二十九.災厄の魔女
「風の魔将軍、……あなたが?」
思わず口をついてしまった言葉に、遅れて「しまった」と気づく。
セルフィードと名乗った青年が目を丸くしたのと同時に、ラディオルがベッドから跳ね起きてレーチェルを突き飛ばした。
「きゃっ!?」
「くっそーぅ、だまされた! おにーさん今ウィルダウじゃないんじゃん!」
喉元に浅い傷を負ったラディオルはセルフィードの後ろに逃げ込み、レーチェルが小さく舌打ちしてベッドから離れる。
「気を取られた隙をつかれましたわ」
「ごめん、俺が余計なことを」
「セステュ様のせいではありません。あちらが二人では……力尽くというのも難しいでしょうし」
その場の緊迫感が一気に増した――かと思いきや、セルフィードはすがりつくラディオルを撫でて、傷を
「こんな時までやんちゃするんじゃない。じっとしていてくれないと、
「あーぁ、もうっ! そーじゃなくってぇぇ! ここは『私が来たからには魔王様のもとには行かせぬ』ってタンカ切る場面だろー!?」
「興奮すると血が吹き出すぞ。しかし見えにくいな」
「当ったり前じゃん! 明かりついてないしぃ!?」
ラディオルが
アルテーシアが困惑しつつも光の精霊に呼び掛けると、白い
「うむ、おまえは魔王に似て察しの良い子だな。これで
「いえ……あの、貴方は魔王様を、わたしの兄として知っておられるのですか?」
どこからか取りだした白い四角布を傷を覆うように貼りつけてから、セルフィードはようやくこちらに目を向けた。本音の読めない笑顔を
「いかにも。魔王はよく妹君の夢をみるからね。今朝も妹君が訪ねてくる夢をみたと言うから、
口元が優しげに弧を描く。
「魔王の居城へようこそ。私が、彼の部屋までおまえたちを案内しよう」
もちろん、ラディオルは反対した。小型竜の姿になって扉の前に踏ん張ってまで、セルフィードを止めようとした。
けれど彼が頑張って行なった妨害はどれも意味をなさず、最後にはあきらめて、今はとぼとぼとセルフィードの隣を歩いている。
「しかし、残念だ。裏切り者の親友と久々に語り明かせるかと期待したのだがね」
「……なんか、すみません」
「うーむ、ウィルダウに似た顔で殊勝に謝られると、反応に困ってしまうな」
「そんなに似てるんですか」
レーチェルはいつでも魔法を展開できるように意識を張りつめているし、アルテーシアの表情も緊張のせいか固い。それでも、彼ならば大丈夫だとセスは感じていた。
それはウィルダウの感覚なのかもしれないし、彼の
「……こんな裏切り者の手引きみたいなことしてさぁ。あとでネプスジードに知られたら、どうすんのさーぁ」
「そこは私がうまく言いつくろうから、おまえは心配しなくていい。
「うえぇ、絶っっ対ぃぃに面倒なことになるに決まってるじゃん!」
ラディオルとセルフィード、二人の会話は抑えられた声量だったが、廊下にはまるで
階段を通ることなく導かれた先にあったのは、王族の私室だ。より正確に言えば、王族の私室として使われていただろう
「こんな時間ではあるが、魔王もおそらく起きているだろうよ。……どうぞ」
重そうな両開きの扉の前では本来なら衛士が寝ずの番をしているものだ。無用心なのか、それとも何か理由があるのか、セスには判断がつかないが……ともかく、セルフィードの声に応じるように扉がゆっくりと開かれてゆく。
アルテーシアが隣でこくりと息を飲み、おずおずと一歩を踏み出した。セスも遅れないよう彼女に
がらんとだだっ広い部屋には淡い暖色光がともっており、最低限の家具しかなかった。壁に飾ってあっただろう絵画や装飾武器の類は全て取り下げられており、大きな窓に厚いカーテンが引かれている。
奥のほうには上品な模様の描かれた
ベッドの前に、背の高い人物が立っている。
アルテーシアが肩を震わせ、抱えていた仔狼を床に下ろした。そして一歩一歩とそちらへ近づいてゆく。
袖と裾がゆったりした前合わせの部屋着を身にまとい、銀糸のような髪をまっすぐ流した、若い男性。背が高く、服の上からでも痩せているのがうかがえた。魔王という恐ろしげな肩書きにはあまりに不似合いな、優しげで儚げな青年だった。
「兄さん!」
声を震わせアルテーシアが呼びかける。そして、青年に走り寄った。
彼の
「ルシア。……やっぱり、たどり着いてしまったんだね」
「兄さん、わたしがわかるの? わたし、兄さんって呼んでもいいの?」
「もちろん。今は魔王ルウォーツと呼ばれているけれど、僕がディヴァスであることは変わらないよ」
敬語ではないアルテーシアは、セスにとっては未知の存在だ。心がざわつき、つい一歩二歩と後ろへさがってしまう。
出会ったばかりの自分では絶対に越えられない相手――それが唐突に目の前に現れたような気分だった。それほどまでに、魔王とアルテーシアは似ていない。
自分の中に湧きあがった感情をどうしていいかわからなくなり、セスは無意識に二人から目を逸らしてしまっていた。
心寄せる女性が目の前で、自分の知らない、だが似たところのある容姿の男性と親しげに触れ合っている。その状況に幾ばくかの嫉妬心が湧いてしまったとして、誰が責められようか。
そんなふうにこのとき考えることができれば、良かったのかもしれない。
自分の感情を素直に受け入れるにはセスの心は潔癖すぎた。だから、今すべきことから逃避してしまったのだろう。
一瞬の動揺ではあったが、運命を分ける
「セステュ様!」
直後、耳をつんざく音と共に部屋の窓が粉々に砕け、そこから影が、カーテンを引き裂いて躍り込む。
「汚らわしい人間、裏切り者どもめ、魔王様から離れろ!」
金の光を
細身の剣を携えたエルフの青年が、怒りに燃えた形相で窓の側に立っていた。
「ナーダム、おまえ、偵察飛行に行っていたのでは?」
セルフィードの声から余裕が失せている。これは、きっと、一番まずい事態だ、直感がそう警鐘を鳴らす。
「グラディス様の求めがあれば、たとえ空の果てにいようと僕は
「わかったわかった、説明するから……落ち着け、ナーダム」
「だぁかぁらぁぁ言ったじゃん! 絶対に面倒なことになるってぇぇ!」
なだめようとしてか、手を動かしながらナーダムに近づくセルフィード、もはや半泣きで彼の背中に隠れるラディオル、……余計な口出しをせず任せておけば、少しは状況がましになるだろうか。
そう思ったのに、セスは、そのまま黙って静観することができなかった。
なぜって、彼は。彼こそが。
「おまえがナーダムか。リュナを、……俺の妹を連れ去ったっていう」
「……妹?」
猫の目が、
「あの方がおまえの妹なわけないだろ! 何も知らないくせに……、いや、あんたウィルダウだっけ。なら、知ってて言ってんのかよ。だとしたら
「な、……どういう意味だ!? それより、リュナを返せ!」
セルフィードが手で顔を覆って頭を振りながらため息をつき、レーチェルが焦ったように
「返せ、だって……? その台詞そっくり返してやるよ。おまえたちこそ、返せよ! おまえたちが奪った、――あの全部を今すぐ返せ!!」
悪意、憤り、その奥に隠されていたのは、
想像もしなかった強い感情を目の当たりにしてしまい、セスは言葉を失って立ちすくむ。苦しげな表情でレーチェルが視線だけ動かし、セスに言った。
「セステュ様、これ以上は無理です。……撤退、いたしましょう?」
「でも、リュナが、それにルシアも」
「エルフの魔法力は天空人に匹敵します。あと何度耐えられるか、……っく」
苦しげに、それでも障壁を強化するレーチェルと、兄の側で立ち尽くしているアルテーシアを交互に見やる。
何かを掛け違えて、交渉できる段階を踏み越えてしまった。魔王に会うという目的は達したのだから、レーチェルの言う通りここは撤退するのが賢明なのだろう。
悔しさを噛み殺し、銀竜の名を呼ぼうとした――その時。
「やめなさい、ナーダム。あなた、ルウォーツさまのお部屋を破壊するつもりなの?」
呆れたように、困ったように、優しげに、親しげに。
セスのよく知っている声が響いてナーダムを
砕けたガラス片を不快げに踏み越え、黒いドレスの裾をさばいてこちらに歩きくるのは、長く艶やかな黒髪を背に流した人間の少女。宝石のように鮮やかな
幼さを残しつつも意志の強そうなその顔を、間違うはずもなかった。
「リュナ!?」
「グラディス様、申し訳ありません」
セスの声とナーダムの声が、同時に名を呼ぶ。それが意味する真相を悟り、セスは頭を殴られたかのように目の前が真っ暗になるのを感じた。
傍らで障壁を維持しているレーチェルが、細い声で「災厄の魔女……?」と呟くのが聞こえる。その意味は、セスにはわからない。
「……いいわ。任務の最中なのにあなたを呼び戻したのはわたしだもの。それより、どういうことなの? ネプスジードは何をしているの?」
「グラディス、君が心配するのも無理はない。でも、彼らは別に僕を害そうとして来たわけではないよ。だから……気持ちを
魔王が……ルウォーツが、静かな声でそう呼びかけた。アルテーシアはそんな兄と、絶句したままのセスを見比べ、何かを察したように目を見開く。
リュナ、あるいはグラディスが、
「ルウォーツさま、その女は誰ですか。見たところ……人間のようですけど」
「彼女は、人間だった頃の僕の身内だよ。大丈夫、ちょっと顔を見たかっただけで、すぐに帰す予定だから」
魔王であるルウォーツと違い、リュナはセスのことも一緒に暮らしていたときのことも、まったく覚えていない様子だ。
ある程度の覚悟はしていたものの、その
「魔王の言う通りだ、グラディス。貴方が心配することは何も――」
「黙れセルフィード! グラディス様、あの女こそが魔王様の半身であり、ネプスジードが言うところの元凶です」
セルフィードの台詞を
「そう。ならば今すぐ殺しなさい、ナーダム」
求めに応じ、エルフの青年が動く。
刺殺に特化した細剣の切っ先は、一切の迷いなくアルテーシアへと向けられていた。
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