〈幕間十〉紡がれゆく、新たな伝承


 魔王軍から解放されたばかりのルマーレ共和国は、混乱が収まってはいない。囚われていた者たちが全員無事だといっても、内政や経済が二ヶ月も停止したのは大きな痛手だった。

 立て直しのために毎日奔走していた評議員たちが大神官により招集されたのは、シャルがレーチェルと天空の地へ旅立って間もなくのこと。午前中いっぱいを会合にあて帰宅した夫の浮かない顔を見たアメリアは、どんな事件が起きたのかと心配したのだが。


「神託が下ったそうだ。明日から三日間、ルマーレ全土を挙げて災いけの祈祷きとうが行われる。急な話ではあるが、各々いま手がけている仕事を途中にしてでも祈りに加わるように、と大神官様は仰っていた」

「三日間……とは、ずいぶん大掛かりね。ええ、わかったわ。それなら明日までに準備をしないと」

「苦労をかけるが、頼む。私も明日から神殿へ詰めて、儀式を手伝うよ」


 同じ神託が世界中の神職者にもたらされたとして、人々の反応は様々だろう。個人の日常を犠牲にして神の声に従うのは、簡単なことではないからだ。しかしルマーレ共和国は、ふるくから冥海神への信仰を中心とし発展してきた国である。理不尽な暴挙に見舞われたとしても、国民の信仰心が損なわれることはなかった。

 大人も子供も例外なく、神殿の指示に従い今日のうちに仕事を終え、明日に備える。次の日から国全体で神託のとおりに大々的な儀式を執り行ない、災いの日に至るまで神々の加護を祈り求めたのだった。


 災いに際し神々がルマーレに遣わした天使の姿を見て、アメリアと夫はたいそう驚くことになる。神秘的な光の翼を広げているが、彼女はシャルとともに国難を救ってくれた少女レーチェルだったからだ。

 隣にはもちろんシャルもいて、彼らは互いの無事と再会を喜びあった。


 祈りが届いたのか神々の護りが強かったのか、災いの雲がルマーレ共和国に豪雨をもたらすことはなかったという。




  ☆ ★ ☆




 帝国帝皇ていおうハスレイシスの元へ意外な人物が訪ねてきたのは、腹心の黒豹ディスク転移門ゲートとやらで砂漠都市へ向かった、すぐ後のことだ。五聖騎士ファイブパラディンの一人である『赤き目の熊』オアス・クリスタルに付き添われ、杖をついて現れたのは、帝皇ていおうが今もっとも警戒する人物――リートル導師だった。

 落ちくぼんでもなお鋭い眼光をたたえた暗緑色の双眸そうぼう、白く長い髪と髭。高齢により魔導協会の主宰しゅさいを降りたとはいえ、魔導の技術面でも権威という点でも彼は依然として大きな力を持っている。


「お爺ちゃん、あまり長居は駄目だよ」

「わかっておる。おまえは務めに戻るが良い」

「陛下とお爺ちゃんを護衛するのも僕の務めだよ」


 熊と称されるオアスはケスティスと同腹のクリスタル家次男だが、見た目も性格もケスティスとは似ていない。

 鷹のように鋭角的なケスティスとは対照的に、どっしりした体格と野趣のある風貌のオアスは温和そうな印象だ。帝皇ていおうの近衞騎士であり実力は確かだが、実際に気質も穏やかでおおらか、公の場だろうとマイペースを貫く問題児でもある。

 近衛騎士の団長でもある彼が、身内とはいえ他人を執務室まで連れてくるのはどうなのかと思いつつも、足元が覚束おぼつかない老人を追いだすのは気が引けた。仕方なくソファを勧めたが、リートルは底知れぬ笑みを浮かべ、場に立ったまま帝皇ていおうを見あげた。


「神託が下った。帝皇ていおうよ、至聖の間にある聖輝石の力を解放するのだ。そうすれば、帝国全土は災いから逃れられるであろう」

「リートル導師、意味がわからんのだが。オアス、どういうことだ?」


 太い眉を下げ、細い目を和ませて、オアス・クリスタルは赤みがかった癖毛の金髪を太い指でかき回し、苦笑する。


「陛下、魔法とかそういうのは僕にもわからないんですが、天が異兆を示したと気象予報官や精霊使いたちも申しておりまして。祖父が言うには、聖輝石を通し天空神が指示を下さるそうです」

「天空神が?」


 災いについては黒豹との間でしか話していない。天空神と聞いて想起するのは、天使族エンジェルズから親書を受け取ったというケスティスの話だ。しかしリートル導師の言葉を全面的に信じていいものか判断が及ばず、ハスレイシスは答えに迷う。

 導師のほうは用は済んだとばかりに身体の向きを変え、杖とオアスに支えられながら執務室を立ち去っていった。引き留めるべきか悩み、見送ることにしたが、胸騒ぎはやみそうにない。入口に立つ近衛騎士たちに声を掛け、思い切って至聖の間へと向かう。

 衛士に扉を開けさせ、奥へ。ここより先は帝皇ていおうと、帝皇ていおうが許可した者以外は立ち入れないのだが――。


「待っていたぞ、輝帝国の帝皇ていおうよ」


 聖輝石のそばにたたずむ白翼を広げた美丈夫を見て、ハスレイシスは驚くと同時に彼が天空神であると悟った。ケスティスから話を聞いていたので結びついたが、彼の姿は聖画イコンに描かれた建国王そのものだったからだ。

 深く信仰する神もなく国家としても無宗教を貫いていたハスレイシスは、本物の神と対峙することになってもどうすべきかがわからない。せめてひざまずくべきかと腰を屈めたところを、天空神が手で制した。


「畏敬は不要だ。今は時間もないことだしな。帝皇ていおうよ、経緯をすべて話している暇はないが、天に災いがのぼり、神々が集い、創世の女神は力を取り戻した。天空神である俺と天使たちとでこれから地上にまもりを展開するが、中心基点でかつて俺の翼であった聖輝石を用いたいと思う。……良いか?」


 流れるような説明を、黒豹から聞いた報告のお陰で何とか理解できたハスレイシスは、しかしすぐに返答できなかった。神々ごとの権限なら、知識では知っている。確かに、天空神の権能は守護において最も力を発揮するという。

 しかし目の前の、翼を持つ以外は人と変わりなく見える若者を、天空神だと信じていいのだろうか。いや、誰も立ち入れぬ至聖の間にいたことこそ、彼が神である証明だが。

 迷い、言葉を失う帝皇ていおうに、青年は穏やかに笑いかけた。腰に帯びた宝剣を外し、ハスレイシスへ手渡して。


「信じられないのも当然か。では、天龍らしい姿をおまえに見せよう」


 青年の輪郭りんかくが白い光に包まれ、溶けるように姿を変化させてゆく。光は膨らみ大きく広がって、瞬きほどの間にハスレイシスの前には美しい黄金竜が白翼を広げて立っていた。宝石を思わせる深青の瞳が細められ、こちらを見ている。


『どうだ、信じたか?』

「……驚いた。異界から上位竜族が訪れて大陸の各地に魔力の柱を打ち込んだ、という話を聞いたばかりなのに。まさか……本物の神までが」

『はは、そこまで話が伝わっているなら都合がいい! その魔力の柱……銀竜の印づけた地点が、守護のかなめとなるのだ』


 災いの話は黒豹により裏づけが取れている。クリスタル家を信用して良いものか判断が難しいが、眼前で変貌へんぼうを遂げた黄金竜が偽神であるはずもない。逡巡しゅんじゅんし、帝皇ていおうは心を決める。


「信じよう。天空神様、輝帝国の帝皇ていおうとして、私は何をすれば宜しいか」


 陽と天を統べると伝えられる神は、竜の姿を解き人の形になると、力強い微笑みを浮かべて言った。


「俺は天使たちを率い、銀竜が柱を置いた地を要として世界を覆う護りを展開する。奇跡を維持するには、人の祈りが必要だ。民おのおのが、神殿でもいい、自宅でもいい。災いを退けるため、自らが信仰する神へ祈りを捧げるよう取り計らってくれないか。信仰の多様な帝国で、国家主導の祈祷式を執り行うのは難しいだろうからな」




  ☆ ★ ☆




 乾季の砂漠に潮水しおみずの雨が降る。聞いたこともない異兆いちょうに言葉を失うディスク・ギリディシアだったが、砂漠都市の警備隊は存外冷静だった。


冥界めいかい神の怒りか、はたまた海魔が渡りでも始めたか……。いずれにしても、オアシス湖は死守しないとな。黒豹殿は調査のほうを頼むぞ」

「海魔の渡りは雨季に入ってからって、神官の人たちは言ってたけど。ま、原因は何でもやることは変わらないもんね」


 地元の警備隊長はキィの兄サイエスで、この兄妹はタッグを組むと息ぴったりなのだ。風の民リュー・サオニーと協力し、雨雲の動きを変えるべく風の上位精霊を召喚するのだという。しかし、海魔の渡りとは一体。

 気になるが、ゆっくり聞いている場合でもない。この異兆が氷海から来る災いと関連しているのなら、季節的な現象と同じはずがないからだ。

 風の民との連携は警備隊に任せ騎士団詰所へ向かおうとしたディスクを、遠くから誰かが呼んだ。見えるほうの目を向けて確かめると、ツェイとヴィルがアルラウネを連れてこちらへ向かってくるところだった。


「何をやってるんだ、おまえら。危険だから建物に入ってろって言ったよな?」

「でもディスクさん! アルラが、砂漠に行くって」

「ギリディシア卿。僕の養父……クレーべという学者は知っているよな。彼から手紙が届いて、詳しい内容は話している時間がないが、アルラウネは精霊魔法を使えるらしいんだ」


 潮水の雨は砂漠にも降っている。警備隊の対処はオアシス湖を中心とするだろうから、砂漠にまでは手が回らない。元から環境が過酷な砂漠の保全に回れる人材はいない、というほうが正しいか。

 ヴィルの養父は、エルデ・ラオ国で神官長を務めながら幻獣や魔物の調査をしている学者らしいが、報告書を読んでいる余裕がないのも確かだ。しかしここで精霊魔法の話題ということは――つまり。


「アルラウネの精霊魔法で砂漠に降る雨を止めるってか? やめとけ、双月の砂漠がどれだけ大きいと思ってるんだ」


 砂漠環境より、人命のほうが大切だ。この地に支配権を持つ輝帝国の聖騎士として、また調査隊キャラバンの雇い主として、無謀な行為を承認するわけにはいかない。

 しかし、アルラウネはこてんと首を傾げ、言い返してきた。


「メナシも、サボテンドラゴンも、スナフクロウもいるよ? みんなで、ユグドラさまをよぶのだ。いこーぜ、きょうだい」

「……って言うから、オレ行ってくる!」

「ツェイ一人を行かせるわけにもいかないから、僕も行く」


 止める隙もなくツェイがアルラウネを抱えて走りだし、その後をヴィルまでもが追いかけていく。呆気に取られ固まったディスクが我に返った頃には、二人の姿は見えなくなっていた。ディスクは頭を抱えたくなる心境を押しやり、警備隊のほうへと急ぐ。キィの兄サイエスが二人を追うため砂竜サンドラに乗って街を出たのは、その十分ほど後のことだ。

 彼ら、そして砂漠都市の住人と風の民とは、砂漠に棲息せいそくする魔物たちが集い寄り、天をく大樹をびだすのを見たという。周辺諸都市からも目視可能な葉冠の霊樹ユグドラシルは、災害の後も砂漠の真ん中に居座ることとなるのだ。




  ☆ ★ ☆




 エルデ・ラオ国から妖魔の森へ移動する転移門ゲートをくぐり抜け、ネプスジードとアロカシスが目指すのは、大陸中央を流れるファッチ大河だ。

 地上では戦闘力皆無のアロカシスも、水棲の魔物や精霊たちに対してなら影響力は大きい。水護の面でかなめとなる大河の精霊たちに塩害対策の協力を願うという名目で、二人は現在グリフォンに同乗中である。


「やはり前に乗せるんだった! こんな非常時に、クソッ、ぐいぐいと押しつけてくるな!」

「うふふ、だってぇ、こうしていると恋人同士みたいじゃない」

「振り落とすぞ」


 一日限りの効力を持つ魔薬によって、アロカシスは今、人間と同じ二本の脚になっている。常日頃の甘い誘惑を異形の美女だからと避けつづけてきただけに、この状況には戸惑いを隠せない。が、鋼の精神力で隠し通すしかない。

 今は二人とも人間だとはいえ、眼下で水害対処にあたる住人たちに見られては面倒だ。魔王がかけてくれた目眩しの魔法が効いているうちに、すべきことを果たさねばならない。アロカシスははしゃいでいるが、遊びに来たわけではないのだ。


「あ、見て見て、ネプスジード! あの子、アナタに似てるわねぇ」


 不意に後頭部を押され、視線を誘導された。剃髪ていはつ野郎でも見つけたか、と思ったが、眼下を見て一瞬あらゆる思考が停止する。避難のため集まったのだろう女子供らを誘導してる組織だった人々の中に、黒髪の、極東国の衣装をまとった女性がいた。

 神殿の不正に対抗する『迷い家マヨヒガ』という組織について耳にしたのは、つい先日のこと。手慣れた動きからして、あれがそうなのだろうが、――もしかして。


「ネメシス……?」

「あらぁ、やっぱり知り合い? いいわねぇ、燃えるわ! 昔の女が現れようとアタシは負けないわよ!」

うるさい何の話だ! おまえは何を興奮しているんだ!?」


 近くに降りて確かめる時間は、今はない。次この場所に来て、姿を確認できるという保証もない。それでも、彼女いもうとが無事生き延びていて、すべきことを抱えているのなら、それでいいと思った。

 一人盛りあがるアロカシスの嬌声きょうせいを背中で聞き流しながら、ネプスジードは大河の河口へとグリフォンを急がせるのだった。




  ☆ ★ ☆




 乗馬なら経験があるけれど、飛竜に乗るのははじめてだ。さらわれたときに乗せられはしたが、すぐに意識を失ってしまったから。背中越しに感じるぬくもりが、あのとき自分を強引に連れ去った竜騎士であるというのは、ひどく不思議な心境だった。

 リュナとナーダムは翠龍に連れられて、妖魔の森にある豊穣神殿を目指している。焼き討ちされた故郷に近く、豊穣神の本神殿は樹海の中に埋没しているという。ナーダムとアロカシスの拠点であり、魔王とグラディスの魂が保管されていた場所だ。

 豊穣神――翠龍は、塩害によって損なわれゆく大地や森を再生させるために、本神殿を稼働させるつもりだという。


『まったく忌々しいったら。よりによって潮水を降らせるって? アイツどこまでアタシを馬鹿にすれば気が済むんだろうね!』

「気持ちはわかるけど、今は愚痴っている暇もないだろ」


 お怒りの翠龍をなだめるナーダムは淡々としている。彼も内心では怒りと不満で複雑な心境だろう。豊穣神はエルフの神で、エルフは森とともに生きる民だ。ただの大雨洪水ならともかく、潮水の雨が降り続ければその被害は計り知れない。


「神殿を起動したら何とかなるんでしょ?」

『当然さ。アタシが溜め込んできた五百年ぶんの魔力を、あの馬鹿に見せつけてやるよ』

「ふ、頼もしいな」


 息巻く翠龍を見て笑うナーダム。リュナの中でグラディスも微笑んでいた。緊張していた心がほどけてゆく。

 セスもケスティスも今、災いの源である氷海に向かっている。二人とも頼りになる兄で、ここぞという時に間違いなく動ける人たちだ。原因の対処を彼らがしてくれるのであれば、自分たちは――といってもリュナにできることはあまりないのだが――できる対処を精一杯やるだけだ。

 今のナーダムが言うほど人間を嫌っていないことくらい、とっくに気づいている。


 その日、妖魔の森に翠玉の美しい神殿が姿を現した。威光を取り戻した豊穣神は森と大地に加護を与え、けがされた大地の浄化には森の民エルフたちが大きな役割を果たしたという。




  ☆ ★ ☆




 後の時代、『天崩の水禍すいか』と呼ばれたこの災害が、双月の砂漠に眠る創世の女神を呼び覚ましたという。女神は神々をまとめあげ、人間だけでなく各地の亜人種や魔物たちをも導いて、厄災の象徴を討ち果たしたと伝えられている。

 損なわれた大地は女神の祝福により再生し、女神の指示を受けた天空神は地上に天使を遣わして、人と神との仲介役とした。彼らの扱う奇跡は神々の存在より身近なものとし、強まった信仰心は神殿に蔓延はびこっていた不正を粛清しゅくせいする原動力ともなった。


 時代を経るにつれて伝承に創作が加えられ、史実は書物の中に埋もれてゆく。しかし、創世の女神が今も世界を見守りつづけており、災いの時代には世界を導くという伝承を、疑う者はいない。

 今も各地の神殿では、『天崩の水禍と創世の女神』にまつわる史実を知る天使たちが、自分たちの目撃した物語を誇らしげに語ってくれるからだ。

 



 

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