五月、黒い君。
公園の滑り台に座る松葉は、公園内の暗闇から歩いてくる黒い姿に気がついた。
「……奏?」
「松葉さん……」
松葉は滑り台から飛び降りて、奏に駆け寄った。
「どうしているの、引っ越したって聞いたわよ」
「鍵を返却する日で、マンションの。引っ越したから、
ここに来るのも最後だし、いるかなって通ってみたんだけど……
まさか本当に会えるとは思ってなかったよ」
松葉はぐっと言葉を堪えた。
ここでまくしたてれば、奏は帰ってしまうかもしれない。
どうして連絡を返さなかったのか、自分の前からいなくなったのか。
聞きたいことも問い詰めたいことも山程あったが、一つだけ質問を投げかけた。
「……この本は何?」
手に持っていた雨色の本をつき出した。
「ええと、俺の私小説……かな」
「君が体験した出来事をそのまま書いたってこと?」
「そう、なるね」
「脚色するって言ってたじゃないの。これを出版したの?」
「ああ、違うよ。それは自分で注文して、その一冊だけ刷ってもらったんだ」
「じゃあ書店に出回るわけじゃないのね?」
「うん、さすがに明け透けすぎるから。世に出すようなことはしないよ」
「それはよかったわ。こんな、デタラメな小説が
世の中に出ていたらいたたまれないもの」
「え……?」
奏が動揺に目を剥いた。奏がこんな風に驚きを露わにするのは珍しい。
「私と石蕗が――君の兄が付き合う風に書かれてるけど、そんな事実ないわよ。
石蕗とは今でも友達だし、この本の結末みたいにはならないから」
「でも松葉さんは、兄貴が好きだったんじゃないの?」
「好きだった。今の私が好きなのは君よ、奏」
視線を泳がす奏に、してやったと松葉は内心でほくそ笑んだ。
「びっくりした……その、すごく情熱的だから。
松葉さんってもっとクールだと思ってた」
誤魔化すように言葉を紡ぐ奏に、松葉は余計に腹が立った。
「情熱的か……そうね。無理ってわかってても片思いし続けて、
大雨の中で告白するような女よ。好きになったら諦められないの」
奏は明らかな戸惑いを見せた。
自分の兄を選べる状況で何故そうしなかったのか、理解できないという顔だった。
「石蕗は友達としていられるけど、奏は一緒にいないと手に入らないから。
次に手を離したら、またどこかへ行ってしまうでしょう?」
そう言って松葉は奏の腕を掴み、引き寄せた。
身長差のある奏は屈む形になり、これ以上の言葉を伝えるのが
億劫になった松葉は、口紅を薄く引いた唇で奏の言葉をさえぎった。
◆◆◆
仕事が終わり、急な夕立に降られ雨宿りにバーへ来ていた。
松葉を迎えに来ていた奏も一緒にテーブルにつき、隣りあって座っている。
「バーにいるのに、仕事はしないの?」
「さすがに、見られながら書くのはちょっとね」
「だってしっかり見張っておかないと、また違うことを書かれるじゃない」
「大丈夫だよ、松葉さんにあげた本以外に刷るつもりもないし。
それに、今度は違う話を書こうと思ってるんだ」
「じゃあ、どんな話か聞きましょうか。雨もやまないし」
揃いの青いカクテルがテーブルの上に並び、溶けた氷に揺れている。
雨は強く、しばらく降り止む様子はない。
だがカクテルを飲み干しても、お互いがここにいる。
もう少しこの雨が続いてもいいかもしれないと、松葉は奏の語る声に耳を寄せた。
雨のBARで青い本とカクテルを、黒い君と。 山散ばんさん @bansan_111
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