[4-3]巫女姫が抱えるもの
シャルから手紙が届くまで、レーチェルはひどく後悔していた。
天空の地に王はいない。大神官――
信仰心が深く教義に厳格だった父は、自分個人の意見を滅多に口にしなかった。レーチェルは父を神職者の
しかし、こうなってしまった今、湧きあがるのはひとつの疑念。
あのとき月虹神は間違いなく、レーチェルとシャルに「天空神を叩き起こして」と言った。感動と興奮で深く考えずここまで来てしまったけれど、天空神殿で婚約者に神託を否定され、シャルと引き離され、自室での
天空神――天龍が眠っているのは、月虹神もそう言っていたのだから間違いはない。ならば、父や婚約者が聴いていた『天龍様の
愛する父を、尊敬する婚約者を、疑いたくなかった。
しかし話し合おうにも、父の症状は重く長時間話せる状態ではないというし、婚約者とは到着した日以来会えていない。
天龍の巫女として婚約者に従うべきか、月虹神に与えられた使命を果たすため動くべきか。悩んでいた時に届いたのが、
尊き神獣にお遣いを頼むなんてと青ざめたレーチェルだったが、当の神獣もやり取りを楽しんでいるし、他に手立てもない。シャルが脱出を企んでいると知ってまたも青ざめはしたが、手紙に書いてあった一言が後押しとなり、ついにレーチェルも覚悟を決めた。
『みんなを悩ませてる呪いの治療法とか、魔王とのこととか、天龍サマほんにんに聞くのが一番だと思うんだ。俺も一緒にいって、白いカミサマに起こすよう言われたって証言してやるから。』
「――わたくしも、同意ですわ」
誰を信じれば良いのかわからなくなったら、自分が見て、聞いて、感じたことに基づいて、答えを選ぶしかない。
優しく誠実である者が真実を述べるとは限らないのだ。天龍によって守られてきた天空人たちは、五百年ずっと幸せだったかもしれない。地上に置き捨てられた真実を知らないままだったら、レーチェルも
でも、もう、無理なのだ。
地上に友を得て、伝承の偽りを知り、天龍が奪ったものを知った。
芽生えてしまった
その上で、受け入れられないと感じて悩み、泣くことになるとしても。今の自分なら翼を捨て、地上に降りる選択肢だってある。
シャルも、地上の友たちも、レーチェルが決めたことなら受け入れてくれると思うから。
「わたくしは、わたくしの使命を果たします。シャル、どうかご無事でたどり着いてくださいませ。わたくし、本当はあなたに……」
生まれ育った愛する故郷、天空の地。本当は彼に、ここにある美しいものや優しいものを見せてあげたかった。
すべきことが迫っていても、一日くらいは普通の女子のように――心許す友と街を歩き、美味しいものを食べて、ゆっくり語り合う時間を取れると思っていたのに。
どんな形で決着づくとしても、これはもう叶わないだろう。それだけが、心残りで。なぜか無性にせつなく苦しくて、喉の奥がぎゅうと押されるようだった。
胸を焦がすこの思慕を、人が何という名で呼んでいるか――など。
初恋も知らぬうちに伴侶を定められた少女が、わかるはずもない。
☆ ★ ☆
夜の神殿は静かだった。もっとも、シャルにとって縁遠い場所で昼間に訪れる機会もなかったので、普段の賑わい具合は知らないが。
猟師という職業柄だけでなく、シャルは生まれつき耳と目がいい。祖父も若い頃は腕利きの猟師だったというので、遺伝だろう。
猟犬たちには負けるが、こういう人工的な空間では、森や山で聴くよりずっと容易に人の声や足音を拾うことができる。まして、ここまで静かなら、不意に出くわす事態は避けられそうだ。
見つかる心配はしていない。ただ、気になることがひとつ。中層くらいに差し掛かってから、建物内のそこかしこに気配を感じるようになった。話し声とか、
中層域の部屋は扉ではなく、
広く殺風景な部屋にベッドが並べられ、白い服を着た男女が横たえられていた。床の敷物に寝ている人もいる。
ベッドにいる人々はいずれも初老に見える。苦しそうな様子はないが、衰弱しているのは素人目にも明らかで。床に眠る数人はそれよりずっと若く見えた。肩の上でエルドラが「クゥゥ」と息のような声を漏らしたので、シャルは慌ててその場を離れ、柱の陰に身を隠す。
目にした光景に説明は不要だった。
腕利きの猟師だった祖父が腰を痛め、引退した日のことを思いだす。よる年波には勝てん、と笑って言っていたけれど、やるせない気分だっただろうと成長した今ならわかる。誰もが避けられない現象だとしても、つらいものはつらいのだ。
レーチェルは、彼らを救いたくて地上に降りたのだという。
胸の奥に、炎がともる。
命の期限を延ばすのが正しいことなのか、シャルにはわからない。けれど、真相を知ったレーチェルがあのとき涙したのは、あきらめるべきと悟ったからだろう。自分が彼女の立場なら、悲しすぎてつらすぎてショック死するかもしれない。
レーチェルが天空神を起こそうとしているのは、地上に生きる自分たちのためだ。
世界の滅びを回避するために必要だと、クォームが、神様たちが言ったから、彼女は故郷のやり方に背を向けてでも、使命を果たそうとしているのだ。
それを思い、身体の芯が揺さぶられる。心が熱くなる。
「……カミサマならさ」
「キュ?」
「誰も悲しませないやり方、きっと知ってるよな」
「ゥキュ……クゥ」
別に迷いがあったわけじゃない。
決意を新たにしたと言っても、すべきことは変わらない。それでも、レーチェルの悩みを目の当たりにできたのは良かった、と思った。
前方にある
肩のエルドラを一旦飛びたたせて、
ポーチに入れておいた変身薬を出し、栓を抜いて一息に
予想以上の早さで効果が
選んだのは、飛竜と鳥の間みたいな姿、白いふわふわの羽毛に覆われた不思議な生き物、
エルドラが嬉しそうに「キュイ!」と鳴いたが、残念ながら翻訳機能まではついていないらしい。意識的に声を潜めて「いくぜ」と囁いてみれば、どういう原理かちゃんと自分の声がした。これなら、レーチェルとの意思疎通は問題なさそうだ。
別の生き物に変身するなんて奇妙な感覚だったが、どうせレーチェルに会うまでの短い時間。遊び仲間ができたと思ったのか、はしゃぐエルドラをなだめて案内を頼む。
元の姿に戻ってしまえば
☆ ★ ☆
着替えを済ませ、いつも羽織っている魔法製のショールを身につけて、レーチェルはシャルが到着するのを待っていた。
夜半だが月は明るく、窓の外には見慣れた景色が広がっている。
ぼんやり外を眺めていたら廊下が少し騒がしくなったので、レーチェルは扉をそっと開けてみた。その瞬間、白い生き物がふたつ勢いよく飛び込んできて、思わず小さな悲鳴を上げる。外でドタバタと音がした。
「姫様! あのっ、
「わたくしも起きておりましたし、
「それならば安心いたしました! 何かお困りのことがありましたら、遠慮なくお申し付けください!」
「ええ、ありがとう。お勤め頑張ってくださいませ」
慌てた様子の見張り神官にそう応じて下がらせると、レーチェルは大きく息をついた。
肩に乗って髪をつついてくる一体を撫でながら、床にうずくまって自分を見ているもう一体に視線を向ける。
「……シャル、ですわよね?」
『さすが! 扉開けてくれて助かったぜ。元の姿に戻っても、大丈夫かな?』
「もう、ほんと、神獣様の姿に変身するとか! 本当にあなたは怖いもの知らずですのね!」
音を殺しながらも叫ばずにはいられなかったが、怒りや呆れというものは不思議となかった。
その様子を見て驚いたのだろう、シャルが変身していた
「ごめん、できるだけ穏便に済ませたくてさ! 大丈夫か、レーチェル。つらいなら、背負ってやろうか?」
「だ、え、ちょ、なに言ってますの!? いくらシャルとはいえ殿方の背になんて……わたくしはちゃんと歩けますっ。あなたが無茶ばかりなさるから、驚いて、……もう馬鹿っ!」
大声を出すべきではない、と思いつつも、なぜか言葉も涙も止まらない。肩に乗った
記憶に馴染んだ天空独特の布地から、体温と、鼓動の響きが伝わってくる。小柄なのに案外しっかりした体格と腕だと感じた途端、レーチェルの胸に緊張とは違う動揺があふれて、全身を満たしてゆく。
「心配かけて、ごめんな。でも俺、レーチェルの味方になるって決めてるから。一緒にカミサマを起こしに行こうぜ」
「……っみ、味方とか、別にっ、戦いを起こすわけじゃないですのよ! それに、地上人であるシャルに、天龍様は会ってくださらないかも」
「それならそれでもいい。レーチェルが叩き起こすの見届けるよ」
「たたき、起こしたりは……いたしませんけどっ」
シャルは自分を抱きしめたまま、いったい何を言ってるのだろう。自分も彼の腕に収まったまま、何を口走っているのだろう。
頭が真っ白になっているわけでもないのに、久しぶりの会話が嬉しくて止まらない。地上へ降りてまだ数週間、最近ようやく彼のことがわかってきた程度だというのに、いつの間にか大切な存在になっていたのだと、改めて気づいてしまった。
この時間、この場所で、大声を出したり泣いたり喋ったりしていたらどうなるか――わかっては、いたのだが。
扉が勢いよく開いたのはレーチェルにとって完全な不意うちだった。
シャルの腕が力を増すと同時、聞き慣れた声が
「君、地上人の! こんな時間に神聖なる天空神殿に入り込んで、しかも私の婚約者に何をしている!」
レーチェルにとっては、今一番会いたくない人物だった。
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