〈幕間九〉英雄の系譜
静まり返った執務室に鈍い
「まったく、人遣いが荒いにも程があるだろうよ。ハス、労働条件の見直しと待遇改善を求めるぜ」
「ははは、悪い悪い。だが、おまえ一人が動かざるを得ないのは、おまえの秘密主義が原因でもあるだろう?」
「仕方ねぇだろ。俺様以外の
「うん――。そのことなんだが」
大帝国の帝皇が自ら給仕とかどうよとディスクは常々思っているが、元は保護国の第三王子という王権と程遠い身分だったためか、自分で動く習慣が抜けないらしい。
「ありがとよ。……で、俺様が砂漠で蒸し焼きになってる間に進展があったのか?」
「蒸し焼きが嫌ならせめて服を替えろよ。おまえがクリスタル家に何もかも秘密で動くから、ついにケスティスが暴走してしまったじゃないか」
「は? あいつ、今度は何やらかしたんだよ」
グラスの中身は甘さ控えめのレモネード。熱砂の都市で干からびているとでも思ったのだろうか。どこまでも庶民的なこの主君だからこそ自由にやれているディスクだが、彼がこんなだから自分もつい身分や立場を忘れてしまうのだ。
甘い酸味に眉を寄せながら、ディスクは左目を細めてハスレイシスを見る。暴走、とは言うが、晴れやかな表情に
「今度は、って。彼が暴走したのは十年前の処刑場乱入くらいだろう。今回も似たようなものではあるが、おまえの報告が正しければ大きな問題には発展しないさ」
「へぇ、そうかよ。……いや、ちゃんと説明しろ。状況がつかめねぇ」
兄馬鹿の
ディスクとしては、クリスタル家が魔王軍復活に関わっていると読んでいたので、二人の安否を知らせるつもりになれなかった。
ついに痺れを切らしたか。とはいえ、人外の移動手段で動いている二人の居場所をケスティスの持つ情報網で割り出すことはできないだろう。と、たかを括っていたのだが。
グラスに残っていたレモネードを飲みきり、視線を向ければ、ハスレイスは苦笑を浮かべて言った。
「今朝早く、
「ブフォっ」
グラスが空でよかった。口に含んでいたら、噴き出していたことだろう。
裏事情をある程度は知っているディスクでも、納得してしまいそうな説明だった。つまり幻の
「状況証拠だけ見れば、そうだよな」
「事実は違うのだろう? 誤解がとければ外交の足掛かりになるだろうし、私は心配していないさ。それよりディスク、誰かが『死霊の門』を開こうとしている話は聞いたか」
「ああ、それは、サグエラで聞いた」
ラファエル王子が兄という存在に対して傷を持っているのは心配だが、ディスクは明日にでも
死霊の門、とは文字通り冥界の入り口だというのが、ディスクとデュークの下した結論だ。六年前にそれを開こうとしたのは、死者の魂と冥界に渦巻く怨念などを取り込んで力を持ち、自ら神を
似たような存在であるデュークが不死者の魔導を押さえ込んでくれたからこそ勝機を見いだせたが、もしも封印に失敗していたなら、氷海のみならず大陸の大半が生者の住めない呪われた地になっていただろう。
当時の苦労を思いだしていると、ハスレイシスが小さくため息をついた。
「ディスク。エルデ・ラオ国の末王子は本当に信用できる人物なんだな? 彼や魔王軍がリュナとセステュを『死霊の門』に捧げたりはしないと、間違いなく言えるんだな?」
「ああ、それは間違いない。俺様の
彼が地道に推し進めてきた改革に反発する者が少なかったのは、前帝皇時代から続く軍事主義に寄った体制が、彼の気質と相性良かったからだろう。
ハスティー国の王族であった彼が、子に恵まれなかった前帝皇に能力を買われ、養子として迎え入れられて十年以上経った。六年前に崩御した前帝皇に代わり帝位を継承し、たゆまぬ努力を続けた甲斐あって、前時代の重臣たちとも信頼関係を築けている。
ディスク・ギリディシアにとってハスレイシスは、主君である以前に親友だった。
結婚する前は流浪の天才魔導士を自称しながら各地を遊び歩いていたディスクが、輝帝国に召されたハスレイシスの腹心に収まったのは、裏にある複雑な事情を嗅ぎつけたから。
有り体に言えば、陰謀渦巻く輝帝国暗部に連れ去られた友が心配だったのだ。
そもそも、子がいないので他国から養子を迎える、というのが理解しがたい。それは現帝皇の血筋を絶やすということなのだから。
人質としての養子、なら感情はともかく理解はできたかもしれない。正統の帝位継承者がすでに定まっていたという状況であれば。
輝帝国の皇家は建国王の血筋を受け継ぐ直系の系譜だ。
ディスクには、帝皇が建国王の血筋を絶やそうとしているとしか思えなかったのだ。
自他ともに認める天才魔導士だったディスクが、宮廷魔導士として認められるのは簡単だった。ハスレイシスが帝皇になってからは人事が再編され、
同じ頃、帝国に本部がある魔導士協会の主宰も、リートル・クリスタル――レーダルの妻の父親――から後任へと引き継がれた。親友がどうやらクリスタル家を警戒しているらしいと、ディスクもその頃までには気づいていた。
慎重に人払いをし二人きりになって、ハスレイシスが打ち明けてくれた事実がある。
クリスタル家の父方家系は建国王の傍系であり、奥方つまりリートル導師の家系は魔導士協会創立者の直系なのだという。輝帝国のみならず大陸に大きな影響力を持つ二つの血筋を、クリスタル家は継承している。
この巡り合わせは偶然ではないと、前帝皇はハスレイシスに語ったという。先祖か何かの意志に基づき、リートル導師は二つの系譜が混じり合うよう画策したのだ。彼らに権力を奪われてはならず、しかし敵に回してもいけないと、繰り返し言い含められたという。
そして、もう一つ。
本当は、娘がいたかもしれない――と。
(前帝皇の娘……か。まさかな)
遊び人だった若い頃といっても、ディスクの場合はせいぜい十五年ほど前のことだ。輝帝国にも訪れたことはあったが、帝皇の周りの女性関係など知るはずがない。
五百年の長きを傭兵として生きてきたデュークなら、何か知っているのかもしれないが。
(リュナが輝帝国によって回収された、か)
彼が以前に言っていたことを、思いだす。ディスクも、デュークの過去についてはほとんど知らない。機会あれば口を割らせようとあの手この手で仕掛けているが、それでも知れたことなどほんのひと握りだ。
それでも、彼が無責任な憶測を口に出すような人物でないのは十分にわかっていた。
リートル導師とその家系ケルトス家が、建国王と魔導始祖の系譜を注意深く
帝皇がそれを知って、そこに何らかの意図を見いだし、自分の血筋を嫌悪するようになったのだとしたら。
(もしかして、リュナは)
彼女こそが前帝皇を通し『英雄の器』として造られた、帝皇の娘ではないだろうか。
死人の想いなど知るすべはない。もしもそうだとして、野心にまみれ、他人を信じようとしなかった前帝皇が、実の娘に父親らしい愛情を抱いたかはわからない。
ディスクが知る事実は、幼少時にリュナの住んでいた村が何者かに焼き払われ、ただ一人生き延びてクリスタル家の養子として迎えられたことだ。父レーダルも兄ケスティスも、実子とリュナを差別するようなことはなかった。
どこまでがシロで、どこまでがクロなのか。諜報を得意とするディスクにもいまだ読み解けない深みがあの家には存在する。
考えれば考えるほど、その深淵に囚われてしまいそうで。
ひとつ頭を振って、ディスクは答えの見えない思考の闇を払い除けた。
ハスレイシスと別れ、ディスクは宮廷の離れにある自宅へ向かう。
五つ歳下の愛する妻と、六歳になったばかりの愛娘、どちらとも実に二ヶ月ぶりの再会だ。会えば離れるのも辛くなるが、職業柄、明日の我が身もおぼつかないのだから、一緒の時間を大切にしようと。妻と二人で決めたことだった。
以前は妻に心配をかけまいと、こっそり出掛けることも多かった。しかし、大抵見抜かれて待ち伏せされ、無駄だと悟らせられた。
彼女は仕事の内容も期間もディスクから話さない限り聞きだそうとはしない。妻にベタ惚れな自覚のあるディスクだが、新婚当時は彼女の我慢強さにずいぶんと甘えて、寂しく辛い思いをさせてしまったと後悔することも多かった。
ハスレイシスにとって唯一の腹を割って話せる相手なだけに、ディスクがすべきことはいつでも山積みだ。
だからこそ、短い時間でも家族と一緒に過ごせるひと時を大切にしようと、決めている。
離れの敷地に足を踏み入れると、植木の陰からむくりと何かが起きあがった。
真っ暗な影の
いくらも間をおかず、家の扉がバァンと開く。
「パパ! おかえりなさい!」
「カルミア! ただいま」
まっくろちゃんから送られた映像情報でも見たのだろう、勢いよく駆け寄って来た愛娘をディスクは受け止め、抱きあげ、高く掲げてくるくる回る。
きゃっきゃと喜んで歓声をあげる幼い娘は、ディスクにとって天使そのものだ。
「おかえりなさい、あなた。今日は夜までゆっくり過ごせるのかしら?」
カルミアが天使なら、こちらは女神。鮮やかなブロンドの髪を上品に結い、黒基調のカジュアルドレスに身を包んだ妻ロザリナが、ディスクを見あげて柔らかく微笑む。
ディスクは娘を降ろすと、ロザリナとカルミアにまとめて腕を回しそっと抱きしめた。
「ただいま、ロザリナ。そうだな、今夜は久しぶりに三人で過ごして、一緒に眠ろうぜ」
「わかったわ。それじゃ、夕飯はあなたの好きなものを揃えてあげる」
「ママ! るみーのすきなものもいれてね?」
「ええ、もちろんよ」
楽しみだなと笑顔で答え、ディスクはカルミアを抱えあげた。
今はほとんど居つくことができない自宅でも、ここには愛する妻がいて、可愛い娘がいて、王城では国を守るため奮闘している親友がいる。
ディスク・ギリディシアが我が身のすべてをついやすことに、それ以上の理由が必要だろうか。
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