[1-3]ひらかれゆく憎悪の記憶
強く手を引かれ、長く続く坂を登っていた。吹き下ろす風は冷たくて、容赦なく体温を奪う。それでも歩みは止まらない。
「がんばって、……走って」
「いやだっ! いたい、いたいよっ」
全速力で坂を登る息苦しさと冷え切った風の痛さに、弱音が零れ落ちる。涙があふれて顔を濡らし、吹きつける風がますます鋭く肌を刺す。ぐいぐいと引っぱる手を振り払えず、駄々をこねるしかできなくて。
ふいに、歩みが止まる。
彼女の身体が一度大きく震え、ぐらりと
「かあさまっ……」
うつ伏せに倒れた身体に突き刺さる、細く磨かれた棒のようなモノ。怒号が近づいてくる。彼女は動かない。
混乱と恐怖が全身を満たし、震える身体を抱きしめながら振り返った。
怖い顔をした人間たちが各々の手に武器を持って迫ってくる。先頭に立つ怖い顔の男性は、よく知った人物だった。元キゾクと自称するだけの酔っ払い。ずっと一緒の家に住んでいたのに、父様と呼ばせてくれたことは一度だってない。
殺される。
震える心が、この先を予測する。
迫って来た男性は、
ざっと激しく吹き抜けた風と、
☆ ★ ☆
フィオは、そこで目が覚めたのだという。
「……なるほど。だから、人間を憎んでいるのかもしれない……と」
場所を移し、奥まった涼しい部屋で簡素なベッドに腰掛けたフィオが話してくれたのは、今朝見たという夢の話だった。
精霊竜であるフィオに、両親と呼べる存在はいないはずだ。クォームの話によるとフィオは、創世竜の魂を一部受け継いでいるようなので、冷静に考えればその夢は創世竜の記憶だろう。世界を創ったという規格外の存在に人と同じ子供時代があったというのも、にわかには信じ難いことだが。
唐突に目覚めたフィオは、自分――創世竜がどうなったのかを覚えていないという。
父であったはずの人と彼が率いる暴徒に母が殺され、自分自身も殺され……いや、死んでいたなら世界を創るだなんて偉業は成せないわけだから、誰かに助けられたか、自衛のため相手を焼き尽くしたか。どちらにしも、酷い体験だ。
クォームなら真相を知っているはずだけれど、戻ってこないところを見れば、セスが直面した試練とやらも中々の高難易度だったのだろうか。
精霊竜であるフィオは食物を必要としないが、食べられないわけでもないらしい。グラスに注いだレモン水を手渡してやれば、少女は震える手で受け取り一息に飲み干した。
「ありがとうございます、デュークさん。……こんな僕が、本当に力を取り戻してもいいのか、不安で。僕、世界を救うどころか……焼き滅ぼしてしまうんじゃないかって」
「そんなことはないだろう。創世竜とおまえは違う――と言っていいのかはわからないが、少なくともクォームはそんな
「はい。クォームは
少女の口から出る言葉は、いつの間にか大人びたものになっていた。違和感に気を取られて聞き流しかけた台詞を、デュークは
「……何? 創世竜が、世界を終わらせようとした?」
それは魔王戦役以前のことだろうか。今朝の夢で見た、夜空を
まさか、と否定したい気持ちが、夢の光景によって抑制される。
『
「ん? フィーサスは覚えてるのか?」
相棒はしみじみと呟き、ふよふよと飛びフィオの肩に乗って、尻尾でてしてし叩きながら少女を元気づけ始めた。今朝から、どこもかしこも違和感だらけだ。
もしやフィーサスと自分のみならず、魔王戦役以前から生きている者たちが記憶を取り戻しつつあるのか。そう思いついた途端、ふいに全てがつながった気がした。
(だから、夢なのか……?)
クォームから『五つの鍵』について聞いた時、妙な名称だと思ったのだ。クォーム自身は鍵の在処を探るためフィオの記憶を集めていると言っていたが、まさかその記憶こそが鍵の本質だとは思いもしなかったのだろう。
体感できる変化が起きている。
フィオだけでなく、世界が過去についての記憶を取り戻しつつある――デュークにはそう思えた。つまり、セスとクォームのほうはどんな形にしろ成功したのだ。その上でフィオが『原初の炎』に触れたときに何が起きるのか。予測もつかないが、フィオの予感には意味があるに違いない。
ならば、自分がしてやれることとは――?
「フィオ、ちょっと気分転換に出ないか? フィーサス、あれをやってくれ」
「え、……はい」
『
きょとんと首を傾げるフィオ、その肩で跳ねながら抗議するフィーサス。
デュークは気にせず、自分の荷物から畳まれたキャンバス生地を取りだした。ちらと目配せすれば、相棒はあきらめたようにふわふわと飛んでくる。
『
「そこは任せておけ」
フィーサスのほうへキャンバス生地をさし出せば、つぶらな瞳の下にある口が大きく開き、一瞬のうちに生地を呑み込んだ。丸く小さな身体がぐんと膨張し、平たく広がる。
フィオは目を見開いて凝視しているが、この、毛皮の
フィーサスは食べ物ならなんでも体内に取り入れることができるが、食べられないものを仕舞い込むこともできる。ただし、謎生物の体内は無限容量ではなく、呑んだ物と同程度の大きさまで膨張してしまうため、実用性には乏しい能力だった。
とはいえ、大き目のキャンバス生地を取り込んだフィーサスは今、大人一人が乗れる程度まで広がっている。この状態でも空を飛ぶことは可能であり、現にグリフォンを駆る魔将軍とはこの上で渡り合った。冗談のような本当の話だ。
「さあ、フィオ、外に出ようか」
「は、はい」
『
戸惑うフィオの手を引いて、建物の外へと連れだす。暑さのピークとなるこの時間、砂漠の街で通りに出ている人は少ない。普通の人間には過酷すぎる日差しと熱風を、涼しい屋内でやり過ごしているのだ。
確かに騎士団は驚くかもしれないが、今は
「フィオ、ちょっと失礼」
「はい……うわ、わわわ」
フィオ自身、小型の火炎竜に変身でき空も飛べるので落下の心配はしていないが、今の彼女の心境を
人間時代、体格に恵まれた剣士だった彼は、小柄な少女一人を抱きあげるくらいどうってことない。今回の飛行は戦闘目的ではないので、デュークはフィオを抱えてふかふかの背中に胡座をかいて座った。同時に、ふわりと浮き上がるのを感じる。
視線の先に、フィーサスの小さな三角耳がぴこぴこ動くのが見えて面白い。
「気分転換て、空を飛ぶんですか?」
「まあ、な。……創世竜がどうかではなく、今のおまえが、今のこの世界を、もっと見て感じるのは……悪くないと思うんだ」
「…………はい」
上手い言葉は掛けてやれない、そういうのは苦手だ。持て余すほどの炎の魔法素質を不気味がられ
創世を成した者が本気で破滅を望んだのなら、世界が滅びても不思議はないだろう。しかし、あの
大切なのは、今のフィオがどう感じ、何を望むか――ではないかと、デュークはわからないなりに思っていた。
ぐんぐんと高度が増すにつれ、視界に映る風景はより広範囲になってゆく。砂漠の街は日光が強いので、人々の肌や衣装だけでなく、建物の壁や屋根、露天商の天幕すらも鮮やかに輝いている。
近くで見ても迫力ある赤やオレンジの街並みは、上空から見ればモザイク画のように
「わぁ、すごいです! 綺麗です!」
「……ああ、思った以上に派手な街だな。オアシス都市サグエラは歴史のある街で、この街並みも四百年ほどの歴史があるらしい」
「四百年! 砂漠に都市って、きっとすごく勇気ある決断だっただろうな……!」
ふかもこ絨毯では立つのに不安定なので、デュークはフィオを抱えたままだ。腕の中で暴れることはしないが、フィオは興奮して前を後ろをきょろきょろ見回しては、楽しげに声を上げていた。少し元気になってくれたらしい。
炎禍の記憶とともに、思い出したことがある。双月の砂漠がまだ砂漠ではなかった時代、この地方に戦火神を奉ずる大きな国家があった。破壊の炎が世界を焼き尽くさんと暴れ狂った時、戦火神の住処であった神殿も王城も街並みも、デュークの故郷全てが焼き尽くされ灰と化したのだ。
草木の一つすら残らなかったこの地域は、百年ほどの間に砂漠へ呑み込まれていった。その後、オアシス湖を中心とし興った国家がサグエラ王国である。
不気味な伝承が囁かれる過酷な砂漠。ここに都市を興そうだなんて、よく考えついたものだ、と思う。人間は
異界の営みがどうかなど、
「ああ、……人間には勇気がある。希望を
忙しなく頭を動かして眼下の風景を眺めていたフィオが、動きを止めてデュークを見る。自分の台詞の
こういう時に、人間であるセスやシャルなら、もっと寄り添った言葉をかけてやれるのだろうけれど。
「五百年前の炎禍には正当な理由があったのかもしれないし、今から行く神殿遺跡で、おまえはその理由を知るかもしれない。だとしても、おまえ自身は……人間を憎んだりはしないと思うんだ。だから、おまえが創世竜の記憶に引っ張られて世界を焼き滅ぼそうとしたら、今度は、私やフィーサスがおまえを止めると約束する」
「デュークさん……!」
少女の炎色にきらめく両目に、みるみる涙の粒が盛り上がる。失言したか、とあるはずのない血の気が引く音を感じた途端、フィオががしりとデュークに縋りついて、わんわん号泣し始めた。じわじわと濡れていく服を感じながら、精霊竜も涙を流すのかと全然関係ないことが脳裏をよぎって消えてゆく。
創世竜の分身だからなんだというのだ。戦火神だって、人型になれば色気も足りぬ少女だったのだ。
子供が落ち込んでいれば慰めてやりたいし、頑張っているなら力を貸してやりたい。間違ったことをしたなら、叱って正してやるのが大人の役目ではないか。
若干余計なことを考えながらも、デュークの心は決まっていた。
しかし――今さらながら過去の自分は、こういう考えではなかったように思う。あの頃の自分が同じ事態に面しても、はたして心が動いたか疑問だ。
石のように無感動だった自分の心が変化できたのだとしたら、五百年に渡る長き放浪も案外悪くなかっただろうか。
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