第二ノ鍵・夢の子の章

a New Moon

[0]謎の美女と魔法使い


 新緑が勢いづく初夏の森は、真昼の光を浴びてきらきらと輝いている。

 ここ数日は蒼天の向こう側まで透けて見えそうなほどの快晴が続いており、順調な旅の始まりをいろどっていたはずだった。


 それなのに、どうしてこんなことに。

 息を切らして歩きにくい獣道を進みながら、イルマは、咄嗟とっさの判断だったとはいえ森に逃げ込んでしまった自分を呪っていた。


 旅に必要な一式を詰め込んだリュックは、ずしりと重い。靴底が補強された革製のブーツは旅人用の歩きやすい品とはいえ、イルマ自身が歩き慣れていないため、爪先やかかとがひどく痛んだ。

 風除けの外套マントは新品だったが、突き出た枝や伸びたつる草に引っかかってあちこちにかぎ裂きができてしまい、彼の胸を重くする。旅に出たいと言った自分のために両親が買ってくれた、大切な物なのに。

 逃げ込んだ先が名も知らぬ森だったのは失敗だったが、立ち止まるわけにもいかない。なぜなら――、


「もう、坊やってば……そんなに焦らすとお姉さんたかぶってしまうわよぉ」

「うわぁっ!? もう追いついてきた!」


 つやっぽく甘い声で呼びかけながら追いすがる美女が、すぐそこまで迫っているからだ。


「なによーぅ、そんなに怖がることないじゃない? アタシ、男の子には優しい、で通っているのだもの」

「すみませんお気持ちはありがたいのですが間に合ってますのでっ、どうか他を当たってください!」

「まぁねぇ。アタシとしてもぉ、もう少しオトナなほうが好みなのだけどぉ」


 必死で逃げるイルマに加勢するかのように、伸縮性のつる草が伸びて美女を妨害する。しかし彼女はそれをことごとくすり抜けて、ぐいぐいと距離を狭めてくるのだ。

 これでも魔導士養成学校で毎回首席を取れるくらい、魔法は得意なのに。

 詠唱を省いた簡易な魔法では足止めにもならないとイルマは悟りつつあったが、足を止めて詠唱をしている余裕などない。


「だったら、なんで追いかけてくるんですか!」

「アナタ、ずっとアタシが捜していた子なんですもの。ふふ、絶対に絶対に逃さないんだからぁ」

「えぇ! まさかのつきまといストーカー!?」


 逐一ちくいち律儀に返答していたせいか、ひどく喉が渇いてきた。リュックを放りだしマントを脱ぎ捨てて逃げればもっと距離を稼げるかもしれないが、旅人超初心者のイルマは、荷物なしでこの先どう生きていけばいいかを想像できず踏み切れない。

 汗が目に入って視界がかすみ、不快さから額を拭った途端、視力がぶれて足が滑った。あ、と思う間もなく、斜面を滑り落ちてゆく。

 小石や木の根がむき出しの腕をこすって傷つけ、イルマは言葉にならない悲鳴を上げた。


「ヤダ、ちょっと大丈夫ぅ! 待ってて、今お姉さんが助けてあげるから……!」


 放り出されるように落下した場所は小川のほとりで、樹々が途切れて狭くひらけている。涙目になりつつ身体を起こそうとするも、すり傷が痛んで思うように動けなかった。

 ざざざ、と低木や茂みを押し分けて彼女が降りてくる。自然と見あげる状態になったイルマは、その常軌じょうきいっした姿に目を見開いて絶句した。


 不思議にあざやかな光沢のある蒼色の長い髪は、ゆるくうねって地面に着きそうだ。

 肩から胸元まで大きく開いた身体の線に沿う革鎧をつけていて、たわわな胸があふれそうになっている。

 しかし下半身は、蛇、というより鱗のない魚に似た、ぬめり感のある長い尻尾なのだ。


「ひぃぃいぃっ!?」

「なによぉ。そこまで全力で怯えられると、さすがに傷ついちゃうんだけどぉ……とにかく、今、治してあげるわね」


 きらめく陽光が彼女の瞳に蒼い輝きを添えている。ぽってりした唇は紅をいたように色づいており、あでやかだ。人間なら耳のある部位から魚のヒレが突き出しているが、あれも耳なのだろうか。

 どう見ても人間とかけ離れた姿の美女は、地面にうずくまったままのイルマに近づいてきて、あやしげな微笑みを浮かべながら右手を差しだした。


 孔雀色ピーコックブルーに塗られた長い爪と綺麗な指の間に、薄い膜――水かきがあるのを見て、海洋種族の何かかもしれない、とぼんやり考えた、その時。

 ポンっと薪が爆ぜるような音とともに彼女の胸元で閃光が弾けた。


「あぁっ!? 痛ぁい!」

「キミ、下がって!」


 美女の悲鳴にかぶさって、覚えのない少年の声が響く。よくわからないままに、イルマは必死で彼女との距離を取ろうといずった。


「……アナタ、誰よ。イルマ、駄目でしょ、こっちに来て!」

「え、え、え、どうして僕の名前を」

淫魔いんまの言葉に耳を貸しちゃいけないよ。こういうのは、気を許すほどにつけ上がるからね!」


 小川の向こう岸に、人の姿が見えた。再び閃光が弾けて美女が痛々しい悲鳴をあげ、逃げるようにズリズリと退がっていく。


「淫魔、ですってぇ。……あんな低級妖魔と一緒にしないで」

「低級妖魔は皆、そう言うんだ」


 小川の飛び石を伝って渡ってきたのは、柔らかな金髪と印象的な赤い目の、魔導学院生っぽい格好をした少年だった。イルマの側に立ち、杖を振りあげて彼女を牽制けんせいする。


水棲すいせい系の妖魔には雷がよく効くのさ。キミも魔法が使えるんだろ? 一緒に畳み掛けて、退治しようよ」

「……ん、でも」


 イルマは、なぜかためらってしまう。雷の攻撃系魔法は幾つか使えるし、少年の言う通りなのもわかる。けれどイルマには、彼女が退治するべき邪悪な存在には見えなかった。

 それでも少年が杖を掲げて詠唱――おそらく中級程度の電撃系魔法――を始めたので、迷いつつ詠唱を重ねていく。これは魔導士学校で習うやり方で、詠唱を唱和することで効果を倍増させることができるのだ。

 が、魔法が完成するより先に彼女は身をひるがえした。負け惜しみも捨て台詞もなく、追跡の時のようにものすごいスピードで樹々の間に消えてゆく。


「あっ、クソ、逃げられた!」

「逃げたなら、いいよ。危ないところを助けてくれて、ありがとう」


 悔しがる少年を押しとどめ、イルマは礼を言う。言葉を切ったあとで、自己紹介もすべきだったと少し後悔した。

 学生時代から、人と会話するのは苦手分野なのだ。会話の切り出し方や、うまい受け答えがよくわからない。

 口ごもるイルマに、しかし少年は気分を害した様子もなく、にこりと笑い返す。


「いえいえー、何にせよ無事でよかった。僕は、ティーク。この森に住んでる魔法使いだよ。……キミは?」

「僕はイルマ。同じく魔法使いだけど、今は、旅人だ」


 こんな人里離れた場所に子供が一人で住んでいるのだろうか、とか、学校には通ってないんだろうか、とか、疑問が脳内で渦を巻く。……が、初対面の恩人に立ち入ったことを聞くのは失礼に思えて、つい口をつぐんでしまった。

 少年、ティークはその間に、イルマの全身が傷だらけなのを観察したのだろう。


「その傷とか服の破れとか、処置してあげるから、うちにきなよ。川向こうだけどそんなに遠くないし」

「え、……でも、迷惑じゃ」

「全然。大丈夫だよ」

「……それなら」


 口では遠慮してみたものの、イルマは内心でひどく安堵あんどしていた。

 土地勘のない場所で途方に暮れたりとか、美女とはいえ人外生物に連れ去られたりするよりは、魔法使い同士でもあるのだからティークといくほうが安心だろう。


 この選択が彼の運命をわけるものであったとして。

 少なくとも――この時は、これが最善だと思えたのだ。

 



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