おわりに(前編)

 古代史の著名人 聖徳太子は、亡くなった後 怨霊として怖れられたのではないか と一説には唱えられている。私は、彼は本当は 従来の天皇家の人物ではなく と揣摩憶測しているが、彼の死によって かような心配をしなければならなかったのではないかと愚慮していた。

 聖徳太子の死後にタタリが発生したかどうかは定かではないが、対外戦争の敗戦(663年)などにより、が生じたのではないかと私は当たりをつけている。その流れの中で、大方 第40代 天武天皇が登極。私は、天武天皇は 蘇我氏と関係の深い人物だと考えており、前代があったからこそ 天武には味方がいて 至尊の座に就くことができたのではないかと胸算していた。

 一部では、英雄 天武天皇を後漢の光武帝に擬する見解も存在しているが、光武帝 劉秀は 漢王朝の傍系であり、一度ひとたび滅亡していた漢王朝を再興した人物だった。


 聖徳太子が亡くなった後、蘇我氏全盛の立役者 蘇我馬子は 第33代 推古女帝に「葛城県は 元々私の本居うぶすなであるから賜りたい」と願い出ているが(624年)、私は 葛城県は だったのではないかと拝察している。

 推古女帝は この申し出を拒否しているが、このとき 彼女は していたのではないかと私は狐疑していた。推古女帝が投影されたと思しき天照大神の神話には「天岩戸」と呼ばれる物語があるが、その中で 天照は一度 岩屋に隠れた後 姿

 聖徳太子が亡くなった後、推古女帝が復位していた理由として、先帝 崇峻天皇(第32代)の怨霊の線が考えられるかもしれない。崇峻天皇は 蘇我馬子の命によって暗殺されたことが記録に残されていて、且、諡に "タタリ"とよく似た"崇"の文字が用いられていた。崇峻天皇のタタリと思われる出来事によって 聖徳太子が亡くなったことが、かの王朝が断絶した一因なのだろう。


 蘇我系天皇である用明天皇(第31代)や崇峻天皇(第32代)ではなく、日本史上初の女帝 推古天皇(第33代)の御代を最高神の治世

として 正史『日本書紀』の元々の編纂命令者 天武天皇が想定していたと思しきことから、天武にとってルーツだと思える人物(♂)がその時代に立ったことが窺われるが、彼は 先帝 崇峻天皇の暗殺後、推古女帝と共治した後 血の正統性をもって 後継へと位を譲り渡したのではないかなと私は想像している。

 位を譲り受けた人物は、女系とは言え 曲がりなりにも 従来の天皇家の血をひいており、それ故に 豪族達の反発も最小限に抑えられ 様々な改革が実施できたのではないかと私は思料していた。が、ともすれば、この隠蔽ことが 女系天皇を忌避する現代の気風に繋がっているのやもしれない。

 因みに、即位の記録を隠すくらいなら 存在そのものを消せばいいような気がしないでもないが、タタられる危険が 多分にあったため、それはできなかったのだろう。けれども即位の記録は 相手側の正統性を潰す意味で、消さないといけない。よって、過剰に褒め称えることで 帳尻を合わせようとしたのではなかろうか? 高位者のタタリほど怖ろしく、より警戒しなければならなかった。

 あと、聖徳太子の子とされる山背大兄王が即位できず その後 蘇我氏の4代目 入鹿に滅ぼされた所以は、蘇我氏が かの一族の男系血族を至尊の座に就かせることを諦め、天皇家に蘇我氏の女性を嫁がせる政策に立ち返っていたからであろう。それを無視したがゆえに、山背大兄王は 攻め滅ぼされたものと私は浅慮している。

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