五月、雨色の本。



◆◆◆


兄と食事をする彼女を見かけたのが最初だった。


兄との会話中に浮かべる表情はまるで少女のようで、

一目で、この人は恋をしているのだと気づいた。


でもその兄には恋人がいて。


その女性は俺の実家に遊びにくると、兄がいないと知って俺を押し倒してきた。


白い腕が、逃げようとする俺の腕にしがみついてきたのを

今でも鮮明に思い出せる。


すぐに俺は一人暮らしを始めたけれど、あの腕を

思い出しては夜の薄暗い住宅街に逃げ込んだ。


ある夜も宛がなくさまよっていて、公園に通りがかった。


丘の上に造られた公園は勾配があって、

天辺には大きな滑り台が這うように何本も伸びていた。


そこには滑り台に腰かけた、あの彼女がいた。


兄の友人の彼女、兄に恋をする彼女。

彼女は遊具を「玉座」だとうそぶいた。


ますます俺は興味を惹かれて、またここに来るかと尋ねた。

また彼女に会えるだろうか。


昼は喫茶店を営業しているバーで執筆を進めていると、

だいぶ長い時間集中していたのか、大雨の音でようやく

夜になっていたことに気づいた。


飲みの客で混雑してくる時間だ。

店内を見渡すと、昨夜の彼女がカウンターに座っていた。


雨に降られたのかひどく濡れていて、何杯もカクテルを飲み干しては

注文を繰り返していたが、とうとう酔い潰れてしまった。


カウンターに突っ伏した彼女を放っておけなくて、俺は話しかけて

帰るように説得した。公園で会った相手だと思い出してくれたのは嬉しくて、

破顔しそうな頬を引き結んだ。


タクシーに乗せると、一緒に帰らないのかと誘われて心臓が早鐘を打った。

たぶん彼女は何か辛いことがあって、自棄になっているだけだろう。


遠ざかるタクシーを見送りながら、きっともう会うことはないと思っていた。


◆◆◆


公園の滑り台に座り、雨色の本を開いていた松葉は本から顔を上げた。

奏の話なのだ、これは。いくらか脚色しているのかもしれないが。


石蕗と食事をしたのはいつの頃だったか。

少なくとも今よりずっと寒い日で、冬だったことは覚えている。


本には松葉と出会う前の奏が、取材の約束を取り付け、

カメラを持って方々へ行った出来事も書かれていた。


本当はカメラも取材のためではなく、詩織の動向を

写真に収める目的で持ち歩いていたようだ。


動物園や映画館に詩織がいた描写はないが、写真にもあった

美術館と水族館には、たしかにその姿があったと。


映画は似た境遇の上映作品があると知って選んだらしい。


証拠を集めている間にも、兄に打ち明けることを考えては

相当に悩んでいる様子がうかがえた。


兄弟仲が良いのか、兄の悲しむ顔を見たくないと悩んでいたようだ。


「……過去が書いてあるなら、未来は?

今の奏のことも書いてあるの……?」


松葉は慌てて本をめくり、終盤のページを流していった。


◆◆◆


レストランの夜から数週間が経ち、兄から連絡があった。

恋人と婚約を取り止めて、縁を切ったと。


相当に恨まれることをは覚悟していた。


だけども兄は怒らずに、悲しんでいる様子はあったものの、

変わらないまま大事な俺の兄のままでいてくれた。


悲しさはきっと癒える。癒してくれる人がいる。

兄を見つめる、可愛らしい表情の彼女。


目を閉じれば、寄り添う二人の姿が見える。

幸せになる彼女達の姿を、俺は一番近くで見守れる。


それがただ、嬉しい。


◆◆◆


本から流れ込んだ感情に、松葉は呆然とした。

本の、奏の感情が流れ込み、どう感じながら自分の傍にいたのか。


ページを閉じた松葉は雨色の表紙に目を落とし、嘆息した。

このまま、奏に会わずにいた方がいいのだろうか。


石蕗の心に空いた穴を埋めて、恋人になる。そういった選択肢もあったのだ。

松葉は考えもしなかったが、奏が望むのなら、選ぶべきか。


あれだけ会いたいと思っていた気持ちに、本に感化されて迷いが生まれてしまった。


仰ぐように夜空を見上げた松葉の耳に、足音が聞こえた。


目の端だけで音のした方を捉えると、黒い姿が見える。

身長のある痩躯が、街灯の下に姿を現した。


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