八.妹の想いびと
セスの日課は、飛竜の世話から始まる。竜舎の担当官から果物
金飛竜の騎士である故郷の兄が同じ日課をこなしていたかは知らないが、国王であるラファエルはセスより早く起きて蒼飛竜の世話をおこなっている。彼が団長だった頃から、飛竜の世話はその乗り手がすると決められていたのだという。
実際、
いつものようにトライドの身体をブラシで擦っていると、竜舎の入口に人影が差した。目を向け確認したセスはどきりとする。
すらりとした細身に波うつ金の髪、姿勢良く容姿の美しいエルフの騎士が、果物籠を抱えて入ってきたところだった。元魔将軍であり、今は妹の護衛騎士として王城に住んでいるナーダムだ。
互いに最悪だった第一印象もだいぶ
リュナの頼みなら大抵のことは聞き入れる彼を苦手と思うことも、今はほとんどない。しかし、彼について脳内で噂している真っ最中だったので、少し気まずかったのだ。
そういう感情に対して、ナーダムは驚くほど敏感である。
「何? 邪魔だった?」
「そんなことないよ! ここで遭遇するのは、珍しいと思って」
「今日はリュナを豊穣神殿へ連れていく予定なんだ。だから早いうちにギディルに食事させようかと」
飛竜たちはそれぞれ体内時計が異なるのか、ギディルが野生種だからバイオリズムが異なるのか、専門的なことはわからないが、同じ竜舎に翠飛竜がいても世話する時間がかぶることは滅多にない。
なるほどと納得しかけたセスは、彼の言葉を
「えぇっ、俺それ聞いてないんだけど!」
「そうなの? それなら、今の忘れて」
「忘れられるかよっ。ナーダムは何をしに行くか、知ってるんだろ?」
頷く代わりに目を泳がせて、ナーダムはギディルの前に
実のところセスは、妹が恋している相手はナーダムではないかと思っていた。
彼の敬愛するグラディスが内に宿っているからとはいえ、ナーダムが普段から仕え守っている相手は、リュナだ。妹はエルフの騎士を深く信頼しているようだし、単純に一緒にいる時間も多い。
エルフなだけあってナーダムは美形だし、今は人間に対しても物腰や口調が穏やかになったので、城仕えの女性たちに人気があるのも知っている。
思ってはいてもなかなか聞き出せるものではなく。アルテーシアに恋
当人は無言でしばらく
「別に……秘密にする話でもないけどね。おまえ、今は自分のことで忙しいんだろ? だからリュナは気を遣ったんじゃないの」
「式ならほとんど準備が済んでるから、そういう気遣いはいらない」
「そう。ん、……実は、翠龍がグラディス様のために器を準備してくれていたんだけど、ようやく整ったみたいで。魂を移し替える儀式をするため、神殿まで出向く予定になってるんだよ」
予想外も予想外、返す言葉がすぐには思いつかず、セスは絶句してナーダムを見る。器という言葉で想起したのは、そろそろ忘れかけていた事実だった。セス自身、ウィルダウの器として造られている……そう言われたことがあったのだ。
感情に聡いナーダムは、セスの驚きを正しく理解したらしい。セスの返答を聞く前に言い加える。
「もちろん、誰かを犠牲にする方法じゃない。今のグラディス様は『銀河の権能』を持たない魂のみの存在だから、翠龍の
「え、え、……年頃って」
人というものは、自分が一番気にしている情報を優先して拾いあげるものらしい。つい聞き返したのがよりによってそこで、今度はナーダムに絶句された。猫のような碧眼が、こいつ何、と言いたげに細められる。
「ぜんぶ説明しないとわからない?」
「いやっ、わかるけど! ナーダム、もしかしてリュナと……」
弁解するつもりが墓穴を掘った。失言を自覚し血の気がひく音がする、気がした。綺麗な猫目が大きく見開かれ、瞬きし、それからすっと細くなる。
「僕じゃないから、ご心配なく」
「え」
「おまえに余計な心配をかけたくないんだろ。……そんな顔されるくらいなら、黙ってたほうがいいって思うよね」
「待って待って、ナーダムじゃないけど、相手は知ってるってこと?」
妹を心配するのは兄の
ナーダムはしばしの間、
「リュナに話させるよりは僕が話したほうがマシ……かな。うん、知ってるよ。彼女が好きなのはルウォーツ様。でも、ちょっと難しいみたいだね」
「えぇえっ」
「いちいち
告げられた事実を十分に認識できずにいる間に、ナーダムはそう詰め寄ってセスを頷かせてから、空の籠を持って立ち去ったのだった。
受け取った情報を脳内で処理しきれぬまま、竜舎の日課を終えて部屋へと戻る。作業着を脱いで騎士服に着替え朝食の席へ向かおうとして、棚の上に置いた首長竜のぬいぐるみと目が合った。紫ボタンの目には瞳など描かれていないのに、そんな気がして足を止める。
引き寄せられるように近づき、柔らかそうな前ヒレに手を伸ばしてそっと握ってみた。微細な毛羽立ちの生地はしっとりしていて、不思議な涼感がある。息を詰めボタン目を見つめてみたが、やはり動く様子はない。
「俺、リュナが好きな相手がナーダムだったらどうしようって、ずっと心配してたんだけど。ディヴァスさんは予想外だったなぁ」
返事を期待せず話しかけられる相手は、気楽だ。思いの丈をまとまりなく吐き出しても、問い返されたりしないから。
「ナーダムが嫌とかじゃないんだ。リュナは今もう普通の人間だから……寿命の違いとか、種族の違いとか。けど、シャルとレーチェルだってそうだし、とか。でも、ディヴァスさんは……」
元魔王という肩書きは仮初めで、彼は本来なら神々を統べる立場にある存在。五百年前の悲劇は当時の
過去の再演にも思える状況を素直に応援する気になれず、けれどそんな自分が狭量にも思えて、心に鉛が落ちたような気分に陥る。
ちょっと難しいみたいだ、とナーダムは言っていた。リュナが想いをあきらめるつもりなのか、ディヴァスの側に脈がないということなのかまではわからない。
この悩みを、結婚を控え幸せの絶頂に見える兄へ相談できないのもわかる。もしも相談されたとして、セスにはアドバイスどころか上手く聞くこともできなかっただろうし。
兄として情けないと思うが、自分の結婚にも両方の父親たちから強い反対があったことを思えば、身内だからこそ感じる不安や
首長竜のヒレを握ったままぼうっと考え込んでいたことに、ふと気づく。
見れば、壁時計の針は朝食時刻を通り越していた。慌ててヒレを離し、両手で顔を叩いて気持ちを切り替える。
本当のところ、セスがどう思うかなど重要ではないのだ。自分とアルテーシアも反対を押しきって想いを貫き、結婚を決めたのだから。
リュナが何を望み、どんな選択をするのか決めるのは、当人自身にしかできない。どの道を選んでも痛みは避けられず、全部を手にすることもできない。それは、人でも神でも大きくは違わないと――セス自身も実感をもって知っている。
そんなふうに思考へ区切りをつけ、急いで朝食の場へ向かおうとしたセスは、ふと気配を感じた気がして足を止めた。出掛かっていた扉から室内を振り返る。
静かに時間を刻む時計、見慣れた家具と書棚、棚の上に鎮座する大きな首長竜。目を留めてしばし
誰かの忍び笑いに思えたが、遠くの談笑を背後に錯覚しただけかもしれない。そう考えつつも、どこかで確信は芽生えていた。
物心ついたときからずっと側にいた気配とそれは、とてもよく似ていたからだ。
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