三十.宙が墜ちた夜
セスは、目の前で起きていることを理解できていなかった。疑いようもない現実なのに、心が拒否したのだ。
何なら障壁の内側から飛びだし、彼女の代わりに切っ先を受けるのでも――白銀に輝く鎧はそのための物なのだから。
それらが何ひとつできなかったのは、残酷な命令をくだしたのが
魔王はといえば、エルフ騎士の殺意むき出しの行動にも動揺はしなかった。ひどく冷静に右手でアルテーシアを押しやり、一歩を踏みだして左の腕をかざす。
剣の軌道に割り込まれ驚いたのだろう、ナーダムは動きを鈍らせたが、勢いを殺しきれなかった細剣の先は魔王の肘の辺りに突き刺さった。アルテーシアが短い悲鳴を上げる。
「兄さん!」
「――魔王様!?」
「やめなさい、ナーダム。ルシアは、僕の大切な家族だ」
怒るでもなく、だが遠慮するでもなく。
魔王の言葉は彼がその役割を受け入れていることを明示していた。ナーダムが握る剣から腕を引き抜きアルテーシアを庇うように立つ魔王に、エルフの騎士は悔しげに言い募る。
「なぜですか、ルウォーツ様。貴方はまたそうやって、人間なんかのために命を捨てるつもりなのですか!?」
「そうではないよ、ナーダム。君は誤解しているけど、ルシアや彼らは別に僕を――」
穏やかに、優しい声で、言い聞かせるように語っていた魔王が、不意に言葉を止める。セスの隣でレーチェルがひゅっと息を飲んだのがわかった。
石壁の間をぬう風のような、女性のすすり泣くような、――
「……いやよ、……ゆるさない。……また、ルウさまを、わたしから……うばうの?」
壊れた窓から吸い込まれる風が、
砕けた窓ガラスが部屋の明かりを反射しながら浮きあがり、ゆっくり彼女の周りへ集まってゆく。
「グラディス、僕は大丈夫だ。ナーダムもラディオルも、誰も奪われてはいないよ。……だから、僕の話を聞いてくれないか」
「なにをいっているの、るうさま。……ねぇ、だって、あのこはもういないのだもの。あいつらが、にんげんたちが、あなたを、あのこを、わたしの――家族をッ!」
壊れた笑顔で壊れたように叫びながら、黒髪の少女は
「グラディス様、ごめんなさい! ルウォーツ様を傷つけてしまったのは僕です! この人間たちは……今すぐに排除しますから、どうか泣かないで……!」
「いいの、ありがとう、ナーダム。あなたはいつでも……わたしの罪をかぶろうとしてくれるのね? あんしんして、……ルウさまを奪おうとする者たちは、こんどこそわたしがすべて滅ぼすから」
涙を流しつづけながら
「
「
グラディスの宣告にかぶせて魔王が叫ぶ。セルフィードが動き、強い風が巻き起こってセスたちと魔王たちを分断した。
その直後、殺意を
ぐにゃりと空間が歪み、銀色の竜が部屋の中へ躍りでた。クォーム様、と落ちたレーチェルの声は涙で湿っているようだった。
「くっそう、やっと割り込めたぜ! オイ、何なんだよこれ、何が起きてんだよ!?」
「わ、わからない……俺にもっ。でもきっと、俺が、失敗してしまったんだ……!」
あざやかなブルーの目、いつも通りに雑な口調。そんなクォームの声を聞いた途端、涙腺が決壊して、あふれた涙が視界を歪めてゆく。
「説明している時間はありません! クォーム様、できるだけ遠くへ――撤退をっ」
「駄目だよ! ルシアとリュナが!」
失敗してしまったのは自分なのだから、二人を置いて逃げられるわけがない。
レーチェルとセスの相反する言葉に戸惑うように部屋の中をぐるり見回した銀竜は、手を持ちあげかけた姿勢のまま
「――見つけた」
「え、なんですの?」
「君たち!」
会話を割って、魔王の声が響く。彼は涙目で震えているアルテーシアを庇うように抱き抱えたまま、強い目でこちらを見て叫んだ。
「ルシアは必ず僕が、無事に逃して君たちのもとに帰すと約束する! だから、今は逃げなさい!」
「オーケー、頼んだぜルウォーツ!」
駄目だ、そんなの。そう言おうとしたのに、声は喉の奥に貼りついて出てこなかった。ぐわりと内側で頭をもたげる闇が、
――
ぷつりと、目に見えない何かの糸が切れた。
と同時に壁が崩れ、
レーチェルの障壁が揺らぎ、銀竜の翼が魔法発動の予備動作で銀色に輝きはじめる。
その隙をついて、セスの足元にいた仔狼が障壁の外へと駆けだした。アルテーシアが悲鳴のような叫びを上げる。
「シッポ!?」
「ふぁっ!? 駄目だ、そっち行ったら届かな――、ッ!」
黒髪の少女が
そうだとしたら、とるべき行動はただひとつ。
今度こそ、セスは迷わなかった。
魔力回復薬をつかんで栓を抜き、一息にあおって、障壁から飛びだしたシッポを追う。城の天井に亀裂が入り、
振動の恐怖に
「ウィルダウ!」
耳の奥に笑い声が響き、身体の内側を満たしてゆく。脳裏に浮かぶのは、雷光の速さで天を駆けゆく
怯える仔狼を左腕でしっかり抱え込み、右手を伸ばして光り輝くたてがみをつかむ。普通の騎馬よりも甲高いいななきが響き、白光がはじけて目が眩んだ。
クォームが、レーチェルが、アルテーシアが――自分を呼ぶ声が、遠ざかってゆく。
生きてさえいれば。
あきらめさえしなければ、必ずまた会えるはずだから。
今度は、今度こそは、絶対に絶対に失敗なんかしないように――……。
「ウィルダウよ、
遠ざかる音の中にセルフィードの声が混じる。
その言葉の意味を考える余裕もなく、セスの意識は白い闇に塗り潰されていった。
☆ ★ ☆
深夜の城下街は出歩く者もなく、静かに寝静まっている。ぬるい湿り気を帯びた夜気が肌を撫で、シャルの前髪を揺らして通り過ぎていった。
「意外……だったよなぁ」
クゥン、と鼻を鳴らして見あげてくる犬たちに話しかける。
これまで訪れた街々で聞いた話によれば、軍事国家エルデ・ラオはここ数年の間は特に政情が不安定だったという。圧政と
国民の不満が溜まり、逃亡者が増え、取り締まるために国境の警備が厳しくなり……そんな最中の陥落だったと聞いた。
だからシャルは政治に
けれど、夜だというのに路上浮浪者の姿はなく、犬たちとあちこち回って見た感じでは、病人や遺体が放り出されているということもない。住民の平穏は保たれ、不要な闘争も起きてはいないようだった。
魔王軍という響きから妖魔や魔獣の群れによる進撃を想像していたシャルだったが、これは認識を改めなくてはいけないだろう。
それに魔王軍支配下の街が平穏を保っていられるということは、姉が無事でいる可能性も高いということだ。単純に、嬉しかった。
「……セスたち、上手くやったかなぁ」
街の隅にあった店舗跡らしい建物が目立たず出入りしやすくて、落ち合う場所としては良さそうだった。念のため犬たちを見張りに立たせているが、夜間は本当に人の気配がない。
ここからでも見えるエルデ・ラオの主城――今は魔王の居城である城の
順調にいっていれば、セスたち三人は今あの中にいるはずなのだが。
――ふいに。
犬並みの聴力を持つシャルの耳が何かの響きをとらえた。さっきまで満天を埋めていた星々が、いつの間にか消えている。
「――え、なんだあれ」
夜空よりももっと上方、闇色に透ける
幻想的で綺麗な現象だな、と思ったのもつかの間。
見る見るうちにその輝きは大きさを増して近づき、狙い澄ましたかのように魔王の居城を打ち砕いた。
人智を超えた絶望に直面したとき、人のとる行動は様々だろう。
シャルは、そのどれでもなかった。
城がまるで砂糖細工のように砕け、崩れ落ちていくのを見ても、自分の仲間たちが無事であるということをまったく疑わなかった。
だから、待ち合わせ場所を離れるようなこともしなかった。
ただ、騒ぎで窓を開けたり通りに出てきた者たちもいたので、目立たないよう建物の影に隠れはしたが。
クォームに『目印』として託された銀杖は、建物の陰になる位置にしっかりと突き立ててある。交渉が決裂したとか邪魔が入ったとかで逃げださないと危険な場合に、ここへ飛ばすと彼は言ったのだ。
神様より強い彼のことだから、やると言ったら間違いなくやってくれるだろう。
そのことをまったく疑っていなかったのだ。
城を打ち砕いた流星は、もう
空間が縦に裂けるような現象が生じ、そこから
「レーチェル、顔色悪いけど大丈夫かよ! あ、魔力回復薬と治療薬ならあるけど?」
見あげたレーチェルが
苦しげな彼女がゆっくりと喉を潤している間に、デュークとフィオ、そして竜型のクォームが現れた。
向かった人数と明らかに釣り合わない。
シャルは眉を寄せ、デュークのマントを引っ張って尋ねる。
「なあ、デューク。セスとルシアは? シッポもいないし」
フィーサスはいつもの定位置にいたから問題ない。デュークが言葉を探すように視線をさまよわせ、クォームを見た。
銀竜の姿から少年の姿に戻った彼は、こちらも顔色をなくして震えているフィオの頭にそっと手を乗せ、口を開く。
「作戦は――失敗だ。オレ様の読みが甘かったんだぜ、ごめん。本当にごめん。逃げだすので精一杯だったけど誰も死んでないし、合流の手段もあるから……いったん立て直そう」
衝撃的な報告に、シャルは思わず目を
クォームでないならいったい誰が、あんな桁外れの魔法を使ったのだろうか。
それでも誰も死んでいないと彼が言うなら、信じて大丈夫なんだろうと考える。
「……そっか、お疲れさま。じゃ、一刻も早く立て直して、セスとルシアを迎えにいくって方針で、いいのかな?」
「そういうことだぜ。――それと、」
猫を思わせるブルーの双眸が細められ、クォームはゆっくりと振り返って、崩れ落ちた城の方角に視線を向けた。
「あの場所で、鍵の一つを見つけた。災厄の魔女グラディス、彼女こそが、
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