おわりに(後編)

 古代史の著名人 聖徳太子は、十七条の憲法の中で"和の精神"を説いている。思想の形成は その時代と密接にリンクしているが、当時、仏教容認派と仏教排斥派が激しく対立していた。

 ただ、私はそれだけでなく、 と疑っている。それを具体的に裏付ける史料は残されていないが、何にしても その精神は 現代まで受け継がれ、"昭和""令和"などの元号にも使用されていた。

 だが 考えてみれば、聖徳太子の流れは その後 一旦 主流に回帰したものの、おそらくまた追い落とされてしまったことが臆度された。私は、彼の思想は 紆余曲折を経て と推測している。

 豊葦原中国の支配者 大国主には 元来 聖徳太子が投影されていたと私は目星をつけているが、その後、その中身は変更。天照大神の御代にタタリがあることを忌避する持統女帝の命によって、最終的にはが収まったのではないかと私は検討していた。

 実際、大国主の子孫は、天皇家の初代に嫁いでいる。大国主の中身が 聖徳太子から高市皇子を経て 天皇家側の人物に変わったとき、天照大神と大国主の対立は 国を譲るという穏健な形で決着を見たのだろう。そこには、元々の大国主であった聖徳太子の思想が 大方 利用反映されていた。

 それは勿論、時の権力者の思惑・都合に過ぎなかったかもしれないが、このによって、聖徳太子の思想は 現在まで受け継がれ、そして この国の指針として生き続けたものと私は推量している。

(詳しくは、また別の機会に。)


 2019年5月、この国で約30年ぶりに皇位継承が行われた。即位式において、天皇陛下は黄櫨染御袍こうろぜんごほうを着用されるが、その御衣は 室町時代後期以降 京都太秦にある広隆寺に贈られることになっている。

 広隆寺と言えば、まずアルカイックスマイルで有名な半跏思惟像を脳裏に浮かべるが、そこには聖徳太子が33歳の時の等身大立像もあり、この聖徳太子像に当代の天皇の御衣が その在位中 装着されていた。

 聖徳太子33歳像は 1年に一度だけ開扉されるが、何故 かの像が この御衣を纏うか、その由縁はハッキリとは分からなかった。当時、世は乱れに乱れていたが(戦国期)、或いはこの儀は その出自ゆえに即位を隠さなければならなかった聖者の霊を慰め、それによって世を平安ならしめるためのものだったのかもしれない。この時節、第105代 後天皇は 疾病終息を発願して『般若心経』などを写経されており(1540年)、天皇陛下は 皇太子時代、国民に寄り添う模範として かの天皇らの名前を挙げられていた(2017年)。

 なお、さきの奈良天皇とは平城天皇(第51代)のことだとされているが、かの諡は奈良の都に思い入れがある点が共通していたことから贈られたのだろう。7〜8世紀は 奈良に都が置かれており、特に 平城京に都が遷された8世紀は"奈良時代"と呼ばれていた。後奈良天皇は 古代の聖人 聖徳太子を顕彰していたことが窺えるが、想像の翼を逞しく広げると、前の奈良天皇というのは 即位した聖徳太子のことも含めてのことだったのやもしれない。

 そして、この広隆寺の秘儀は 令和になった現在に至っても 脈々と受け継がれている。

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聖徳太子は"蘇我馬子の子"である。 営為つむぐ @eiitsumugu

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