九.おかえりなさい


 当日が近づくにつれ、新郎であるセスは忙しくなってゆく。招待状は一通り送り終えたが、神殿の神官たちや城の女官たち、つまり式を運営する裏方スタッフとの打ち合わせにはキリがない。

 加えて飛竜の世話、騎士団員としての訓練と近衛騎士としての通常業務、プライベートの予定を詰めていけば、一日の時間が足りなくなる。


 ラファエル国王になるべく残業させないネプスジードの方針もあって夕食前に執務は終わるのだが、夜は大抵アルテーシアと過ごすのでセスが寝室へ戻ってくるのは深夜だ。じっくりとぬいぐるみを観察している余裕がなかった。

 それでも部屋へ戻ればセスは首長竜に声をかけ、朝起きれば真っ先に挨拶をする。ぬいぐるみは相変わらずぴくりとも動かないが、きっと彼は憑依ひょういしているか何かで聞いているだろう、という確信があったからだ。

 ラファエルは部屋に大小様々なフィーサスクッション、あるいはぬいぐるみを集めているらしいが、自分のこの行為も信仰心の芽生えなのだろうか。無信仰の家で育ったセスには、よくわからない。

 伝わっていると信じられること、存在を感じられること。実感することで湧きあがるこの感覚が嬉しいなのか安堵なのかはわからないが、心が浮き立って頑張れるのだ。もしかしたら自覚以上に自分は、ウィルダウが消えて寂しかったのかもしれない。


 多忙を極めた日々ながら準備は順調に進み、気づけば数日後に式が迫っていた。明日は、長兄ケスティスが一足早く到着予定だ。飛竜騎士ドラゴンナイトの機動力を生かし月数回の頻度でエルデ・ラオを訪れるので、今ではラファエル国王ともエルデ竜騎士団の面子ともそれなりに打ち解けている。

 国家の中枢たる五聖騎士ファイブパラディンの筆頭がこれほど気軽に訪れていいものなのか、弟としては心配が尽きないが、両国の和合に幾らかでも役立つだろうか。ラファエルも今は長兄の訪れを歓迎しているし、機会があれば帝皇ていおうハスレイシスの見解を聞いてみたいところである。

 そんな心配を首長竜につらつらと打ち明けてから、セスはベッドへ潜り込んだ。あっという間に訪れた微睡まどろみの中、その夜に見た夢は不思議なものだった。





 見回せば、一面にあおい光が満たされている。上方を見あげればこぼれんばかりの星辰せいしん、足元に敷き詰められているのは淡く発光する白い砂。道のように、はるか前方へ続いていた。

 いつか訪れたことがあっただろうか。既視感のある光景が記憶と重なってゆく。


「ここは……ウィルダウの神域?」


 呟いた言葉が波紋のように響いた。返る言葉はないが、不思議にも思わない。道が続く先へ導かれるように歩きだす。

 巨石にも見える黒い塊が前方にあった。にゅっと影が分離し、長い首が持ちあがる。すみれ色の瞳が蒼光と星空を映してきらめいていた。わけもなく姿勢を正し、立ち止まる。十七の頃から若干背が伸びたとはいえ、首長竜の頭はセスの目線よりずっと高かった。


『よく来た、セステュ・クリスタル。我は冥海神めいかいしんである』


 口の動きはなく、頭の中に直接響く音声。ぼんやり見あげて告げられた言葉を反芻はんすうし、セスは素直に「何言ってんの?」と呟いた。

 冥海神を名乗る首長竜は、セスの返答など無視スルーして言葉を続ける。


『片時も我を忘れぬ信仰心に報い、祝福をたまおう。神獣を召喚する権威か、尽きぬ魔力か、恐れ知らずの肉体か』

「信仰心、なのか?」

しかり。汝、祝福を望むのであれば、我が手に触れよ』

「我が手、って」


 これはセスの願望が見せている夢なのだろうか。目の前で左のヒレを持ち上げる首長竜を半信半疑で見つめながら、セスは考える。いや、既に夢と自覚したのだから、覚めてもいいはずだ。そもそも、これは本当に夢なのだろうか――。


『我を信じよ』


 図ったようなタイミングで畳み掛けてくる。セスは確信し、右手を延ばして差しだされている左のヒレを握った。ペタリ、冷やりという感触を想像したのに、ふかっとしている。これはもう間違いない。


「本物の首長竜を見たことなくても、本物かどうかくらいわかるんだからな!」


 ヒレを手離し、勢いをつけて大きな首長竜に抱きついた。ふかふかした弾力がセスの体を受け止め、戸惑うような声がだかだかと呟く。この後に及んでまだだましきれると思っているなら、幾らなんでも舐めすぎだろう。

 長い首の上に乗っている頭はこの姿勢だと見えないから、彼が今どんな顔をしているかわからない。ぬいぐるみの感触をしている胴をぎゅっと抱きしめ、セスはずっと温め続けていた言葉を声にした。


「おかえりなさい、ウィルダウ。あなたのお陰で今、世界は平和だ。俺も無事に成人して、もうすぐルシアと結婚するんだよ」


 無言が返るも、離さない。四年前の冒険で何度も痛感したのは、想いは言葉にして伝えられる時に伝えねばという教訓だ。

 人の命も関係も、一瞬先にどうなるのかなどわからないから。

 素直な言葉を、感謝も謝罪も、ためらうことなくまっすぐに。


「会いに来てくれて嬉しいよ、ありがとう。祝福なんていいから、願いを聞いてほしい。四年も待ったんだ、それくらいいいだろ?」


 数年前の自分だったら、この沈黙は否定だろうか、何か恐ろしい失敗をやらかしたのではないかと恐怖しただろう。今はもう、そんなことはない。相変わらず悩みがちだし、迷いも多く、動揺する心を婚約者に支えられる日々ではあるけれど。

 自分に向けられた親愛や愛情を疑ったりするものか。あれから振り返って気づいた数えきれない恩を、優しさを、見落としたりはしない。

 ずいぶんと長く首長竜は沈黙していた。やがて、ぽつりと声が響く。


『願いを述べよ。内容いかんでは……聞いてやれないこともない』


 感情の抑えられた声が素に戻り、ため息のような、呆れのような響きが混じる。それはもう決定的で、セスの口元には自然と笑みが上った。


「俺があなたに願うのはただ一つだ。ウィルダウ。俺たちと、世界を見にいこう」


 あのとき伝えたくて、けれど振り払われてしまった願いを、今度こそはっきり告げる。指先に力を込め、やわらかな身体をしっかり掴んだ。今度は振りほどかれないように、逃げられないようにと願いつつ。

 さっきよりも長い沈黙が流れるも、セスに手を離すつもりがないと彼はわかったのだろう――もう一度、今度はそれとわかるため息が聞こえた。


『本当に君は愚かで、愛おしい。まったく、かなわないな』





 不意の覚醒。閉じたまぶたの向こうに日差しを感じて目を開ける。夢と地続きの感傷が胸に満ちていて、腕の中には黒くやわらかな首長竜がいた。

 さすがにこの歳でぬいぐるみを抱いて眠りはしないから、とこにつく前は確かに、棚の上にあったはずで、――つまり。


「ウィルダウ?」

「まさか」


 思わぬところから声が聞こえ、セスは慌てて跳ね起きる。部屋の中をぐるり見渡せば、窓の側に人がたたずんでいた。鏡で見る顔によく似た容貌、自分ほど長くないが滑らかで癖のない銀髪もそっくりだ。

 四年前と違うのは、以前より若返って――それこそ今のセスとほぼ同じくらいの年齢に見えること、目が首長竜を思わせるすみれ色であること、だろうか。騎士服ではなく魔導士の長衣ローブを身につけている。

 寝起きのよく回らぬ頭で腕の中のぬいぐるみと見比べていると、青年姿のウィルダウは冥海神らしく海のように深いため息をついて、腕を組んだ。


「まったく。君があまりに私へ話しかけるものだから、本体ごとこちらに引き寄せられてしまったよ」

「え、どういうこと?」

「君は知らないだろうが、私の本体ぬけがらは破壊されず冥海神殿の奥に残っていたからね。人の祈りと白龍の権能ちからって戻されたのだ。魔力のほうはまだ充分とは言えないが」


 もう、後継者っぽい別の冥海神を演じるのはやめたらしい。あるいはセスに感化されたのか、四年ぶりに会ったウィルダウは案外すんなりと、セスの疑問に答えてくれた。ということは、最後に渡したぬいぐるみの役割とは何だったのだろう。


「俺はてっきり、このぬいぐるみに憑依ひょういしてたのかと思ってたよ」

「……まぁ、当初は。それは君の願いの形で、消えゆくはずの私を受け止めた仮の器だったから、今でも私の端末みたいなものなのさ。それを媒介ばいかいとし、夢を通じて君へ結婚の祝いを授けようと思ったのだが」

「それはいいよ。魔獣たちとは改めて知り合いたいと思ってるし、魔力は今でさえ騎士の俺には過剰なくらいだし、肉体は……自分で鍛えるし」


 だから、と言い添える。世界のどこかで息づく魔獣たちの本体を訪ねるのに、ウィルダウが一緒に来てくれたなら、これほど心強いことはないと思うのだ。セスに魔導はわからないが、彼は人に魔導をもたらした始祖たる神なのだから。

 ウィルダウの取り澄ました顔が、一瞬困惑の表情いろを映す。誤魔化すように目を伏せてしばし黙考し、やがて顔を上げた彼は、ずいぶん吹っ切れたような顔で笑みをこぼした。


「さすがに、この本体からだ主城ここに住むことはできないな。神にもまぁ、いろいろと、事情がある。代わりにそのぬいぐるみを君に預けよう。その気になれば意思疎通もできるし、場所によるがそれを通じて顕現することも可能だからね」

「ん、つまり、毛玉のほうのフィーサスみたいなものか?」

「少し違うが……細かいことはいいだろう。それを造ったのは私でも白龍でもなく、銀竜の魔力に呼応した君の願いだ。つまり、破損すれば修繕の当てがない。くれぐれも、婚約者殿に預けっぱなしにはしないように」


 大真面目にいう姿がおかしくて、頷いたあとセスは笑った。アルテーシアには分解などしないよう、しっかり伝えておかねばならない。


「わかったよ。ルシアも、言えばわかってくれると思う。式の時にはこのぬいぐるみも来賓らいひん席に置くね」

「いや、……魔将軍たちに見つかれば、どんな扱いを受けるかわからない。それを破壊されたとして今の私に影響はないが……それは、君の、願いの形だからな。式には参列するよ、約束する」


 演じることをやめた彼の声はやわらかく、深い感情がにじんでいる。彼がセスからの贈り物としてぬいぐるみを大切にしてくれていると知って、熱いものが胸に込みあげ、喉の奥までを満たしていった。

 彼は彼のまま、少しひねくれていて格好つけで、その本心では世界と人を深く愛しながら見守り続けた黒幕のままで、現世へ戻ってきたのだ。その実感が心に、安堵と喜びをともなってじわじわ広がっていく。彼なら、約束をたがえることはしないだろう。


「わかった。それじゃ、式が終わっていろいろ落ち着いたら、改めて計画を立てようよ。ルシアもきっと喜ぶから!」


 弾む心をそのまま声に乗せていざなえば、同じ顔の、しかし幾らか曲者っぽい表情の冥海神はセスをまともに見返して、優しく微笑んだ。


「私は元々、深海ふかみへ住まうもの。戦火神のような生き方は性に合わないが……、君が連れ出してくれるのなら、どこへだって行ける気がするよ」




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