九.おかえりなさい
当日が近づくにつれ、新郎であるセスは忙しくなってゆく。招待状は一通り送り終えたが、神殿の神官たちや城の女官たち、つまり式を運営する裏方スタッフとの打ち合わせにはキリがない。
加えて飛竜の世話、騎士団員としての訓練と近衛騎士としての通常業務、プライベートの予定を詰めていけば、一日の時間が足りなくなる。
ラファエル国王になるべく残業させないネプスジードの方針もあって夕食前に執務は終わるのだが、夜は大抵アルテーシアと過ごすのでセスが寝室へ戻ってくるのは深夜だ。じっくりとぬいぐるみを観察している余裕がなかった。
それでも部屋へ戻ればセスは首長竜に声をかけ、朝起きれば真っ先に挨拶をする。ぬいぐるみは相変わらずぴくりとも動かないが、きっと彼は
ラファエルは部屋に大小様々なフィーサスクッション、あるいはぬいぐるみを集めているらしいが、自分のこの行為も信仰心の芽生えなのだろうか。無信仰の家で育ったセスには、よくわからない。
伝わっていると信じられること、存在を感じられること。実感することで湧きあがるこの感覚が嬉しいなのか安堵なのかはわからないが、心が浮き立って頑張れるのだ。もしかしたら自覚以上に自分は、ウィルダウが消えて寂しかったのかもしれない。
多忙を極めた日々ながら準備は順調に進み、気づけば数日後に式が迫っていた。明日は、長兄ケスティスが一足早く到着予定だ。
国家の中枢たる
そんな心配を首長竜につらつらと打ち明けてから、セスはベッドへ潜り込んだ。あっという間に訪れた
見回せば、一面に
いつか訪れたことがあっただろうか。既視感のある光景が記憶と重なってゆく。
「ここは……ウィルダウの神域?」
呟いた言葉が波紋のように響いた。返る言葉はないが、不思議にも思わない。道が続く先へ導かれるように歩きだす。
巨石にも見える黒い塊が前方にあった。にゅっと影が分離し、長い首が持ちあがる。
『よく来た、セステュ・クリスタル。我は今代の
口の動きはなく、頭の中に直接響く音声。ぼんやり見あげて告げられた言葉を
冥海神を名乗る首長竜は、セスの返答など
『片時も我を忘れぬ信仰心に報い、祝福を
「信仰心、なのか?」
『
「我が手、って」
これはセスの願望が見せている夢なのだろうか。目の前で左のヒレを持ち上げる首長竜を半信半疑で見つめながら、セスは考える。いや、既に夢と自覚したのだから、覚めてもいいはずだ。そもそも、これは本当に夢なのだろうか――。
『我を信じよ』
図ったようなタイミングで畳み掛けてくる。セスは確信し、右手を延ばして差しだされている左のヒレを握った。ペタリ、冷やりという感触を想像したのに、ふかっとしている。これはもう間違いない。
「本物の首長竜を見たことなくても、本物かどうかくらいわかるんだからな!」
ヒレを手離し、勢いをつけて大きな首長竜に抱きついた。ふかふかした弾力がセスの体を受け止め、戸惑うような声がおうだかあうだかと呟く。この後に及んでまだ
長い首の上に乗っている頭はこの姿勢だと見えないから、彼が今どんな顔をしているかわからない。ぬいぐるみの感触をしている胴をぎゅっと抱きしめ、セスはずっと温め続けていた言葉を声にした。
「おかえりなさい、ウィルダウ。あなたのお陰で今、世界は平和だ。俺も無事に成人して、もうすぐルシアと結婚するんだよ」
無言が返るも、離さない。四年前の冒険で何度も痛感したのは、想いは言葉にして伝えられる時に伝えねばという教訓だ。
人の命も関係も、一瞬先にどうなるのかなどわからないから。
素直な言葉を、感謝も謝罪も、ためらうことなくまっすぐに。
「会いに来てくれて嬉しいよ、ありがとう。祝福なんていいから、願いを聞いてほしい。四年も待ったんだ、それくらいいいだろ?」
数年前の自分だったら、この沈黙は否定だろうか、何か恐ろしい失敗をやらかしたのではないかと恐怖しただろう。今はもう、そんなことはない。相変わらず悩みがちだし、迷いも多く、動揺する心を婚約者に支えられる日々ではあるけれど。
自分に向けられた親愛や愛情を疑ったりするものか。あれから振り返って気づいた数えきれない恩を、優しさを、見落としたりはしない。
ずいぶんと長く首長竜は沈黙していた。やがて、ぽつりと声が響く。
『願いを述べよ。内容いかんでは……聞いてやれないこともない』
感情の抑えられた声が素に戻り、ため息のような、呆れのような響きが混じる。それはもう決定的で、セスの口元には自然と笑みが上った。
「俺があなたに願うのはただ一つだ。ウィルダウ。俺たちと、今の世界を見にいこう」
あのとき伝えたくて、けれど振り払われてしまった願いを、今度こそはっきり告げる。指先に力を込め、やわらかな身体をしっかり掴んだ。今度は振り
さっきよりも長い沈黙が流れるも、セスに手を離すつもりがないと彼はわかったのだろう――もう一度、今度はそれとわかるため息が聞こえた。
『本当に君は愚かで、愛おしい。まったく、
不意の覚醒。閉じた
さすがにこの歳でぬいぐるみを抱いて眠りはしないから、
「ウィルダウ?」
「まさか」
思わぬところから声が聞こえ、セスは慌てて跳ね起きる。部屋の中をぐるり見渡せば、窓の側に人が
四年前と違うのは、以前より若返って――それこそ今のセスとほぼ同じくらいの年齢に見えること、目が首長竜を思わせる
寝起きのよく回らぬ頭で腕の中のぬいぐるみと見比べていると、青年姿のウィルダウは冥海神らしく海のように深いため息をついて、腕を組んだ。
「まったく。君があまりに私へ話しかけるものだから、本体ごとこちらに引き寄せられてしまったよ」
「え、どういうこと?」
「君は知らないだろうが、私の
もう、後継者っぽい別の冥海神を演じるのはやめたらしい。あるいはセスに感化されたのか、四年ぶりに会ったウィルダウは案外すんなりと、セスの疑問に答えてくれた。ということは、最後に渡したぬいぐるみの役割とは何だったのだろう。
「俺はてっきり、このぬいぐるみに
「……まぁ、当初は。それは君の願いの形で、消えゆくはずの私を受け止めた仮の器だったから、今でも私の端末みたいなものなのさ。それを
「それはいいよ。魔獣たちとは改めて知り合いたいと思ってるし、魔力は今でさえ騎士の俺には過剰なくらいだし、肉体は……自分で鍛えるし」
だから、と言い添える。世界のどこかで息づく魔獣たちの本体を訪ねるのに、ウィルダウが一緒に来てくれたなら、これほど心強いことはないと思うのだ。セスに魔導はわからないが、彼は人に魔導をもたらした始祖たる神なのだから。
ウィルダウの取り澄ました顔が、一瞬困惑の
「さすがに、この
「ん、つまり、毛玉のほうのフィーサスみたいなものか?」
「少し違うが……細かいことはいいだろう。それを造ったのは私でも白龍でもなく、銀竜の魔力に呼応した君の願いだ。つまり、破損すれば修繕の当てがない。くれぐれも、婚約者殿に預けっぱなしにはしないように」
大真面目にいう姿がおかしくて、頷いたあとセスは笑った。アルテーシアには分解などしないよう、しっかり伝えておかねばならない。
「わかったよ。ルシアも、言えばわかってくれると思う。式の時にはこのぬいぐるみも
「いや、……魔将軍たちに見つかれば、どんな扱いを受けるかわからない。それを破壊されたとして今の私に影響はないが……それは、君の、願いの形だからな。式には参列するよ、約束する」
演じることをやめた彼の声はやわらかく、深い感情がにじんでいる。彼がセスからの贈り物としてぬいぐるみを大切にしてくれていると知って、熱いものが胸に込みあげ、喉の奥までを満たしていった。
彼は彼のまま、少し
「わかった。それじゃ、式が終わっていろいろ落ち着いたら、改めて計画を立てようよ。ルシアもきっと喜ぶから!」
弾む心をそのまま声に乗せて
「私は元々、
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