[5-4]歌魔法といにしえの記憶


 九年前、前帝皇ていおうの時代。父が宰相さいしょうではなく、五聖騎士ファイブパラディン『金の鬣の獅子』を拝命していたころ。父レーダルは辺境のコリンという村に派遣され、一人の子供を連れ帰ってきた。

 黒い髪とすみれ色の目をしたほんの四、五歳の女の子は、当時まだ八歳だったセスでもわかるほど怯えきっていた。


「今日から、おまえの妹になる『リュナ』だ。セス、おまえは兄になるのだから、リュナを守ってあげなさい」


 元より、言葉少なで生真面目な父である。向けられた言葉は幼いセスの心に重く落ち、深く根ざした。

 病弱な母、仕事で忙しい父と長兄、士官学校の卒業を間近に控えた次兄となれば、セスがリュナの面倒を見るのは必然だった。やしきには使用人たちも多くいたが、リュナはセス以外の誰にも懐かなかったから。


 来たばかりのころ、リュナは臆病でよく泣く子供だった。

 学校を辞めたセスの元には家庭教師が毎日通っていたが、幼い妹を一人にはできず、セスが授業を受けている間リュナも一緒に、絵を描いたりぬいぐるみで遊んだりしていた。大人に対しては自己主張が少なく、物静かな子だったのを覚えている。

 父に言われた通り、妹を守るのは自分の役割だと思っていた。リュナもセスに対しては何でも話してくれたし、遠慮もなかったと思う。コリン村の跡地へ行きたいと言われたときも、断る選択肢はなかった。実際には危険予測が甘くて、こんなことになってしまったわけだけれど。


 どうしてリュナは、何も残っていない村の跡地へ行きたいなどと言いだしたのだろう。

 行きたい理由があると言っていた。セス自身が森の危険を甘くみていたこともあり、深く突っ込んで聞くことをしないでしまったが――ちゃんと聞いてあげればよかったと、今さらながらに思う。

 後悔から生じたは無意味だ。過去は変えられない、始まってしまったことは止められない。

 今は妹を救うため、持てる全力を尽くすだけだ。





 さっきまでの痛みが嘘のように身体が軽い。つまり、今の状態は生身じゃないのだろう。

 ゆっくり腕を上げ下げしてみて、不具合なく動くのを確認する。現実に戻ればまた痛むかもしれないが、それはそれだ。

 隣に立って辺りを見回しているイルマを確認する。丁寧に切り揃えられた銀髪、紫水晶アメジストを思わせる澄んだ両目。袖なしハイネックの黒いツナギ上下服オールインワンを着て、風除けマントを羽織っている。マントも旅人用の革ブーツも真新しく、育ちの良さは自分に相通じる気がした。

 猫のような目とスッとした目鼻立ち、背は自分より低い。最初に人型を見たときには確実に年上だと思ったが、こうして間近で観察すれば同い年か年下のようにも見える。

 ぼうっとしていた時間はわずかだったのだろう、イルマが視線をこちらに向けた。にこりと微笑む人懐っこさに、みんながイルマって呼ぶのも納得だな、と密かに思う。口には出さないが。


「……どうやら、ここは一種の亜空間らしいね。母上とリュナさんの精神世界を具象化したもの、なんだと思う。きっと近くに二人の魂があるはずだよ」

「うん、ここはコリンの村……リュナが拾われた場所みたいだ」


 一歩を踏みだせば、足裏の下で炭化した固まりが崩れた。どきりとするが、あえて思考から振り払う。ここは過去で、心象風景なのだ。セスやイルマの振る舞いが過去を変えることはありえない。

 焼け焦げたモノの原型をできるだけ想像しないようにしつつ、何歩か進むと、ふいに目の前に見慣れた後ろ姿が現れた。漆黒の髪を高い位置で一本に結び、オレンジ色のリボンを飾っている。細いうなじと肩、痩せた身体を包む生成色のブラウスとふんわりしたひだスカートは、妹が好んで着ていたものだ。


「リュナ」


 反射的に呼びかける。薄い肩がびくっと跳ねて、黒いポニーテールが揺れた。うかがうように振り返った妹の両目に涙が溜まっているのを見てしまい、セスの胸はざわつく。


「あ、……セス、あたし」


 震える声が言わんとしていることを察し、セスはすぐ腕を伸ばし妹を抱きしめた。細い身体が一瞬硬くなり、震えだす。


「リュナ、やっと見つけた」

「セス……ごめんなさい、あたし……、大変なこと、あたしのせい、で」


 嗚咽おえつとともに吐きだされる言葉の断片は、リュナがある程度この現状を認識していると示唆しさしていた。相槌だけを返しながら、セスはしばらく泣きじゃくる妹を黙って抱きしめていた。

 ふいに、ぞくりと、肌があわ立つ。

 隣のイルマが身じろぎしたのに気づき顔をあげれば、軽く石を投げて届く程度の距離に女性が立っていた。長く癖のない漆黒の髪と、黒基調の質素なドレス。容姿は見知らぬ女性だが、考えるまでもなく誰かわかる。菫色の目がじっと見つめているのは、セスというより――おそらくイルマだろう。


「母上」

「グラディス……」


 イルマとセスの声が、意図せず重なる。女性は長いドレスをさばき、瓦礫がれきを踏みしだいてこちらへ歩み寄ると、微笑みを浮かべた。


「イルマ、大きくなったわね」

「母上。……本物?」


 セスの腕に収まっていたリュナが、顔をあげる。災厄の魔女と呼ばれていた女性は、しかしその呼び名が似つかわしくないと思えるほど、優しげで穏やかな表情をしていた。

 魔王の居城でと、ついさっきと、狂気や怒りをたぎらせていた姿が嘘のように。


「あなたたちには、謝らなくてはいけない。わたしのあきらめが悪かったばかりに、ぜんぶの決着を先送りにして……運命を狂わせてしまったこと」

「え、どういうこと、ですか?」


 つい、聞き返す。クォームが何のつもりで自分たちをこの精神世界へ送り込んだのか、セスはまだ正確に把握していない。だから、こんなふうにグラディスと話ができるなんてことも、想像していなかった。隣で戸惑っているイルマもきっと同じだろう。

 彼女の言葉をそのまま受け取るなら、決着が先送りにされた――つまり、ウィルダウは五百年前に意図した結末を遂げられなかった、ということだ。辿るはずの運命が狂わせられた、しかしウィルダウに言わせればそれは「観劇するのに申し分ない」のだと。


 彼女は、グラディスは、冥海めいかい神が口にしなかった真相と真実を知っているのだろうか。

 漆黒の魔女は微笑んだまま首を傾げた。

 どこか神秘的で大人びた美しさを持つ彼女こそが、魔将軍たちが慕う魔王の妻、イルマの母親であるグラディスの本当の姿なのだろう。


「魔王様……ルウォーツ様が討たれたのは、わたしのせいなの。本当なら人の世と関わるべきではなかった『時の竜』を現世に連れだし、り方を歪めてしまったのは、わたしだったのよ」


 悲しげに囁かれた言葉を、しかしセスはすぐに理解することはできなかった。上位竜族のクォームと同じく、彼女が口にする概念もセスには理解が及ばないものだ。しかし、連想することもある。

 クォームに見せられた映像の中で白龍――月虹げっこう神が言っていた。本当なら現世に干渉することはできない、人と言葉を交わすこともできないのだ、と。魔王、つまり『時の竜』に与えられた本来の役割が『世界を支える永久時計』だったのなら、人の世と関わるべきでなかった、という彼女の言葉も理解できる気がする。


「切っ掛けがあったんだよね?」


 尋ねるべき言葉がぐるぐると脳内を巡ったが、セスはそう口にした。魔女様相手に気軽過ぎただろうかと一瞬思ったものの、グラディスは気にしていないようだ。

 セスにぴったり寄り添っていたリュナが、胸の前でぎゅっと両手を握り合わせる。

 イルマが黙ったまま、答えを待っていた。


「そう、そうなの。どこから話せばいいのかしら……五百年前、いえ、もっと昔の話。世界は一度、破滅の炎に呑み込まれて滅びのきわまで至ったことがあって。わたしはその時代に生きていた」

「破滅の、炎に……」


 ぶわっと吹き抜けたのは、熱風。炎をはらんだ風が駆け抜け、目に映る景色を灼熱しゃくねつへと塗り替える。その中心、炎をまるで翼のように広げ宙に浮かぶ少年の顔を見て、セスは息を呑んだ。今より成長した姿ではあるが、彼の顔がラディオル――あるいはフィオとそっくりだったからだ。


原初はじまり火種ほのおあり、星光きせきによりて世界は紡がれた。――なのに、創世主である原初の炎竜クリエイタードラゴンはなぜか、絶望を抱いて暴走し、誰も消せない破滅の炎が七日間ずっと燃え盛ったそうよ。その名残りが、双月の砂漠にあるという『原初の炎』」

「創世の古代叙事詩レジェンドサーガ……ですね」

「よく知っていたわね。そう、壊れた世界を再生させるために、白龍が紡いだ幾つかの歌魔法。その最終節が、『創世の古代叙事詩レジェンドサーガ』と呼ばれているみたい」


 幻で見た、白い神を思いだす。月虹神は医療と文化をつかさどる神だ。破壊された世界を歌魔法で癒すという概念がいねんは、セスにとって未知だけれどイメージできないわけでもない。

 アルテーシアも扱う歌魔法の出所が月虹神だとすれば、作者不明なのも人間には創作できないのも、納得できる気がした。


「世界は無事、再生できたんですか?」

「ええ。白龍の歌魔法、星龍の星魔法、ほかにも何柱かの神が力を合わせ、世界は再生された。生きのびた人族や亜人たちも少しずつ人口を回復していって。でも……人間族と竜族との間には大きな溝が穿うがたれていたの」


 人々の心に破壊の炎竜クリエイタードラゴンは、ただただ恐ろしい存在として刻まれたのだろう。古代叙事詩レジェンドサーガにあった通り、人が竜を憎んだ時代は確かにあったのだ。

 灼熱の幻はいつの間にか消え、広い平原へと景色が変わっていた。

 丈の高い草に埋もれるように倒れ伏す、せた少女が見える。血と泥に汚れた黒い髪を地に敷いて、赤黒く染まったローブを身にまとい、ぴくりとも動かずに。

 教えられなくても、彼女がグラディスだとわかった。


「同じころ、人間たちの間で魔法狩りが行われた。竜人と呼ばれた先天的に魔法の才能を持つ人間や、エルフをはじめとした亜人たち、当時まだ多かった下位竜族たちが、たくさん殺された。両親は身をていしてわたしを逃してくれたけど……逃げる途中で力尽きて」


 淡々と語る菫色の両目から、ひとかけらの涙がこぼれ落ちる。恐ろしい魔女だと思っていた彼女も、時代が起こした迫害の波に翻弄ほんろうされた被害者だったのだ。隣のイルマは泣きそうに顔を歪めている。彼自身もはじめて聞く母親グラディスの過去なのだろう。

 ふ、と空がかげったように感じた。

 視線が誘導される。気づけば空は闇色に染まり、銀砂に似た無数の星がちかちかときらめいていた。欠けた月を背に大きな影が、行き倒れた少女を見おろしている。


「黒銀の身体と菫色の目をした大きな生き物が、わたしを覗き込んでいた。かれも傷だらけで、もうすぐ死ぬんだろうってわかったわ。わたしも、もう、死んでもいいと思っていたから……かれと一緒なら寂しくないだろうって、思ったの」

「黒銀の、竜?」


 脳裏に浮かんだのは、ティークと一緒にいた黒銀の竜――イルマだ。当人も同じことを思ったのだろう、目を見開いてグラディスを見つめている。

 漆黒の魔女は微笑んで頷き、言葉を続けた。


「かれは、世界再生のため奇跡の魔法じぶんのいのちを使い尽くし、弱りきったところを人に狩られた星龍……星宣神せいせんしんだったわ。死期を悟ったかれはわたしに、力を預かって欲しいと言ってきて。まだ少女だったわたしはよくわからないまま、かれの悲しげな瞳に負けて『銀河ほし権能ちから』を受け取ってしまったの」

銀河ほしの、権能ちから?」

「ええ。いま思えば、かれは死にかけた子供を見殺しにできなかったのでしょう。かれが託したものは権能だけではなくって。星宣神の知識と、さっき話した破滅の経緯に関する記憶も含まれていた。人の中で生きていくのが怖かったわたしは、権能を用いて狭間への道を開き、そこで……白龍と時の竜に保護を求めたの」


 真白な空間に綿を敷き詰めたようなこの場所を、セスは覚えている。中のひと――ウィルダウと会い、約束を交わした、過去も未来もない空間……時の狭間。長い白銀の髪、翡翠の目をした若い男性が、優しげな表情でグラディスを見ていた。彼こそが討たれた魔王、ルウォーツその人なのだと知る。

 外見だけでなく、まとう雰囲気も今の魔王とよく似ている、気がした。

 彼ならば、傷つき弱り果てて助けを求めた少女の手を振り払うことなどしないだろう、とわかってしまった。


「はじめは同情だったかもしれないし、命を失った星龍の想いを無駄にしたくなかったからかもしれないけれど。彼は、理不尽に狩られる人や竜を助けたいと言ってくれた。わたしと彼の権能ちからを用いれば難しいことではなかったわ。けれど……そういう干渉は本来、時の竜に許されることではなかったの」


 呟きを落として目を伏せたグラディスの姿に、胸がしめつけられる気がした。

 

「星龍の権能ちからを持つ人間の娘は、こうして魔女になったわ。世界の柱たる時の竜は、人に敵する者――魔王に。それが、わたしたちの罪のはじまり」




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 創世の古代叙事詩レジェンドサーガは「第一ノ鍵 二十七.終末をうたう歌」に。

 神々の役割を確認するには「付録一 〈用語解説〉第一章+α」が便利です。

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