[6-5]冥王との対決


 滝のような雨が天から地へと駆けくだる。黒雲の群れと地上の中間地点を飛べば、暴力的な勢いが肌で感じられるようだった。

 一見すれば雨季の雷雨。しかし、落ちるしずくは真水ではなく海水だ。これがどれほど深刻な災害か、学生あがりのセスでも理解できる。塩害が内陸の土地を損なえば、土壌を回復させるのは難しい。程度によっては草木の育たぬ不毛な大地へ変わってしまうだろう。


 降り注ぐ雨水を弾く、あるいは地に染み込む前に真水へと変える。精霊魔法、魔導、奇跡……方法はあるが、個人ではとても追いつかない。よって、天空神と豊穣神が中心となり災害の対処に当たっている。天空人てんくうびと森の民エルフたちにも協力を要請するという。

 魔法を扱える者らを総動員して対処しきれるものなのか。セスに判断はできなかったが、対症療法でしかないのは明らかだ。しかも、この勢いで降雨が続けば川の氾濫はんらん、土地の浸水までもが引き起こされるだろう。

 一刻も早く、魔獣を止めねばならない。


『あいつ、天龍が土地の守護に回らざるを得ないようにしてんだぜ。狡猾こうかつだよなー』


 銀色の竜に姿を変えたクォームの上にセスとアルテーシア、そして仔狼こおおかみのシッポ。彼の背に乗せられるのは二度目だが、大きさが最初のときの三倍ほどあるのに驚く。

 苦手だった高所も、ラファエルや蒼飛竜マリユスと一緒に戦い抜いた経験ですっかり慣れた。飛竜を御する技術はないが、クォームは二人と一匹が転がり落ちないよう結界を張っている。このまま氷海まで飛んでいく、というわけではなく、いつものように空間を割って魔獣の側に転移するらしい。


「でも、意外でした」


 アルテーシアが膝に乗るシッポを撫でながら呟く。戦闘にも何にも役立ちそうにない仔狼が一緒なのは、離宮が混乱の極みにあったからだ。ラファエルとルフィリアが氷海に向かうことになり、シャルはレーチェルと一緒に災害の対処へと奔走ほんそうしている。離宮に置いたままではアルテーシアを探して何を仕出かすかわからない。

 クォームが良しと言ってくれたので、いっそ一緒に連れて行こうと決めたのだ。

 神妙な表情のアルテーシアが言いたいことはわかるので、聞き返す。


「意外って、天空神様の反応?」

「はい。もっと強引にことを進めるかと……思ってました」

「ずいぶんあっさりと、災害対処に回ってくれたよね」


 足元から、銅鑼どらのような声が聞こえる。クォームが竜の声帯で笑ったようだ。


『そりゃ、こっちには新世界の女神がいるからさ!』

「新世界の……フィオのこと?」


 肯定の頷きを返し、クォームは長い首を傾けて背上の二人を見た。青い瞳がわずか、細められる。


『さ、いくぜ。飛竜より早く、オレ様たちが一番乗りだ。セス、覚悟はいいな?』

「もちろん」


 銅鑼どらの笑い声が歌うような詠唱へと変わる。空間が揺らめき、裂けて――馴染みの感覚とともに銀竜が断裂をくぐり抜けた。途端、横殴りの暴風雨が勢いよく結界を叩く。中には影響しないが、視界不良な上に激しい雷鳴が響き渡り、仔狼が悲鳴をあげてアルテーシアにすがりついた。

 ゆるりと羽ばたきながら空中に停止する銀竜の上で、セスは慎重に立ちあがり結界の外へと目をらす。空を覆う濃いねずみ色の雲、閃きわたる雷光に浮かびあがる巨大なあれは、魚影――?

 黒雲と電光を引き連れて、とてつもなく大きな影が濃さを増す。曇天を押し曲げ、白く美しい威容がゆっくりと姿を現した。


白冥王ハーデス……!」


 セスがこれまでに召喚したどの魔獣よりも大きいだろう。全体としては流線型の長い身体に、平たい三角形の尾ひれがついている。体色は薄いねずみ色だが、暗い空を背景に黒雲をまとう姿は名称にふさわしく真っ白に見えた。巨体のわりに小さな胸びれをゆっくり動かし、全身の三分の一はあろうかという大きな口をうっすら開いている。

 動きは、全体的に緩慢かんまん。しかしあまりに巨大すぎて――覚悟を決めて来たはずのセスも途方に暮れるしかない。

 きろり、と、深く切れ込んだ口の上にある小さな目が、こちらを見た気がした。白冥王ハーデスが身体をよじり、大きく口を開ける。雷鳴に混じって響き渡る咆哮ほうこうは、重々しく物悲しい響きをまとっていた。


「まるで霧笛の音みたいです。セスさん、冥海神めいかいしん様の権能で白冥王ハーデスとお話しできませんか?」


 豪雨と雷鳴にかき消されぬよう、アルテーシアが声を張りあげる。彼女はこんな時でも冷静で、混乱しかけていた思考が少し冷静になった。

 しかし、すでに召喚された魔獣と意思疎通するやり方をセスは知らない。


「わからないけど、やってみる! クォーム、もう少し近づける?」

『近づいてもいいけど呑まれちまうかもな。それに、ほら、……お出ましだぜ?』


 銀竜が首を動かし示した先に、白冥王ハーデスの背に立つ魔導士の姿が見えた。吹きすさぶ暴風に黒い長髪を踊らせ、こちらを見ている。暗さと豪雨と遠さで見えるはずもないのに、彼の得意げな笑みがはっきりイメージできる。

 彼も自分を見ているだろうことを確信しながら、セスは叫んだ。


「ウィルダウ! 白冥王ハーデスは、俺が止めてみせる! そうして、俺が、俺たちが選ぶ未来をあなたに見せてやる!」

「ほう、面白い。ぜひ見せてもらおうか、……もし君が災いを止められたなら、な!」


 彼の声は嵐の中にあっても明瞭に聞こえた。遠景の魔導士が片手をあげる。白冥王ハーデスえ、雷鳴が空を引き裂いてゆく。大きく開いた魔獣の口から黒いもやのようなものが吐きだされ、鳥の群れのように散っていった。

 傍らのアルテーシアが身震いし、シッポを抱きしめてあえぐようにささやいた。


「あれは、何でしょうか。ひどく禍々まがまがしくけがれに満ちた……死霊、とも違うようですし」

『あー、あれな……魔瘴ましょうとでも名づけておくか。悪性の思念を凝縮させたもので、この災害を引き起こす燃料エサになってるんだ。――いいか、セス、よく聞け』

「うん」


 頭を白冥王ハーデスとウィルダウに向けたまま、クォームが声に力を込める。心中に直接届く彼の言葉は、ウィルダウにも聞こえているのだろうか。


創世竜ファイアは争いのない世界を願った。それは、つまり世界だ。でもさ、悪――概念がいねん名で言えばは世界の構成要素であり、どんな権能をもってしても排除することはできない。それは、人格、意思、感情に結びつく、心の形の一つだからだ』


 創世竜の願いは高潔で美しいものだった、とセスも思う。けれど、争いのない世界と個々の自由な心が相反あいはんするというクォームの言葉も理解できる。

 正しさと間違い、善と悪――その境目は曖昧あいまいで、誰かにとっての正義が誰かにとっての理不尽にもなり得るのだから。


「つまり、創世竜に否定されて行き場を失った魔瘴ましょうの吹き溜まりが冥界ってこと?」

『半分当たり。でも、満点じゃないな。……セス、ルシア、人が想いを寄せるのは機構システムじゃない、生き様だ。過去の英雄譚、遠い国の恋物語、伝承も、史実も、誰かが遺した命の軌跡を人は想い見て、おのれに重ね、未来を夢みる。アイツはそれを熟知していて、創世竜ファイアが目を背けたすら世界を生かすために利用したんだ』


 セスは黙ってアルテーシアを見る。クォームの言いたいことが、わかりそうで確信が持てない。アルテーシアも同じらしく、細い眉をきゅっと寄せて懸命に考えている様子だ。二人の戸惑いを、銅鑼どらの笑い声が吹き飛ばしてゆく。


『オレ様からのヒントはここまでだ! セス、どうする!?』

「うぅっ、……あと少しで届きそうなのに! クォーム、今の状況がどうなってるかわかる?」


 ラファエルとルフィリア、ケスティスとティークとイルマの竜騎士組は、エルデ・ラオ国から転移門ゲートを使って天空連山のふもとへ出、雪原を越えて氷海に来る予定だ。ナーダムがどう動くかは聞いていない。

 デュークとフィーサスはフィオが空間転移で連れてくると言っていたので、もう付近に来ているだろうか。魔王は気になることがあるようで、個別に動くと言っていた。

 クォームが青い目を瞬かせ、長い首を傾げる。


『飛竜組はそろそろ到着しそうだな。フィオたちは――あっ』


 不意に上げた声の意味をクォームに問い返す必要はなかった。白冥王ハーデスより上空で雲の群れが裂け、真紅の輝きが踊りでる。炎燃える毛皮をまとった巨大な狼が、飛びだした勢いのままに魔導士へと噛みかかり、食らいつく寸前で弾き飛ばされた。

 後を追うように現れたのは成竜サイズに姿を変えた火炎竜――フィオと、その上に立ち金髪を風に吹きあおられている剣士、デュークだ。


『くっそう、不意打ちならいけると思ったのに!』

「今のどこが不意打ちなんだ。セス、……援護に来た!」

「デューク! に、フィオと……フィーサス?」


 叩きつける豪雨にすらかき消されぬ炎をまとい、宙に浮いて白冥王ハーデス威嚇いかくを見せる真紅の狼。消去法で考えるなら答えは一択だ。

 燃えるアーモンド型の目がこちらを見、楽しげにきらめく。


『おうよ! ウィルダウっコノヤロウ、俺がてめぇとの対決で毛玉に甘んじているとでも思ったのかよ。その喉笛、噛みちぎっ――』

「駄目だフィーサス」

『何でだよっ』

「お前の役目はサポートだと言っているだろう。……セス、私たちは、何をすればいい」


 我を忘れるレベルで茫然ぼうぜんとしていたセスだが、デュークが呼んだなら間違いはない。あの炎狼はフィーサス、戦火神だ。白いフワモコの面影などない好戦的で苛烈な姿を見て、ようやく、戦を司る炎の神だと納得できた。

 なかなか危ないところだったろうに、ウィルダウは慌てる様子もなく白冥王ハーデスの上でこちらのやり取りを眺めている。


「デューク、俺はウィルダウも魔獣も滅ぼしたくない! 何とかならないか?」

「何っ……それは難しい注文オーダーだな。……ちょっと待ってろ」

『マジか。が魔獣の腹に溜まってる今が浄化する絶好のチャンスだってのに』


 真面目に考え込むデューク、勢いをがれて尻尾をぐるんと回す炎狼フィーサス。数秒も掛けず顔をあげたデュークが、愛用の大刀を引き抜いて口角を上げる。


「つまり、殴って吐きださせてから戦火神おまえが燃やせばいいのでは」

『無茶振りかよ! いや、アリかも? フィオもいるし行けるじゃねーか!』

『え、僕が? よくわからないけど、全力で燃やします!』


 ふたりのやり取りは息ぴったりだ。フィオはおそらく、わからないまま張り切っている。セスにも戦火神フィーサス守護騎士デュークの考えはわからない。口を挟もうかと迷う一瞬の間にウィルダウの声が割り込んだ。


「そんな相談を目の前でされて、私が見逃すとでも?」

『おまえの可愛い騎士ヤツが願ってんだから、聞いてやれよ! おまえだって一応は神だろうが』

「ふふ、可愛い子に試練を与えるのが、私の教育方式スタンスでね」

『可愛いから虐める系かよ、性格の悪いやつだぜ……』


 本人を目に前にして可愛いを繰り返さないでほしい。さっきまで悲愴ひそうだったアルテーシアがくすくすと笑いだしたではないか。首の後ろにむず痒さを覚えつつ、銀竜の背上に膝をついて、セスは朱神と玄神の会話を聞き流し、意識を無意識の深淵へと沈めてゆく。

 大丈夫だ、覚えているはずだ。

 とはここに来る前すでに接触したのだから。

 ぬるく泡立つような海水、ゆったりと流れをかき混ぜる巨大な存在いきもの。――深淵ふかみに沈み、死後の魂を迎え入れるという、冥界の王。


白冥王ハーデス……、冥海神の守護騎士パラディンたる権能を持つ俺に、あなたの声を聞かせてほしい)


 泡立つ潮水しおみずが渦を巻く。腹に響くような深く重い心象、アルテーシアの表現を借りれば霧笛のような声が、いな、と応じる。


 ――我はうつわなり。汝、我を討ち、ましろの祈りに救いを与えよ。


(……え、どういうこと)


 思いもかけぬ答えに、セスの思考が一瞬止まる。途端、耳をつんざく雷鳴とともに意識が現実へ引き戻された。思わず顔を上げれば、いつの間にか右腕に大烏を乗せた玄神の魔導士が、セスのほうを見ていた。


「驚いた。まさか――君の真意を、私は読み違えていたようだ。しかし、救いなど不要なのだよ、坊やセス。君が力を求めて我が権能を望むのなら、それでいい。だが、そうでないなら、――……」


 嵐の中でもはっきり聞こえてきた声が、唐突に不明瞭になる。幻想域から現実へ一気に連れ戻されたせいか、こめかみの辺りがじくじく痛んだが、セスは気力を総動員して立った。

 声にしない問いを銀竜から感じる。炎狼フィーサスが臨戦体勢になって吠えた。


『デューク、あいつ魔獣と融合するつもりだぜ!』

「なに! 待て、魔獣が神の魂を取り込んだら、俺たちでは止められなくなるぞ」


 飛び込もうとした炎狼が雨水に阻まれ空中で蹈鞴たたらを踏む。フィオが首を曲げてこちらを見た。紅玉ルビーの瞳に問いかけの色を見て、セスは覚悟を決める。


「クォーム! 白冥王ハーデスの口に俺を放り込んで!」

「セスおまえまた無茶を!?」

『待て待て、おまえまでわれる気かよ! 考え直せって!』


 戦火コンビが仲良く声を揃えて異議を唱えたが、セスの決意は揺るがなかった。クォームが楽しげに笑い声をあげ、翼を大きく羽ばたかせる。

 白冥王ハーデスの上では詠唱を終えたウィルダウの身体から黒い翼が広がり、弾けるように散って、大烏が豪雨の中に飛び立った。


『わはは、いいぜ! 行ってこいセス! おまえが取りこぼしたくない存在ものぜんぶ捕まえて、引っ張りだしてやれ!』

「ああ、そうしてやる」

「セスさん、わたしも行きます!」

「えっ」


 魔導士の身体が力を失い崩れ落ち、黒い羽根の塊に変わって、次の瞬間には霧散した。

 白冥王ハーデスえ、雷光が閃く。照らしだされた黒雲は渦を巻いていて、すべてを呑み尽くさんとそらに開いたうろのようだ。大きく口を開いてもだえるように身をよじる姿が助けを求めているように思えてならず、胸の奥がきりりときしむ。


 わからないけれど、教えてもらえないけれど。ましろき祈り、と聞いて思いだすのは、アルテーシアの歌った物語だ。

 あの伝承がまだ結末を迎えておらず、誰かが救いを求めているなら。ウィルダウの意図がそれと無縁であるとは、どうしても思えなくて。

 ふいにぬくもりを感じて振り向き見れば、怯えるシッポを左腕にしっかりと抱きしめ、アルテーシアの右手がセスの左腕をつかんでいた。彼女の瞳にも迷いはない。彼女の瞳に映ったセス自身は、自分でも驚くほどやる気に満ちた顔をしていた。


「ルシア、危険かもしれない」

「わかってます。でも、わたしは、見届けたいです」


 銀竜はぐんぐんと高度を増し、もはや渦巻く黒雲に吸い込まれそうだ。近づくほどに巨大な白冥王ハーデスの深く裂けた口は、ナーダムを呑ませた蒼斑魚ラハヴを連想させる。

 少女の指が震えているのに気づき、セスは彼女の手に指を絡めてつなぎ直した。


「一緒に行こう、ルシア。クォーム、それでもいい?」

「はいっ。いいですか、クォームさん」

『おーぅ、最終決戦なんだし思いきりやろうぜ! さて、オレ様からありがたい助言をくれてやる。魔獣は物理世界の生き物と違う、魔法的な存在だ。魔法で構成された空間では、距離、時間、物理法則、どれも大きな意味を持たない。だからこそ、を忘れるな』


 少年と少女は手を取り合ったまま、銀竜のありがたいお言葉に頷いた。

 素直すぎる反応が楽しかったのか。

 銀竜はもう一度あの銅鑼どらの笑い声を嵐の空に響かせて、二人と一匹を背に乗せたまま、白冥王ハーデスの口内へと飛び込んだ。

 

 

 

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