第3話 路銀はいまだ水の底
──大陸中央部、カルン荒野。第三人工居住区。
衰退した魔法文明から大型産業文明に切り替わり、環境汚染がもたらした
ジゼは肩から斜めに掛けた革のベルトに銀の鏡を固定して背負い、人通りの多い繁華街を軽い足取りで歩いていた。浮き足立ったその様を見るに、随分と機嫌が良いことは明らかだ。
今頃トレイシー邸は大事な
魔力を用いて持ち主の好きな場所へと瞬時に移動出来る魔法具・
魔法文明が廃れ、人々が魔力を失い、魔法具そのものが貴重品と化してしまった昨今では、魔法に対する警備や対策が上流貴族の屋敷といえど薄いのだ。
魔力を持つ人間など、今の時代、ほとんど存在していない。
加えてこんなみすぼらしい風貌の吟遊詩人が貴重な転移石を所持しているなどと、奴らは考えもしなかっただろう。
(くく、いい気味だな。貴重な石は割っちまったが、代わりに比べもんにならねえぐらいの大金の芽を手に入れた)
くつくつと笑い、古い鏡を背負い直す。そこに収められているのは、儚いながらも美しい〝金の成る木〟だ。
魔法が廃れてほぼ絶滅した今、『強大な魔力を持つ』と言われる本物の人魚となると、もはや幻級のお宝。コイツを売れば、国を動かせるほどの金が手に入るに違いない。
(これでやっと、会いに行けるんだ)
自身の野望に一歩近づき、頬の緩みを抑えきれないジゼは手のひらで口元を覆い隠す。
ああ、さぞ悔しかろうな、貴族の坊ちゃん。人魚がいなくなって絶望するその間抜け面を拝めなかったことだけは、少し残念だったよ。
そう考えながらほくそ笑み、やがてジゼは大きな
様々な装飾品や変わった道具が囲う店内で背中の鏡を手に取ったジゼは、どん、とそれをカウンターに置いて得意げに口火を切った。
「コイツを売りに来た。テイル紙幣三百枚は下らねえぜ」
「……はァ。この小汚い鏡が三百テイルねえ……」
無精髭を生やした店主は呆れ顔で頬を掻き、ジゼの突き出した鏡を見下ろす。
〝テイル〟とは、この国全域で流通している紙幣の通貨単位だ。硬貨の単位は〝ゼム〟と呼ばれ、テイルよりも価値が低い。だいたいテイル紙幣が百五十枚あれば豪邸が建つと言われており、ジゼはその二倍の値を提示して突き付けたのだった。
が、店主は明らかに気乗りしていない。
「こいつァ、〝
皮肉混じりに肩を竦めた彼は、やがて「ゼム銅貨八枚」と厳しめの査定額を導き出した。十分な旅支度すらままならない程度の値段だ。
適当な値踏みをする店主に舌打ちが漏れかけたものの、ジゼはなんとか飲み込んで身を乗り出す。
「いいや、何がなんでも三百テイルだ。よく聞きな、コイツは一級品のお宝だぜ?」
「あぁ?」
「この中には人魚がいる。それも、とびっきりの美人。見目麗しい翡翠色の上玉だ。丁寧に管理されてたおかげで傷も欠損もなく質も良い。この世に二つとない珍品だぜ、どうだ?」
「はあ、人魚ねえ……」
訝しげに目を細め、店主は銀の
「確かに
コンコン、曇った鏡面を小突いて告げる店主は、どうやらジゼの話を信じていない。
対するジゼは「そりゃそうさ、魔力のない人間が使ってもただのボロ鏡だ」と得意げに顎を引く。それでも、店主の視線は訝しげである。
「魔力なんざ、今の時代に残ってるわけねえだろ」
「それはどうかな、
「……まさか、本当にいるってのか? 人魚が」
「ああ、もちろんさ。……ほら、出て来い人魚!」
ジゼは不敵な笑みと共に告げ、パチンと指を打ち鳴らした。直後、それまでゴチャついた店内と反転した自分たちのみ映していた鏡面が変化し、透明な水の中の様子が映し出される。
確かに魔法の鏡として機能していることに少なからず店主は驚いたようだったが──しかし。
そこに、エメリナの姿はなかった。
「……あれ?」
きょとん。拍子抜けしたのはジゼの方で、無言の店主から鏡を奪い取るとその中を覗き込む。だが、やはりどこにもエメリナが居ない。
「──は!? どこ行ったんだアイツ……! おい、人魚!」
「……」
「くそ、さては鏡の裏に隠れやがったな……! おいコラァ! このクソ人魚!! セコい真似してんじゃねえよ、早く出て来い!! 焼き魚にして食うぞ!!」
憤慨するジゼだが、やはりいつまで経っても鏡の向こうからの反応はなかった。うんともすんとも言わないそれに、やがて店主はやれやれと肩を竦める。
「……あー、はいはい、もー分かったよ。
「はあ!? ちょっと待て、俺は嘘なんかついてな──」
「ほら」
呆れ顔の店主は無精髭を掻き、天然石で作られた
「ハアアァ!? いくらなんでもこれじゃ安すぎるだろ! 人魚抜きにしてもこの値段じゃ売れねーよ、一応めずらしい魔法の鏡だぞ!?」
「納得いかねーんなら諦めて帰んなァ、詐欺師として自警団に突き出されたくねーんならな」
「な……っ」
「それとも、何か買ってくか? 色々珍品揃ってるぜ~。絶滅した
──ガンッ!
ジゼは眉間に皺を深く刻み、苛立ちをあらわにカウンターを蹴る。程なくして
どす、どす、どす。
大きく響く足音は不機嫌そのもの。
店に訪れた時とは打って変わって機嫌を急降下させたジゼは、人でごった返す繁華街を抜け、さびれた路地へと入り込む。
そして背中の鏡を強引に掴み取り、仏頂面で鏡面と向かい合った。
「おいッ、このクソ人魚!! 何で出てこねーんだよお前!! 売り損なっただろうが!!」
苛立ちを隠すことなく憤るジゼ。するとそれまで微動だにしなかった鏡面には波紋が浮かび、程なくしてムスッと頬を膨らませた人魚──エメリナがひょっこりと顔を覗かせる。
ジゼは眉間に深く皺を寄せ、ようやく現れた彼女を睨んだ。
「おッッ前! 今さら出てきたって遅ぇんだよ、このアホ人魚!! 出るなら店で出て来い、おかげで売れなかっただろ!!」
「……」
「あぁ!? 何だその不満そうな顔はァ!? 腹立ってんのはこっちなんだよ! いいか、次の店ではちゃんと出て来いよ!? 分かったな!」
鏡に向かって怒鳴るが、エメリナはふいっと顔を背けて素知らぬふりをする。ジゼの額には青筋が浮き上がり、「テメェ……!」と怒りに震える手で鏡の縁を握り込んだ。
しかし直後、エメリナは何を思ったのか、鏡からずいっと顔を突き出す。
更にはジゼに向かってその身を乗り出し、端整な顔立ちに突として迫られた彼は「うわぁ!?」と狼狽えて頬を赤らめた。
「な……!? な、な、何だよ、なんか文句あんのか!?」
「……」
「ちょ、待っ、顔が近……っ」
──ぴゅっ! びしゃあっ!
しかし、彼女の愛らしい容姿に胸が早鐘を叩いたのも束の間。
至近距離にまで迫ったエメリナの口からは、ジゼの顔に向かって冷たい水鉄砲が飛び出していた。
真正面からそれを浴びたジゼは避ける事も出来ず、豪快に顔面を水で濡らしてしまう。
ぽた、ぽた。滴り落ちる雫。
彼に水を吹きかけて反撃したエメリナは、不服げな表情のまま、べーっ! とジゼに舌を出した。
「…………」
しばしその場に立ち尽くし、呆然と硬直していたジゼ。だが、それが彼女の挑発行為だと理解するやいなや、額に青筋を浮き立たせて肩をわななかせる。
やがて彼の中で膨れ上がった何かが、ブチィッ! と音を立てて切れた。
「テッ、メェ……ッ、このアホ人魚おおおッ!! ナメやがって!! マジで焼き魚にして食うぞコラァ!!」
顔を濡らしたジゼが激昂するも、人魚は一瞬だけ鏡に潜るとすぐに戻ってきて再びビューッ! と口内に溜めた水鉄砲で攻撃する。「うっわ、冷てえ!!」「それやめろ!!」と一層憤慨するジゼだったが、掴みかかりたくとも大事な〝商品〟であるエメリナに傷を付けるわけにはいかず、触れられないもどかしさに舌打ちを放った。
(くっそ……! 人間が触れたら、繊細な人魚の肌はすぐに
ぐぐぐ、と奥歯を軋ませ、怒りを制しながら強く己に言い聞かせる。しかしエメリナは更に舌を出し、今度は尾ひれを使って豪快な水飛沫を引き起こした。
当然それは鏡の向こうにいるジゼを真っ直ぐと捉えており、迫ってきた大波のような大量の水が、あっという間に彼を頭から飲み込んで──。
──バッシャアァン!!
まるで大海原の荒波がそのままぶち当たったかのような大きな音が、静かだった路地に響く。全身を水浸しにされたジゼは、髪と衣服からぽたぽたと雫を滴らせながら黙って立ち尽くした。
辺りを包む、暫しの沈黙。ぶるぶると怒りに震える手が、装飾の剥げた鏡の枠を握り込む。
やがてジゼは鬼のような形相で額に血管を浮き立たせ──今度こそ、大声を張り上げて怒鳴ったのだった。
「こんっ、のっ……クッッソ人魚があああっ!! お前覚えてろよ、いつか灼熱の炎天下に引っ張り出してカラッカラの魚の干物にしてやっからなあァァァ!!」
狭い路地と曇天模様の空に響く、彼の怒号。
それからしばらく人間と人魚による攻防戦は続いたものの、相手に触れられないジゼは手も足も出せず、何度も彼女の水鉄砲を浴びるばかりで──結果的に水浸しのまま、人魚を売り歩く羽目になってしまった。
しかし、何軒質屋を巡っても、やはりエメリナが表に姿を現す気配はなく。
結局どこにも売られないまま、エメリナの居る
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