〈幕間八〉これより先は、大地とともに


 彼女が産まれた日、天空が祝福のいろに騒ぎたったのを、昨日のことのように覚えている。

 天空神殿の神職者は家系や学歴ではなく、すべて神意により叙任じょにんされる。天龍てんりゅう眷属けんぞくであり神使しんしでもある風翼竜エルヴァードが、その伝達を担うとされていた。


 天空人てんくうびとには寿命がない。今の祭司長は天空が地上とわかたれた時代を見たというし、年長者たちも同じようなものだ。クラウディス自身も百歳を超えているが、肉体は二十歳の頃とほとんど変化がない。

 それが理由なのか、どうなのか。天空人たちの出生率は非常に低かった。全体として万を超えない人口は、近年までほとんど増えなかったと記録されている。

 クラウディスにも兄弟はおらず、従兄弟とは五十歳ほど年が離れていた。婚約者であるレーチェルとの歳差は、地上人の感覚なら親子どころではない。


 そういう天空の常識が揺らぎはじめたのは、思えば二十年ほど前からだろうか。

 これまで年に一人か二人の誕生があれば良いほどだったのに、二桁に届くくらいには出生届が増えてきた。ついには、長きに渡り子宝に恵まれなかった祭司長夫婦が娘を授かったのだ。天空の地は思わぬ祝い事に沸き、珍しく羽目を外して騒ぎたった。

 クラウディスが祭司長補佐として叙任され、彼女との婚約話を持ちかけられたのは、今から五年前、少女が十二歳の誕生日を迎えた日のことだった。思えば祭司長はその頃から、自身の身をむしばむ呪いに気づいたのかもしれない。

 予想もしていなかった話だが、光栄だと思った。

 引き合わされた少女は十二歳とは思えぬほど礼儀正しく聡明そうめいで、巫女の役割についても良くわきまえていた。彼女を一番近い立場で守りたい。そのためにこの身を捧げようとクラウディスは誓ったのだった。


 祭司長が倒れたのは、レーチェルが十七歳の誕生日を迎える直前。彼は娘の誕生日をゆっくり祝えるよう、不調を隠して精力的に神事を行い、蔓延まんえんしつつあった呪いに苦しむ民たちのため手を尽くしつづけ、奇跡を請う祈りの最中に意識を失ったのだという。

 婚約が成立した時から、祭司長は神事の決まり事や手順をクラウディスに教え込んでくれたので、代行として役目を引き継ぐことは滞りなくできた。まさか今に至るまで祭司長の意識が戻らないなど、その時は考えもしなかったが。

 天空神殿の一角を症状が重い者たちのために解放し、伏せっている者たちの身体的な世話を行い、民のため加護を祈る。空き時間に神殿日誌と預言書を調べ行きついたのが、五百年前に起きた魔王戦役の真実だった。


 クラウディスは地上を知らない。人間となった天龍が帝国をおこしたのは、三百年も昔の話だ。魔王討伐のため、人間たちは――帝国は動いてくれるのだろうか。天空都市の未来を、地上の人間たちに託して良いのだろうか。

 寝る間も惜しんで調査を行い、神事をこなし、訪れる民たちを慰めては天龍の教えを説き、……気づけば、婚約者レーチェルの誕生日はとうに通り過ぎていた。しかし、彼女はないがしろにされたことをいきどおるでもなく、神殿で忙殺されていた自分を訪ねてきて、言ったのだ。


 ――ラウ様、わたくし、地上へいってまいります。呪いの原因を突き止め天空の地を救うために、今、わたくしが何をすべきか教えてくださいませ。


 あのとき、自分が知っていた事実を包み隠さず伝えていれば、結末は変わっただろうか。




 天窓が砕け天龍像が失せた神殿聖所に膝をつき、クラウディスは片方の手のひらで顔を覆った。父親が倒れ目覚めなくなったときも、誕生日を忘れられたときも、涙ひとつ見せなかったレーチェルが、我を忘れて泣き叫んだのだ。

 悔しいのは、婚約者である彼女が地上人の少年に心奪われたことではない。彼女を信じて送りだした他でもない自分が、彼女のもたらした『真実』を信じきれず、踏みにじってしまったことだ。


 挙句、泣かせ、追い詰め、傷つけた。

 結果的に天龍は目覚め、二人の言葉は証明されて――。


 腰を抜かしたようにへたり込み、茫然ぼうぜんと天龍像があった場所を見つめている神官たちも、気の毒だ。

 天龍が目覚めた今、シャルに手を掛けたことは神意に背く行いと言えるだろう。しかし彼らは悪くない、指示を与えたのは自分なのだから。


「クラウディス、……そう自分を責めるな」


 ふいに呼びかけられ、反射的に顔をあげる。神官たちが声にならない悲鳴をあげ、ジタバタとその場で平伏した。

 いつの間に戻ったのだろう、鳥の白翼を持つ人間の男性らしき姿――目覚めたばかりの天空神が、聖所の中央に立っていた。慌てて平伏しようとするクラウディスを、彼は手を挙げてとどめる。


「天龍様、レーチェルとシャル……地上人の少年は」

「レーチェルは魔力切れだ。シャルは、風翼竜エルヴァードを呼び集めて拾ってやったぜ。今は二人とも寝室で休んでいるから、そっとしておいてやろうか」

「心得ております。こうなった以上、天龍様の御心みこころたがえていたのは私のとがですから」


 二人きりでレーチェルの私室に、という状況に心は騒ぐ。一方で、シャル不埒ふらちな目的でレーチェルに近づいたのではないことも、十分すぎるほど思い知っていた。

 最高神職である祭司長や代行者である自分も知らなかった真実を、なぜ地上人である彼が知っていたのか。答えは一つしかない。

 月虹げっこう神が結末を見通し二人に使命を与えたのは、まぎれもなく事実だということだ。神の意志を妨害しようとした自分に何を語る権利があるだろうか。

 うつむくクラウディスの視界に、明るい光が差す。

 人型の天龍が床に膝をつき、クラウディスと視線を合わせていた。


「それは違うぞ、我が子よ。俺は、本当にのだし、地上で命を終えた時は、再び実体を持てる日が来るなんて思いもしなかった。俺がこう言っては身も蓋もないが、今でさえなぜこんなことになったのか、意味がわからないんだぜ」

「それは、いったいどういう」


 蒼穹そうきゅう双眸そうぼうが、いつくしむようになごむ。天龍は力強い手で、ひざまずくクラウディスの肩を叩き、子供にするかのように頭上へ手を置いた。


「だが、……今わかった。俺を呼び戻したのはおまえたち、我が子らの祈りだ。この神殿で三百年もの間、欠かさず香をき、ことばを捧げ、俺を呼び続けた我が子おまえたちの願いが――俺のこころ天空ここに繋ぎとめ、神としての力を取り戻させたんだ」


 神である天龍の言葉は難しくて、クラウディスにもすぐには理解できない。

 でも、本当はいつだって願っていた。神殿へ詰めかけた民が家族を心配し、未来をうれうたびに。救いを求められ、導きをわれるたびに。早朝、あるいは深夜に供物くもつを携え、熱心に長時間祈り続ける者を見かけるたびに。自分に何がなせるだろう、と。

 誰ひとり、天龍が亡くなったという事実を知らない。目覚めを願う祈りを聞けば心が痛んだ。祭司長もきっと、この真実を知ったときには苦しんだだろう。彼が妻にも娘にも明かさず、日誌の片隅にそっと記しただけの苦悩を目にして、クラウディスもレーチェルには絶対この事実を明かすまいと決意した。

 でも、心の奥底では、ずっと――ずっと。


「貴方の帰還をお待ちしておりました、天龍様……っ」


 声を押しだした途端、涙がボロボロとあふれだす。飲み込もうと歯を食いしばっても、嗚咽おえつを止められない。

 民をだまし、帝国を利用し、魔王を殺して、虚構きょこうの上に建つ理想都市を維持すること。身命をして成しげる覚悟を固めたつもりだったけれど。果たすべきそれらの使命は、理想郷しか知らない自分には重すぎて。


「つらい思いをさせたな。悪かった、クラウディス」

「……お会い、したかった……! 助けてくださいっ、天龍様! もうこれ以上、私は……どうしていいか、分からなくてっ」

「大丈夫だ。おまえは、よく頑張ってくれた。あとは、俺に任せろ。おまえたちから受け取った祈りと願いを力に、間違いなくおまえたちを守ると、誓おう」


 肩を、背中を、優しい力で抱きしめられた。体温も体臭も感じないのに、生身に似て温かくやわらかな指が、子供をあやすみたいにゆっくり頭を撫で回す。

 幼少時に父がしてくれた仕草と重なり、照れ臭さが胸に広がった。

 天龍にとっても想定外であったこの事態、祭司長代行である自分には聞いておくべきことが沢山あるはずなのに、思考が麻痺まひしたのか上手く考えられないでいる。


「……貴方の、御心みこころのままに」

「よしよし。実は、おまえにはしてもらいたいことがあってな。俺は今から地上に降りて、冥海めいかい神の企みを阻止せねばならない。それに伴い、天空島も地上へと降りることになる。それで、混乱が起きぬようおまえに指揮を取ってもらいたいんだ」


 え、と思わず声を漏らし、顔を上げれば、天龍は気まずそうに眉を下げて、笑っていた。


「天空の地が、墜落ついらくするのですか?」

「まさか! 地上と隔絶かくぜつしたゆえ枯渇こかつした魔力を、地上と接続し直すことで再び得られるようにするのさ。そのための魔法構築は俺が完璧にやってみせるから、おまえには今まで通り、民への告知と実動的な指揮をしてもらいたい」

「は、はい。それは……もちろんですが」


 思わぬ展開に、頭も心もついてゆけない。天龍もそれをわかってくれているらしく、申し訳なさそうに微笑んだあとで、もう一度クラウディスを抱きしめてくれた。温かさが全身に広がり、心がじんわりとほぐれてゆく。

 怒涛どとうのごとき事態の変遷へんせんに、今はもう何も考えたくない。クラウディスはまぶたを落とし、しばしその感覚に身をゆだねた。




  ☆ ★ ☆




 その威容いようは地上からなら巨大な嵐雲に見えるだろう。都市を乗せた島といっても、強力な守護結界と目眩しの魔法により、天空の地を一つの都市と認識できる者はそう多くない。




「ようやく、役者が勢揃いしたな」


 世界の最果てで、黒をまとった神が満足そうに微笑む。

 肩に留まった子烏が居心地悪そうに身震いするのを、長い指先で優しく撫でながら。




「あれが、天空人の……? いったい、何が起きようとしているんだ」


 黄金色の飛竜に乗った聖騎士は、不安な想いを噛み殺して空を駆ける。

 世界が何かの意志によって戦いへ巻き込まれつつあるのなら、まだ若い弟と妹を見捨てるわけにはいかない。




玄龍クロの、馬鹿」


 白き狭間に落ちる声は、綿毛のような魔力に沈みこみ消えてゆく。

 未来視の女神がひとりきりの世界で、繰り返し、繰り返し夢みた終焉しゅうえんは、もうすぐそこまで迫っている。


 


 

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