[1-6]禍つ残火と約束の火種
崩れた石の破片で
獣らしく丸まった姿に、寝ているのか――と思った瞬間、狼が頭をあげる。ぎらつく真紅の瞳が敵意を映して輝き、いつのまにか側に来ていたフィオが恐慌をきたすまで、あっという間の出来事だった。
毛皮の代わりに炎をまとった狼は、
かれらは言わば、受信器だ。あんなふうに感情を持ち、憎悪に満ちた瞳を向けるなど、考えられないことだった。
「フィオ、どうした! 俺はここだ、しっかりしろ」
悲鳴をあげ頭を抱えて崩れ落ちた少女を、慌てて抱き起こす。うっかり普段遣いの口調が出てしまったが、訂正する状況ではないし突っ込む者もいなかった。
膨れあがる殺気、魔力、火勢を増す炎――、悪夢のような現実を視界の隅にとらえつつ、デュークは少女を抱えあげて部屋の外へと引き
腕の中で、涙に濡れた真紅の両目が絶望を映し、自分を見あげていた。
「デュークさん……、違うんです! 僕は、僕は……
「どういうことだ、フィオ。おまえ、記憶が?」
少女が、
ヴィルたち三人の様子は確かめる余裕もないが、悲鳴が遠いことからすれば、離れた場所に退避したのだろう。
フィオの異変に気を取られて気づくのは遅れたが、戦狼だったはずの誰かは、いつの間にか少年の姿になっていた。成長期特有の不安定に細い手足、火炎のように
人間だった頃も、
こんな強い憎しみを向けられたことはない。
せいぜいシャルと同じくらいの歳に見える少年は、フィオとまったく同じ
「……
それどころか、声まで一緒だとは。
炎の魔将軍ラディオルもフィオによく似ているとは思ったが。
火炎を敷きつめた中で長い赤髪を踊らせる少年は、似ているどころでなかった。同じ色、同じ容姿で、性別だけが違う。
「おまえ、何を」
「人間なんて必要ないんだ。この世界には、植物と獣と鳥だけでいい。
吠えるような叫びが意味するものを察し、体温もないのに背筋が冷えた。
こんな
「その顔、フィオと瓜二つなんだが……。おまえ、
原初の炎に触れれば力を取り戻せると聞いたとき、デュークが想像したのは渦巻く炎だった。思考と感情を持ち、人の姿を取り、おのれを
加えて、語る言葉の内容から答えは明らかだった。
腕の中、震えて縋りつく少女を強く抱きしめながら、デュークは決意を新たにし、覚悟を決めた。少年が
「僕は、ファイア。炎をつかさどる破壊の竜、この世界を創った者……だよ」
「やっぱり、か。……おまえが、あの
クォームの話、夢と呼ばれる鍵の役割、フィオと
いにしえの炎禍は創世竜によるものだった。その
であれば、眼前で憎悪を膨らませる少年は、
クォームがこの事態を予測していたとは思えない。いまだ所在不明な『黒の夢』の鍵がどこかで使われて、眠っていた破壊の
「おい、どうなってるんだ!? 話が見えないんだが……あれは味方なのか? それとも」
「……敵、だ。ヴィル、ルーナとツェイを連れて地上まで逃げろ」
背の大剣を抜き放ち声を上げるヴィルに、デュークは今わかる事実のみを返す。
元が創世竜だったとはいえ、今は残火。炎に耐性のある自分やフィオなら簡単にやられはしないだろう。しかし三人は違う。
万が一にも彼らに危害が及ぶことがあっては、取り返しがつかない。
「だが、君たちは?」
「私は大丈夫だ、あれを倒して『伝説の力』を手に入れる」
「では、せめて〈加護〉をっ!」
「心配ない、私は『炎龍の魔剣士』だからな」
飛んできたフィーサスが肩に留まり、きりりと目をつり上げた。望んで得た二つ名ではないが、この場においては都合がいい。ルーナは不安そうに瞳を揺らしたものの、素直に「はい」と引き下がってくれたからだ。
みしりと軋んだ守護
「……フィオ、あれは、言わばおまえの『半身』だ。呑み込めるか?」
「どう、でしょう……。僕が、逆に呑み込まれちゃうかもしれません」
「おまえなら、大丈夫だ。あいつには、あいつの中には何もない。燃料のない炎など、怖くないはずだ。……おまえが触れてきた、おまえの中に積みあがった想いや願いが、あんな空っぽの炎に負けるはずがない」
今さらながらフィオは、なんて重いものを背負っていたのだろう。
五百年来の憎悪と比べれば、彼女が歩んできたこれまではほんのわずかな期間だ。役目とはいえ、こんなに急がねばならないほど世界の滅びは差し迫っているのだろうか。少なくともクォームは、そんなつもりではなかっただろう。
そこまで考えてデュークは、『黒き夢』の鍵が誰かわかった気がした。
みしみし、と結界が
フィオも覚悟を決めたのだろう。赤光とともに姿が変化し、小型の火炎竜が小さな翼を広げてデュークの前に立った。
『僕、呑み込んでみせます』
「ああ、私も助力する」
張り裂けた結界から灼熱の風が吹きだし、神殿の建物がぐらりと揺れる。通路の向こうで上がった悲鳴はルーナかツェイか。
様子を見に行きたいが、今この場を離れることはできない。
せめて、一刻も早く
『
「……だな。フィーサス、おまえは元の姿になれないのか?」
『
「そんなにヤバイのか」
通路にあふれた破壊の火炎と、フィオが展開したらしい炎の壁が押し合って、互いを
悪い予感がする。
炎壁を潜り迫ってきた炎の腕を叩き切り、旋風を起こして壁の火勢を強めてから、デュークはフィーサスを見た。黒くつぶらな瞳が相棒の意図を理解しパチリと瞬く。
『
白い毛玉が
少年は驚いたのだろう、目を見開き、条件反射のように腕を振ってフィーサスを跳ね飛ばした。
『フィーサスさん!』
「大丈夫だ、フィオ。……〈
炎を
焼け焦げた大地、一面に散らばる槍や剣は折れていたり刃こぼれしていて、使えそうにない。どこかで燃えつづける戦火が空を濁らせ、地平線の彼方まで同じ景色が広がる。
ルマーレ共和国の時に豊穣神が使ったのと同じ、固有領域を作り出す魔法だ。
「やれやれ、五百年ぶりの人型で、まさか、あの時の決着をつけることになるなんてな」
「……ああ、そうか。ある意味では故郷の仇討ち、因縁の対決とも言えるな」
しなやかな女性の
火炎竜姿のフィオは驚いたように固まっている。
「悪いな、フィオ。……水を差すつもりではなかったんだが、ここなら、どれだけ思い切り暴れても神殿を壊す危険はない」
「そーそ。デュークはさ、三人の安全と神殿の保全を気にかけたんだよ。――ってことで、仕切り直しだぜ原初の炎禍! 世界の未来を決めるのはどっちか、勝負だ!」
「意気込んでいるところアレだが、おまえと私はフィオのサポートだからな?」
「わかってるって」
いきなり変えられた舞台に驚いているのは、破壊竜のほうも同じだったようだ。
少年が目を
「おまえたちなんて、魔獣が管理の
「そんなん、知るかよ。許せないんなら、
「……フィーサス、挑発するな。フィオ、覚悟は決まったか?」
言葉が通じるようになった途端、売り言葉を買おうとする戦火神をなだめながら、デュークは傍らの小さな火炎竜に尋ねかける。きらきらと輝く
『いけます。僕が、あの絶望と憎悪を呑み込みます。世界を終わらせたり、させません』
「いけいけ! 新時代の神はおまえだって思い知らせてやれ!」
「だから煽るんじゃない」
焼けきった戦場に新たな火が点る。こんな時でさえ楽しそうな戦火神に半分呆れつつ、デュークは改めて愛用の剣を抜き放ち、構えた。
この戦いには、確かに世界の命運が懸かっているのかもしれない。自分とフィーサスにとって、因縁に蹴りをつけるべき戦いなのかもしれない。しかしそれより何より、これはフィオが生き延びるための戦いなのだ。
「私とフィーサス、全力でおまえの援護をする。だから、フィオ、この試練を超えて、おまえも一緒に『約束の竜が導く世界』を見よう」
銀竜クォームから最初に話を聞いた時は、意味がわからなかった。アルテーシアが話していた『世界再生の予言』も、鍵の役割も、『約束』の意味も。
今だって全部を理解したとは言えないが、きっとそれは、魔王の脅威に怯えることなく、神々がなすべき役目を果たし、誰もが笑顔でいられる場所を見つけられる――そんな世界であるはずだ。
小さな火炎竜が、きらめく瞳でデュークを見返す。
『……はい!』
その瞳にはもう、絶望も恐怖も映ってはいない。
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