつもと変わらない。


 髪が長くて、幼い、普通の子ども。



『すまないな、ジゼ。ワシが貧乏な上に人付き合いも避けているせいで、街の住人に煙たがられとるんだ。お前さんにまで苦労をかけてしまう』


『……』


『すまない。本当にすまない、ジゼ。……街には、もう行かない方がいい』



 涙を拭う骨張った手。出会った頃こそ黒々としていたウェインの髪はいつのまにか白髪になり、屈強だった体も、貧困のせいか痩せ細っていた。


 すっかり老け込んでしまった育ての親の言葉に、ジゼは何も言わない。肩を落とす彼。ウェインは努めて優しく語りかける。



『ほら、ジゼ、歌ってごらん。いつものように、特別な魔法・・の歌』


『……魔法の、歌……』


『ああ、そうさね。ワシとお前さん、二人だけの秘密の歌だ』



 顔を上げたジゼに笑いかけ、ウェインは彼を膝の上に乗せた。白内障が進んでやや濁った瞳には、まだ幼いジゼの顔が映っている。



『いいかい、ジゼ。その歌は特別だ。分かっているな?』


『……うん』


『ああ、お前は賢い子だね。分かっているのならそれでいい。さあ、ジゼや、約束しなさい。ワシ以外の人間の前では、絶対に──』



 ──その歌を歌ってはいけないよ。



 皺の多いウェインの顔。

 それがくしゃりと柔く緩められ、互いの小指が絡まった──その時。


 追憶を辿るような懐かしい夢には終止符が打たれた。



「……ん……」



 岩陰の隙間から漏れる朝日。

 優しく頬を撫ぜる風。

 長いようで短い夢旅を終えたジゼは、不快な砂利の感触を肌で捉えつつ、朧気な意識を浮上させる。



(……朝……?)



 どうやら朝が来たようだと理解し、寝ぼけ気味の思考を少しずつ動かした。なんだか嫌な夢を見た気がするが……と考えた直後、頬にはぽたりと雫が落ちる。


 ぽたり、ぽたり。


 繰り返し頬を打つ水滴。肌の上に何度も伝わるそれに、ジゼは瞼を持ち上げてぼやける視界に目を凝らした。


 冷たい……何だ?


 そう考えてまばたきを繰り返し、ようやく視界がクリアになった頃。

 鼻が触れ合いそうなほどの至近距離にいたのは、きょとんと不思議そうにこちらを見つめる、翡翠色の人魚──の、やたら整った顔で。


 彼はひゅっと息を飲んだ。



「──ッ!? どっ、うおぁああッ!? ちっか!!」


「?」



 驚いたジゼは無意識に彼女を突き飛ばそうとしてしまったが、寸前で『触れてはいけない』と我に返ったらしくグッと堪えて自身を制す。


 一方のエメリナは不思議そうに首を傾げ、ちゃぷりちゃぷり、鏡に突っ込んだままの尾ひれを動かして水遊びをしていた。


 どうやら立て掛けていた鏡から身を乗り出しているようだ。ジゼの肌に直接触れぬよう衣服越しにのしかかりながら、興味深そうに彼の顔を覗き込んでいる。


 傍から見れば、まるでジゼが押し倒されているかのよう。状況を理解し、ジゼはカッと頬を火照らせた。



「ば、ばかっ! 何でいちいち近くに来るんだよお前!! マジで火傷するぞ、離れろって!!」



 羞恥をつのらせ、ジゼは叫ぶ。対するエメリナはやはりきょとんとするばかりだったが、大人しく離れる気配もなく、至近距離にいながらぱくぱくと口を動かして何かを伝えようとしていた。


 しかし、相変わらず何を伝えようとしているのかよく分からない。ジゼは困惑して目を細める。



「……? な、何だよ、お前の言葉分かんねえって。腹減ったのか?」


 ──ビシャアッ!


「違うからって水ぶっかけんな!!」



 返答が気に入らなかったらしく、エメリナは早速尾ひれを使って起きたばかりのジゼを水浸しにしてしまう。ぷっくりと頬を膨らませ、ぺちんぺちんと不服げな尾ひれが水面をしきりに叩いているが、声が聞こえないためやはり何を伝えようとしているのかさっぱり分からない。


 めんどくせえな、とジゼは嘆息した。



「はー……何だ? 昨日のこと怒ってんのか? はいはい、どうもすみませんでした。これで満足かよ」


 ──バッシャアア!!


「このクソ人魚ぉぉ!! テメェ大火傷させんぞゴラァ!!」



 またも水を浴びせられ、とうとうジゼは憤慨する。

 同時にころりと地面に転がったのは、空っぽになった昨晩の蜂蜜の小瓶だった。


 甘い匂いにつられてやってきたらしく、瓶の縁にはアリが数匹集っている。エメリナはたちまち瞳を輝かせ、嬉々として小瓶を拾い上げた。



「あっ……おい! それアリ付いてるからな!? 舐めんなよ!?」


「?」


「だからアリが……っくそ、アリも分かんねえのか……! この動いてるやつだよ、黒い虫! 絶対食うなよ、この辺のアリは毒持ってるやつもいるし──」


 ──ぱくっ。


「おわあああ!? バカ、だから食うなって!!」



 好奇心の塊なのか、〝するな〟と言ったそばから堂々とアリを口に含んだエメリナ。ジゼは声を張り上げて叱咤するが、一方のエメリナはなぜ怒られているのか分からないといった様子だった。


 しかし早速アリに口元を刺されてしまったらしく、その痛みに目を見開いた彼女は声にならない悲鳴を上げて魚のごとく跳ね上がる。



「うわ!?」


「~~っ!!」


「あっ、おい……!」



 ビチビチとひとしきりのたうち回り、程なくして彼女は小瓶を持ったまま鏡の中へ飛び込んだ。


 バシャァン!

 派手に散った水飛沫。


 それを浴びつつ、ジゼはすぐさま鏡面を覗く。



「お、おい! 大丈夫か!? お前、いま刺されたろ!?」



 慌てて問いかけると、水面にはぷくぷくと泡沫が浮かび上がった。程なくして、しょんぼりと眉尻を下げたエメリナが気まずそうに浮上してくる。


 明らかに気落ちしているその様子に呆れつつ、ジゼは「ほら、刺されたところ見せてみ」と比較的優しげな声を投げかけた。


 すると珍しくエメリナは彼の指示に従い、アリに刺された唇をおずおずと尖らせて上目遣いにジゼを見上げる。毒持ちのアリに刺されていればすぐに腫れて化膿するはずだが──幸いにも、エメリナの唇には何の異常も見られなかった。



「あー……毒はなかったみたいだな。腫れてない」


「……」


「な? だからさっき言っただろ? アリは食うなって。お前が〝するな〟って言ったこと実践するから、痛い目見たんだぞ」



 幼子の相手をする時と同じ口振りで叱ってみれば、エメリナは反省しているのか耳──というかヒレ──を分かりやすく下げてぷくぷくと水面に泡を吐き出した。

 露骨に落胆しているその様子に、ジゼは小さく息を吐いて肩をすくめる。



「まあ、これに懲りたら、俺がダメって言ったことはもうすんなよ」


「……」


(……とりあえず、傷が付いてなくて良かったぜ。アリの毒で腫れ上がっちまったら、〝商品〟としての価値が下がるし)



 鏡の縁でしょぼくれる人魚を見下ろし、ジゼは密やかに胸を撫で下ろした。

 彼の思考はあくまで〝商品価値〟を守ることにある。貴重な資金源であるエメリナには無傷でいてもらわなければ困るのだ。



(あーあ……コイツの言いたいことさえ分かれば、まだ扱いがラクなんだがな……)



 溜息混じりに彼が考えた──その時。

 不意に、エメリナは先ほど水中に持っていった小瓶をそっとジゼの足元に置く。



「……? なんだよ」



 ぱく、ぱく。

 エメリナは何かを伝えようと口を動かしている。


 しかし、どうにもよく分からないまま、ジゼはひとまず足元の小瓶を拾い上げた。

 水で満ち、丁寧に蓋まで閉めてあるその中身には、昨晩と同じようにエメラルドのあぶくがいくつか浮かんでいる。



(……またこれか。ガラス玉みたいな泡)



 宝石とすら見まごうような、美しい光沢を帯びる泡沫。

 不思議なそれに目を奪われていると──ふと、彼の耳は何らかの〝音〟を拾い上げた。



 ──エメ、リナ……


 ──アリ、こわい……。



 眉をひそめて息を詰めれば、やはりそれは小瓶の中から聞こえてくる。



「…………は?」



 思わず声を漏らし、ジゼはエメリナへと視線を戻した。

 ぷつん、ぷつん、瓶の中のエメラルドは弾け、その度に明らかな〝言葉〟がジゼの耳へと注がれる。



『──エメリナ、アリ、いや……』


『アリ、あまいにおい。でも、いや。こわい……』


『エメリナ、ハチミツ、すき』



 確かに聞こえる、少女のものと思わしき辿々しい声。ジゼは目の前の人魚を見つめたまま、暫しの間を置いて口を開いた。



「……これ……お前の、声か?」



 問えば、エメリナは瞳を輝かせて尾ひれを振る。こくんと深く頷き、期待するような眼差しでじっと見つめてくる彼女。


 一方のジゼは泡沫の入った小瓶を見つめ、人づてに聞いた人魚の話を思い出していた。


 ──人魚の声は泡になる、という話を。



(人魚は、出した声がすぐ〝泡〟になって消えちまう……だから、人間の耳には声なんて届かないはず……)



 だが、目の前の小瓶に詰められたエメラルドは、明らかに彼女の声だ。泡沫の中に閉じ込められた、声。


 今、ジゼは、小瓶を介してエメリナの〝言葉〟を可視化出来ている。



(まさか──〝泡〟の状態になった声ごと、こうやって小瓶の中に閉じ込めちまえば、本来すぐ消えちまうはずの人魚の言葉が人間に届くのか……!?)



 浮上する可能性。彼は一人で結論を導き出し、いつも暗い影がさしていた灰鼠色の瞳に光を灯した。


 この小瓶を介すことで、エメリナの考えていることが分かるかもしれない。


 そう考え至り、ジゼはさっそく小瓶をエメリナの手に戻した。



「おい、人魚! さっきのもう一度やってみろ! そんで、お前のことを教えろ!」



 きょとんとしている彼女を見下ろして偉そうに命令すれば、エメリナはぷくぷくと泡を吐き出して小瓶に泡を詰めてみせる。



『エメリナは、エメリナ』



 やはり聞こえた、先ほどと同じ辿々しい声。

 だが、ジゼはその答えに不服げだ。



「名前なんか知ってんだよ。他に何かあるだろ」


『……? エメリナ、エメリナのこと、よく知らない……』


「知らない? 年齢とか誕生日とかは? 捕まる前はどこに居たとか……」


『知らない。エメリナ、ずっと暗いとこいた。ドビー、キライ。エメリナにこわいことする……』



 ぱちん、ぱちん。泡沫が弾け、エメリナは悲しげに視線を落とした。ジゼは目を細め、牢獄にも似たトレイシー邸の地下空間を思い出す。


 ほの暗い地下の狭い水槽に、彼女は何年も──いや、おそらく何百年も、一人きりで閉じ込められていたのだ。ろくな扱いを受けていなかったであろうことは何となく察しがつく。


 元々の主人であるドビー・トレイシーのいけ好かない顔を思い出し、ジゼは苦く舌打ちを放った。



「あの坊ちゃんのことは、俺も嫌いだ。いちいち鼻につきやがる」


『ジゼも、エメリナも、お鼻、ついてる』


「そうじゃねーよ、鼻につくってのは~……まあいいや。それよりお前、昨日ハチミツなんかで腹膨れたのか? 腹減ってねえの? 好きな食べ物は?」



 次々と問いかければ、エメリナはきょとんと瞳をしばたたく。


 ぷくぷく、唇からこぼれていく透き通った泡。

 小さな瓶に詰め込まれたエメラルドは、本来聞き取れないはずの人魚の言葉を、ジゼに届けた。



『エメリナ、おさかな、たべる』


「さか……魚ッ!? いや、お前も魚みたいなもんだろ……っ、ぶふっ、ぷくく……!」



 予想外の好物に吹き出し、ツボに入ったのか笑い出すジゼ。


 そんな彼の反応に小首を傾げ、エメリナはぷくぷくと、また小さな泡を吐いたのだった。

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