[4-2]つくられた理想郷
猟師という職業は、各地を渡り歩く性質のものではない。宿屋を営むシャルの実家は両親ともに健在で現役だし、宿の食事に供する肉や魚、森で採れる産物を集めるのはシャルと猟犬たちの仕事だった。
姉が他国に嫁いだときは会いに行きたいと思ったが、計画を立てることもなく。こんなことにならなければ、生まれ育った町から出ることはなかっただろう。
家族と近所の顔馴染み、猟師仲間と、訪れては去ってゆく旅人たち。シャルが十六年以上も慣れ親しんだ世界は狭く、国のお偉方の思惑だとか、神様たちの事情とか、世界の命運だとか――、考える必要もなかった。
樹々の梢よりはるか高み、雲より高い場所に人が暮らす天空都市があるなんて、想像すらしたことがない。
「
「キュイ? キュッキュ」
「エルドラ、こっから先は静かに、だぞ?」
「キューイッ」
手荒な扱いは受けていないし、出された食事は野菜中心だったが美味しかった。荷物も取りあげられなかったし、扉や窓に鍵も掛かっていない。彼らはシャルを危険視しているのではないのだ。それにしても警戒心なさすぎだろ、とは思うが。
宿屋の経営はそこそこトラブルの多い業種で、猟師稼業に至っては森でのサバイバルと獣たちとの駆け引きだ。親切な人間でありたいとは思うが、旅立ってからも警戒心を忘れたことは一度もない。
少し前の自分なら、この防犯意識の低さが理解できなかっただろう。
ナイフ、変身薬、地図、薬類と貴重品をウエスポーチに仕舞い、窓を開け放つ。押し込められた部屋は三階くらいで、脱出は無理だが常識的な高さだ。
シーツを裂いて撚って作ったロープ代わりの紐に
部屋を薄暗くしたまま、音を立てないよう慎重に扉を開けた。
よし、行くぜ。声には乗せず心で気合を入れて、シャルは薄暗い廊下へ一歩を踏みだした。
世の中には、打算も駆け引きも必要なく信用できる人間がいる。そう実感したのは、セスに会ってからだ。
民間人が経営する宿屋に金持ちが泊まることはまずないし、シャルが読み書きを習ったのは学校ではなく姉から。王族や貴族が猟師に仕事を依頼することもないので、セスはシャルにとって、はじめて目にした『育ちのいい坊ちゃん』だった。
あの日は森の様子がおかしかったから、シャルのほうでも若干の疑う気持ちがなかったわけではない。もちろん、嘘を言っていないのはすぐわかったし、信用できるとすぐに判断できたけれど。
決定的だったのは、彼が『妖魔の森』で財布を落としたとき。猟師に限らず、貴重品は狙われるものだ。街ではお使いの子供だってすられたり引ったくられないよう工夫するし、うっかり落とすなんてあり得ない。
びっくりしてから、育ちの違いを思い知った。落ち込むセスには申し訳ないけれど、面白いと思ってしまった。守られて育つって、そういうことなんだろう。
レーチェルにはじめて会ったとき、どこの箱入り令嬢かと思ったものだけれど。ここに来て、改めて思い知る。
彼女はセス以上に世間知らずの箱入りで、ある意味本当のお姫様だったのだ。レーチェルだけではない、天空神が引きこもってから五百年、
シャルが閉じ込められたのは
彼らの認識だと、騒乱の種は外界からやってくるというわけだ。
天空人たちが使う魔法は守護系や自然への干渉が多く、攻撃手段に乏しいらしい。そのため、レーチェルもそうだったが、武器を扱う訓練は性別年齢を問わず施される。つまり接近戦になれば、近接武器の扱いに不慣れなシャルでは勝ち目がないということだ。
見つかってしまうのは時間の問題だとしても、必要以上に大きな騒ぎを起こさずレーチェルの元に辿り着くことが、作戦の成功には必須だった。
人気のない廊下を駆け抜け、明かりが漏れる部屋のそばは息を潜めて用心深く通り過ぎる。暗い場所での視力は人間も天空人もほとんど違わないので、一般人より夜目が利く自分のほうが若干有利かもしれない、と思う。
今の時間、起きているのは数人の見張り当番だけで、彼らも廊下を巡回などするわけでなく部屋でお喋りに興じているようだった。思った以上にガバガバな警備体制に安堵する反面、言葉にするのが難しい不安感が湧きあがり、膨らんでゆく。
レーチェルが盗賊を「野蛮人」と
天空神により地上から
そもそも、なぜ天空神は眠りについたのだろう。眠り続けることに理由があるとしたら、
島は問題なく浮力を保てるのだろうか。加護により維持されている生命環境が壊れたりはしないだろうか。もしも、目覚めることで加護が失われ――……、
「誰だ!」
鋭い
巡回していた
ありがとな、と息だけで話しかければ、ちび竜は得意げに尻尾を一振りしてから、クルミをカリコリ噛み砕いてしっかり平らげた。
その後は、特に危険な状況はなかった。先に落としておいた荷物も回収できたし、眠そうな見張りは隙だらけだった。
薄暗い中、見慣れない都市の地図を確かめながら進むのは難儀ではあったが、それも初めのうちだけ。中央街まで出ると、レーチェルがいるという天空神殿はすぐにわかった。
街は寝静まってしんとしており、地上なら絶え間なく感じるだろう風の流れもない。
寒くも暑くもなく、雨もなければ風もない。それは確かに穏やかで安らかな暮らしといえるのだろうけど――。
あれこれ勘繰りたくなる、自分自身の好奇心を抑えつける。今は、余計なことを考えている状況ではない。
「エルドラのおかげでここまで順調だったぜ、ありがとな! 問題は、ここからか」
「キュッキュー」
子供向け冒険譚のように、塔のてっぺんに閉じ込められたお姫様を助けだすというなら、まだわかりやすいのだが。
神殿の外門とエントランスは夜でも開放されていると、レーチェルの手紙にはあった。信者ではないシャルでも、神聖視される場所で騒ぎを起こすのは気が引ける。いやむしろ、騒ぎを起こせば目を覚ますのでは。エントランスでは遠いだろうか。
などと不毛な案を思い巡らせているうちに、白亜の天空神殿はもう目の前だ。
深夜だというのに参拝の信者がぽつりぽつりと行き交うのを見て、シャルはレーチェルが話していた『呪い』の話を思いだす。
天空神がその件をどう考えているのかも気になってはいた。
「エルドラ、神殿に入ったらレーチェルのいるところまで案内、頼むぜ」
「キュイ!」
「レーチェルと合流したら、その足でまっすぐ奥の聖所……だっけ、天空神が眠ってる場所までいく。いくら神様だって、耳元で叫べば目を覚ますよな?」
「キュッ、キゥ……」
最後の返事は何かノリが悪かった。シャルの中にあるイメージは
閉じ込められていた部屋に用意されていた着替えはここの標準服だったが、天空人たちはほとんどが銀髪碧眼なため、服装が一緒でも
「エルドラ、頼む」
「キュッ!」
賢いちび竜はシャルの言葉に青い瞳を鋭くし、入口に立つ神官のほうへふわりと飛んでいった。金羽が混じる白い身体が神殿からあふれる魔法光を照り返し、きらりときらめく。
「わぁ、本物の
「キューッ、キュン!」
目の前でくるりくるり戯れるように舞うエルドラに神官が気を取られている隙をつき、シャルはまんまと神殿域へ入り込んだ。
ひとしきり遊んだらちび竜も追いかけてくるとは思うが、青年の舞いあがり振りを見るに、
神様や信仰には今までまったく興味なかったシャルでも、天空都市で目にする一切には好奇心を刺激されていた。
無事に合流できたら、レーチェルにもっと詳しく教えてもらおう。
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