[2-3]姉を訪ねて
旧エルデ・ラオの西方には『月影の森』と呼ばれる、獣人たちが多く暮らす森林地帯がある。その面積は『妖魔の森』にも匹敵すると言われており、事実上の無国籍地域だ。
月影の森は、エルデと国境を接する「ウエストエンド三国連邦」にも
魔王城へ侵入前にシャルの話を聞いていなければ、デュークは立て直しの拠点を、まだ魔王軍の手が伸びていないウエストエンド連邦のどこかに決めたはずだ。森から海岸線を伝ってだろうと、魔王軍領である旧ルマーレ共和国へ向かうのはリスクが高い。
デュークがルマーレ行きを提案した理由が、シャルの姉の安否を確かめるためなのは明白だった。無口だし黒いおっさんとつながっているし、何を考えているのかわからないことも多いけど、やっぱりデュークはいい奴だよな、とシャルは思う。
逃亡中とはいえ、魔王軍が追手を掛けた様子はない。向こうは向こうで人手不足なのかもしれないが、だからといって油断はできなかった。道中あれこれと情報交換をしつつ三日ほどかけて、五人と三匹は旧ルマーレ共和国の首都へと辿り着いた。
途中クォームが何度かセスやアルテーシアとの交信を試みたものの、妨害があって成功しなかった。上位竜族でもウィルダウやグラディスの魔法には敵わないらしい。
神様より強いらしいのに不思議だな、というのは魔法に詳しくない者ゆえの所感だ。
そういう流れを経て、五人は今、シャルの姉が
時刻はそろそろ夕飯時かと思われる日暮れの後。エルデの街に敷かれていた夜間外出禁止令はルマーレでも同じらしい。民家から明かりや人の声が漏れ聞こえてはくるが、店舗や酒場、食堂などは早々と店仕舞いをしており、往来をゆく人の影も全く見当たらなかった。
耳をそばだてれば、巡回の兵士らしき気配は聞こえてくる。エルデの街と同じで、魔獣や妖魔が街中を
「……シャル、会ったあとの判断はおまえに任せる。外部からの来訪が迷惑になるなら、私たちについては伝えなくていい。宿を探すのは難しそうだが、どうせ人間ではない者たちばかりだ。問題ないだろう」
「
レーチェルまでが気遣うようなことを言いだしたので、シャルはほっこりした気分になった。出会って間もない頃は、セス以外を名前で呼ぼうともしなかったのに。
「うん、大丈夫、わかってるって!
猟犬たちは賢く空気が読めるので、無駄吠えなどせず、シャルの指示通り二手に分かれた。これで万が一デュークたちが場所を移動しても、後ほど合流することが可能だ。
無言で頷くデュークを確認し、シャルは
家の中に明かりが灯っているのを確認した途端、安堵で胸がいっぱいになって泣きだしたい衝動に駆られる。自覚以上に心配していたのだと今さらながら思い知った。
呼び鈴を鳴らそうとして思い直し、拳を握って静かに三度ほどノックした。
耳の良いシャルは、夜陰の静けさには人工的な音が想像以上に良く響くと知っている。万が一にも兵士たちに聞きとがめられ、姉に迷惑がかかるような事態は絶対に避けなければならない。
家の中で、人が移動する気配がした。
高鳴る胸をなだめつつ、数歩さがってじっと待つ。窓のカーテンが揺れて、中にいた人影が動いた。足音が段々と近づいてきて、玄関の鍵がガチャリと外される。
「シャル!」
勢いよく開いた扉から飛びだしてきた、エプロン姿の女性。懐かしい声と、大きく見開かれた
元気そうな様子の彼女は間違いなく――姉のアメリアだった。
「姉ちゃん……! 無事でよかったぁ」
「ごめんね。せめて手紙を送りたかったけど、許してもらえなかったの。とにかく、もう夜だし入って入って!」
「入ったら姉ちゃんに迷惑かかる、とかない?」
積もる話も聞きたいこと伝えたいこともあるが、まずはそこだ。ぐいぐいと目をこすってから、真剣みを込めてシャルは姉を見つめる。
彼女は扉にもたれて指先を口元に当て、しばらく考えてから、言った。
「大丈夫だと思う。制限は多いけど、一般市民の行動はあまり監視されないの。それより、こんな時間に外をウロウロしているほうが危ないわ」
「姉ちゃんの旦那さんは?」
「夫は……ちょっと色々あって、今、留守にしているのよ。無事だといいんだけど、あたしも会えてなくって」
悲しげに視線を落とす姿にいたたまれない気分になる。大好きな姉が困っている様子を見れば、シャルが黙っていられるはずもない。
「俺にできることなら、手伝うよ! 実は今、すげー仲間たちと一緒に来てるからさっ」
「すげー……仲間? よくわからないけど、シャルはその人たちに護衛してもらって、ハスティーからここまでやって来たのね?」
「うん、そんな感じ」
流れとしてはだいぶ違っていたが、状況はそれほどかけ離れていない気がしたので、適当な同意を返す。姉はぱちぱちと目を瞬かせ、少し考えてから、言った。
「だったら、その人たちも呼んできて? 宿はどこも閉まってたでしょ」
「うん。……姉ちゃん、でも仲間って四人もいるんだけど、大丈夫かな?」
姉を困らせたくはない。おずおずと尋ねてみれば、彼女は目を丸くしたあと、花が咲きこぼれるように微笑んだ。
「もちろんよ。……ふふ、家族や犬たちとばっかり遊んでたシャルに、四人もお友達が……良かった」
「いつの話だって!?」
「わりと最近までそうだったじゃない。ささ、早く」
「そうかな?」
昔から変わった子供だった自覚はあるが、もしかして姉に将来を心配されていたんだろうか。首を傾げつつも、シャルはしゃがんで
「クゥン」
「そ。ファーの
フンフン、と鼻を鳴らして犬は立ちあがり、夜闇が侵食しつつある路地裏へと駆けて行った。隠れている場所は遠くないし、すぐに四人もここへくるだろう。
シャルの姉は、アメリア・エバグリーンという。五歳年上だが、肩ほどまである
シャルと四人を家の中へ招き入れたアメリアは、皆が手足を洗ったり着替えをしている間に、出来合いのパイ生地と有り合わせの食材でミートパイを焼いてくれた。キッチンから漂うハーブと肉が焼ける香りに気づいたフィオは、目を輝かせてシャルを見る。
「なんか、食べたことのない料理の予感がします!」
「そう? この辺だとわりと一般的な料理かなーって思うけど! 姉ちゃんのミートパイは絶品なんだぜ」
食うのかよ、とでも言いたげな目でクォームが見ていたが、食の楽しさに目覚めたらしいフィオは気づかぬ素振りだ。
弟心としては、自慢の姉が作る得意料理をみんなに褒めてもらいたい。クォームも食べてみればいいのにと思う。
「お待たせ。男の
「うっわぁー、姉ちゃんのミートパイすっごい久しぶりだ! 嬉しい……」
「わあぁぁ美味しそう!」
フィオと手を取り合って感動しているシャルに懐かしさと慈しみのこもった眼差しを向けながら、アメリアがテーブルに人数分のホットミルクを並べ始めた。
居間へ戻ってきたデュークが、切りわけられ平皿に山と重ねられたパイを見て固まり、彼のあとから来たレーチェルが居間を覗き込んで目を丸くする。
「何日ぶりかに、野草と野生肉以外の物を口にできそうですわね。……でも、気を遣わせてしまったんじゃないかしら」
「……そうだな。私のぶんは、必要なかったんだが」
「遠慮はいいからさ! デュークもレーチェルも姉ちゃんのミートパイ食べてみろって!」
ぐだぐだ言っている二人の背中を押して居間へ押し込み、シャルはフィオの手を引いてソファに着席した。
目の前に、焼き立てのミートパイと蜂蜜入りのホットミルク。こんがり焼かれたパイの切り口から野菜と肉のフィリングが覗いていて、ハーブとソースの香りが漂ってくる。
宿の仕事で忙しい両親の代わりに姉がよく作ってくれた、懐かしい思い出料理だ。
装備を外して軽装になったデュークがシャルの向かい側に座り、フィーサスが彼の膝に着地した。その隣にレーチェルが腰を下ろす。
アメリアが、オレンジ、マンゴー、プラムを切って盛り合わせた硝子の皿をテーブルの中央に置き、シャルの隣に腰掛けた。
「どうぞ」
家主のひと声に、皆がそれぞれ皿へと手を伸ばす。レーチェルだけは、食事の前に祈りを捧げていたが。
アメリアは席についた四人と一匹を見渡し、クォームがいないのを見て不思議に思ったのだろう、首を傾げたようだった。あとで説明しないと……とは思うが、とにかく今はミートパイが先だ。シャルの胃袋が我慢の限界を訴えている。
ほんのり余熱が残るパイを指でつまみ、大きく口を開けてかぶりついた。
ざくざくと砕けるパイ生地からふわっと香るバターの香り。中のフィリングはまだ熱く、香草を効かせた
懐かしさと感動が胸に収まりきれず、涙になってこぼれそうだ。
「ううぅ、泣きそうなくらいに美味しい……」
「やだもう、シャルってば大袈裟なんだから」
「わぁ、美味しい! 甘いです!」
「そう? ふふ、気に入ってもらえてよかった! シャルは小さいときから、ミートパイが大好きでね……」
はしゃぐフィオに姉が嬉しそうな声で幼少時の思い出話を語っているが、あまり耳に入ってこなかった。夢中で食べて喉に詰まらせないよう、ほの甘いホットミルクで飲み下す。
隠れつつ移動の緊張とゆっくり眠れなかったゆえの疲労感が、腹の底からじわじわ溶かされていくように思えた。
人心地がついた、どころではない。
生き返ったようだ、とはこういう体験のことを言うに違いない。
「そういえば、姉ちゃん、旦那さんに何かあったの?」
胃袋が満たされたら満足感が安心感を連れてきて、ふんわりした眠気が襲ってきたが、気になることをシャルは忘れていなかった。
尋ねれば思った通り、アメリアの表情が悲しげに沈んでゆく。
フィーサスにミルクを飲ませていたデュークと、フォークに刺したマンゴーを上品についばんでいたレーチェルも、風向きが変わった様子を察して顔を上げる。
「ええ、実はね……」
弟の友人なら信用に足ると、アメリアは考えたのかもしれない。
よく考えればまだ互いに自己紹介も交わしていなかったが、彼女はためらわずに自分の抱えている心配事――つまり、ルマーレにおける魔王軍の方針を話しはじめたのだった。
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