第4話 蜂蜜ひとさじ夜の色
一日中歩き回り、ようやくジゼが地面に腰を下ろした時には、夜の
エメリナに何度も水を浴びせられ、濡れた衣服が肌にへばりつく不快な感触にも慣れてしまった頃。
はあ、と嘆息した彼は、星の散らばる空を仰ぎながら静かにぼやく。
「……売れねえ」
──ぴゅっ。
「水かけんなアホ人魚」
連戦連敗、八方塞がり。何軒も店を巡ったジゼだったが、どこへ行っても結果は同じだった。
エメリナは姿を現さず、彼がいくら饒舌に人魚の存在を語ったところで、大嘘つきの詐欺師扱いされるだけ。ズブ濡れの有様では尚さら信用してもらえず、とうとう諦めて
荒野の真ん中の岩陰に座り込んだジゼは、無けなしの金で購入した蜂蜜と乾パンを口に運んで溜息をこぼす。エメリナはこんな時ばかり
「……こんな予定じゃなかったのに」
呟けば、翠玉色の瞳を瞬いたエメリナがジゼへと視線を移す。ちゃぷり、身を乗り出して見つめる彼女。ジゼは不服げに睨んだ。
「何だよアホ」
──ぴゅーっ!
「だぁぁ!! だから水かけんのやめろ!!」
エメリナの水鉄砲攻撃から乾パンを守り、ジゼは結った髪から滴る水を恨めしげに絞る。
エメリナは頬を膨らませ、ぱくぱくと口を動かした。しかし地上で声が出せない彼女の伝えたい言葉は、ジゼの耳に届かない。
「んだよ、何か文句でもあんのか」
雑に問うが、やはり彼女の唇は音を発さないままぱくぱくと動くだけ。ジゼは溜息混じりに肩を竦めたが、やがてエメリナの視線が手元の乾パンを捉えている事に気付く。
──そう言えば、人魚って、何か食ったりすんのか?
ふと考え、ジゼは問いかけた。
「お前、もしかして腹減ってんの?」
その言葉に、エメリナはまたしても口を動かして何かを伝える。しかしそれが肯定か否か分からない。面倒だなと辟易するが、ジゼは試しに砕いた乾パンの欠片を彼女に差し出してみた。
「ほら、手出してみ」
「?」
「手だよ、手。脚はなくても手はあんだろ」
ジェスチャーを混じえて説明し、ようやく彼女は不思議そうに手を差し出した。直接触ることが出来ないため、少し離れたところから乾パンを落として彼女に与える。
エメリナはきょとんとそれを見つめ、まじまじと観察しながら匂いを嗅いでいた。
「食べんの。口に入れる」
「……」
「硬いから、ちゃんと噛めよ」
まるで幼い子どもの相手をしているかのようだ。
自らも乾パンを口に含んで実践してみせれば、エメリナはジゼを真似ておずおずとそれを口にした。
もご、もご。しばらく口の中でパンを転がしていた彼女。だが、やがて渋い表情を作って地面にぺっと吐き出してしまう。
どうやら硬くて食べられなかったらしい。
「……あー……硬いと噛めないのか。口小さいもんな、お前」
ぱく、ぱく。エメリナは何か言いたげにしている。
しかしやはり彼女の言いたいことが理解出来ないまま、乾パンを齧ったジゼは蜂蜜の小瓶に手を伸ばした。
「こっちは食えるか?」
「……?」
「蜂蜜。甘い」
説明するが、エメリナは首を傾げるだけ。直接食わせた方が早いか、と結論を出したジゼは小瓶の蓋を開け、スプーンで掬い取った蜂蜜を彼女に与えてみる。
「これはさっきみたいに硬くねーよ。舐めてみ」
「……」
ちろり、控えめに突き出した舌が琥珀色の液体を恐る恐ると掬い取る。警戒した様子で、ひとくち。蜂蜜を舐めたエメリナだったが──ひとたびその味を理解すると、途端に瞳を輝かせた。
「お、うまかったか?」
ぺちん、ぺちん。嬉しげに尾ひれを動かす彼女。あむあむとスプーンを食んで蜂蜜を舐め取り始めたエメリナは、どうやらその味をいたくお気に召したらしい。
あっという間に全て舐め終え、彼女は「もっとくれ」と言わんばかりの視線をジゼに投げかける。肩を竦めたジゼは、蜂蜜の小瓶を丸ごとエメリナに投げ渡した。
「!」
「お前、こんなんで腹膨れるのか? 他に食いたいもんは?」
「……」
「……なんか言ってるけど、分かんねえな……」
ぱくぱくと動くエメリナの唇。相変わらず彼女が何を伝えたいのかさっぱり分からず、ジゼは頬杖をついた。
まあ、蜂蜜を気に入ったようだし、ひとまずは良しとしよう。
こくり、黙って顎を引き、己に言い聞かせるジゼ。蜂蜜を受け取ったエメリナは上機嫌に微笑み、小瓶に顔を突っ込む勢いでそれを食している。
一応スプーンも投げ渡してみるが、使い方が分からないのかすぐに投げ返されてしまった。
「お前……行儀悪いぞ……」
「?」
「あー……まあいいや」
口の周りにべっとりと蜂蜜をつけるエメリナに呆れつつ、ジゼはその場に横たわる。せっかく買った蜂蜜、全部やっちまったな……と考えて些か後悔しながら、もう何度目になるのかわからない溜め息を吐きこぼした。
「あーあ……ほんとは今ごろ大金手に入れて、こんなクソみてーな国から出てるはずだったのに……」
細く呟き、夜空を仰ぐ。するとその時、ちゃぷんと鏡面に波紋を刻んだエメリナが身を乗り出し、空を見つめるジゼの顔を覗き込んだ。
突として至近距離に迫られ、ジゼはびくりと肩を揺らす。
「っ!? な、何だ!?」
「……」
「ち、近っ……バカ! 火傷してえのか! 顔近付けんな!」
牽制するが、彼女はまったく言うことを聞かない。愛らしい顔は迫るばかりで、ジゼは顔を赤く染めて人魚から目を逸らした。
ただでさえ露出の多いエメリナの格好は目のやり場に困る。程よく膨らんだ胸元が視界にチラついてしまい、ジゼは必死に煩悩を散らした。
(い、いや、バカかよ! 相手は人魚だぞ! たしかに、顔だけは良いけど……!)
顔を覗かせ始める
──まむっ。
「……へ」
ぐっ、と髪を引かれる感覚を覚え、ジゼは瞳をしばたたいた。続けて彼女へと視線を戻せば、結った己の長い金髪を口に含み、もごもごと小動物のように食んでいるエメリナと目が合って──。
「──いや、何してんだお前ッ!?」
予想外の行動に思わず声を張り上げれば、エメリナは口から髪を離してぱくぱくと何かを告げた。むふう、と得意げに微笑み、目的も分からぬまま何かに満足して鏡の中へ戻っていく彼女。
とぷん。波紋と共に、姿が消える。
ジゼは盛大に眉根を寄せ、怪訝な表情で鏡面を見つめていた。
「……? な、なに……? 何だったんだ……?」
エメリナの考えが全く読めず、ジゼは困惑するばかり。
どくどくと胸は早鐘を刻み、頬も熱を持っている。
赤みを帯びる顔を隠そうと片手で口元を覆った彼は、「びっくりした……」と呟いて上体を起こした。
エメリナは空になった蜂蜜の小瓶を鏡の中から外に放り投げたようで、地面には水の入った瓶のみが残されている。
透明な水で満ちたそれ。エメラルドの光沢を帯びた泡沫がいくつか浮かんでおり、まるで丸い硝子玉が、ぷかぷかと水中でたわむれているかのようだ。ジゼは小首を傾げ、落ちた小瓶を拾い上げた。
「……なんだこれ。人魚の口から出た空気の泡か?」
ぷか、ぷか、浮かぶ泡沫。
やがてそれはぱちんと弾け、同時に、彼の耳が微かな〝声〟を拾い上げる。
──ジ、ゼ。
「…………え?」
耳に届いたそれは、水中でわずかに反響した少女の声だった。たどたどしく己の名を紡いだ小瓶の中身に、ジゼは再び耳を澄ます。
だが、もう何も聞こえない。
(今の……俺の、名前? だったよな?)
訝りながら再び言葉を待つが、泡の弾けた小瓶の中からは、やはりもう何も聞こえてこない。
気のせいだったのだろうか? でも、確かに何か聞こえたような。
謎めく現象に首をひねり──彼はふと、片手で自身の長い髪に触れた。
──べたっ。
「……」
直後、手のひらにべっとりとまとわりついたのは粘着質で不快な感触。反射的に己の髪を見遣れば、先ほどエメリナが咥えていた髪の毛先に、甘い香りを纏う蜂蜜がべたべたと付着している。
脳裏をよぎるのは、ジゼの髪を食んだあと、満足げに鏡の内部へ消えたエメリナの顔。
数分前の不可解な行動を思い出し──ジゼは、ある可能性に辿り着いた。
──あいつ、さっき、俺の髪で汚れた口元を拭いただけなのでは?
ぷつん。そんな結論に至った瞬間、ジゼの中で何かが切れる。
「こっっ、の……っ! クソ人魚があああーーーっ!!」
本日何度目なのかも分からない彼の怒号は、綺麗な星空に反響し、とぷり、とぷり、夜の静寂に溶けていった。
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