十八.月下の告解
小さな町では、選べる宿も多くない。
動物同伴可であればそれ以外の項目は妥協も致し方なし、と思っていたセスたちだが、選んだ宿の食事は悪くなかった。
レーチェルだけは、大皿から取りわける料理に戸惑いを見せていたが。
男性陣と女性陣で部屋を分け、黒いほうの犬を女性部屋の護衛につかせて、今夜は早く休むことに決める。
といっても、デュークは食事が終わったあともレーチェルとしばらく話し込んでいたし、シャルは買い物か何かで飛びだしてしまったので、今は部屋にセス一人だ。
本当はセスも、デュークと一緒にレーチェルから天空連山の話を聞きたかった。
けれど、リュナのことや自分の出生についての話が無自覚にもショックだったのか、レーチェルに顔色が優れないと心配されて部屋へ帰されてしまったのだ。
確かに言われてみれば、馬車酔いに似たふらつきを感じるけれど。
とはいえ別に熱もなければ痛いところがあるわけでもない。
寝るには早いし、出かけるには少し遅い。せめて本でもあれば、身体を休めつつ時間を潰せるのに。
この宿も一般的な旅宿にならい、一階が食堂兼酒場と共同浴場で二階が宿泊部屋になっている。
暇つぶしになりそうなことを思いつけずベッドに寝転がるセスの耳に、何かの旋律が聞こえてきた。途切れ途切れで何の曲かわからないが、酒場で誰か歌っているのだろうか。
「……違う、これ、ルシアだ」
思わず口から独り言が出た。
ガラスの鈴に似た印象を持つ、透明なソプラノ。優しく語りかけるようなゆったりとした
なぜか、いてもたってもいられなくなり、飛び起きて窓を開けてみる。さっきより明瞭になった歌声が、鼓膜を震わせ胸の奥に染み込んでゆく。
外はもう日が沈んで暗く、満月に近づいた月がぼんやり辺りを照らしだしていた。どこで歌ってるんだろうと目を
「セスさん?」
「うわぁっ!?」
頭上に影が差し、かけられた呼びかけに驚いて悲鳴を上げてしまったが、それは良く知った声だった。
振りあおいだ視界に、
「ルシア、何やってるんだよ!? 危ないよ!」
「あ、ここ、屋根が平らなんです! 廊下の突き当たりに非常階段があって、そこから出られました」
それだけ言ってアルテーシアの頭は引っ込んだ。今のはどういう意味だろう、とセスは考える。
住居の造りには地域差があり、この地方では様々な用途に利用できるよう、平屋根の周囲に低い
何か、自分の内側から急き立てられるような気分で部屋着のシワを叩き、もつれた髪を手ぐしでなでつける。
今の季節ならこの時間でも、羽織るものはいらないだろう。屋上なら、別に剣も必要ないだろうし。
靴を履いて部屋から出たところで、ぐわっと湧きあがってきた不安に思わず足が止まる。
そもそも、あれは誘いの言葉だった……のだろうか。
もしかして彼女は一人の時間を過ごしたいのかもしれないし、そこへ自分が行って邪魔をしてしまったら、嫌われてしまうのでは。
いや、でも、来て欲しくないならわざわざ登り方を教えてくれるはずもない。
誘われたかはともかく――行って嫌われることはない、と思いたい。そう脳内で無理やり理屈づけをすると、セスはそれ以上考えるのをやめ心を無にして廊下を突き進んだ。
行き止まりの階段を無心で登れば、広く取られた踊り場があり、丸くくり抜かれた天井穴と、掛けられている太い
アルテーシアの表情が曇ったら即引き返そう、と決意し、セスは思いきって梯子に手足をかけ勢いよく屋根へと顔を出した。
「がうっ」
「わっ!?」
途端に飛びついてきた小さい
「シッポ! 危ないでしょう!」
「きゅぅん」
「セスさん大丈夫ですか!? ごめんなさい、わたしから誘っておきながら……」
心臓に悪い思いをしたものの、
「大丈夫、それにハシゴの下は広くなってるから、踏み外しても大したことないよ」
「……はい、そう言っていただけると、気持ちが楽になります」
良く晴れた空に、いびつな丸をえがく月。その淡い光を受けて、アルテーシアが微笑んでいるのがわかる。
彼女の部屋着はウェストを絞らないワンピースで、薄いショールを羽織っていた。
いつもはロングブーツに隠されている素足が今はさらされており、サンダルの隙間から裸足の指先が見えている。その爪に割れた痕を見つけてしまい、見てはいけないものを見てしまった気分でつい、視線をそらす。
「ルシア、さっき、歌ってたよね」
気分ごと
「……はい、聞こえてましたか。セスさん、耳がいいですね」
「俺はシャルほどじゃないよ。たぶん、ルシアの声だから聞こえたんだと思う」
不自然に、沈黙が降りた。何か変なこと言ったかな、とうかがい見れば、彼女は白い肌をほんのり朱に染めて、うつむいていた。
綺麗な曲線をえがくその横顔を眺めていると、胸の奥がざわついてくる。妹に感じていた微笑ましい気持ちとも、レーチェルの美しさに感じた驚きとも違う、揺さぶられ波だつような感情。
気づけば無言のまま彼女を見つめていて、不自然さが気になったのか振り向いたアルテーシアとばっちり目が合ってしまい、セスは慌てた。
「……あの」
「あ、んーと。ルシアが、横顔綺麗だなって」
大きな目をさらに見開いて、頬を染め、アルテーシアが息を飲む。セスも遅れて自分の台詞を自覚し、恥ずかしさに息が止まりそうになって、わたわたと意味なく手を動かした。
「わわわ、えぇっとッ、これはっ」
「セスさん、
「えぇ!?」
セルフフォローもできずにジタバタと慌てていたら、アルテーシアは「もうっ」と呟いて持っていた
渡された
「ごめん、ルシア」
「……怒ってないです」
「それなら、よかった、んだけど。……ごめん」
せっかくの月夜が変な空気で台なしだ。俺の馬鹿、と自分を
しばらくそうやって
「もう。セスさんって、兄さんとそっくりなのに、全然ちがってて、わたし、困ってしまいます」
「……ルシアのお兄さんって、どんな人なの?」
「兄は、優しいけど隙のない人ですね。双子なのに、全然似てなくって」
「性別が違う双子の場合は、そういうこともあるって聞くけど」
呼吸できる空気が戻ってきて、セスはほっと
「……本当は、わたし。この世に生まれてきてはいけなかったんです」
一瞬、なんと答えればいいかわからずセスは息を詰める。それを察したのだろう、アルテーシアが視線を傾けてふふっと笑った。
「すみません、変なこと言ってしまって」
「そんな。……ルシアにそういう神託が、あったの?」
一瞬だけこぼれ落ちた本当の言葉を聞き流してはいけないと、直感が告げている。セスがリュナのことでショックを受けたのと同じく、いや、きっとそれ以上に、アルテーシアだって傷ついたはず。
自分のせいだと口に出すのは、きっとそういうことを過去に言われたからだ。
アルテーシアは少しの時間、沈黙し、それからゆっくり視線をうつむけた。抱きしめていたシッポをそっと屋上の床に下ろし、空になった両手で自分の胸を押さえる。
「
「前に言ってた、世界再生の予言……のこと?」
はい、とうなずくアルテーシアの瞳に、夜光が差しこみきらめいた。泣いてるのかなと一瞬思うが、彼女の声は震えておらず呼吸もしっかりとしている。
言葉を探すような少しの沈黙ののち、彼女は再び口を開いた。
「兄は産まれる前から救世者という神託を受けていました。神官たちも
彼女の言葉が意味するところを理解し、セスの胸にもやもやとした感情が湧きあがったが、それをどう言葉にすれば良いのか、そもそも言葉をかけていいかもわからない。
アルテーシアも、返答は期待していないのだろう。淡々と、語り続ける。
「わたしが……兄さんの命の半分と魔力の幾らかをもらって、一緒に産まれてしまって。兄は救世者として不完全だという神託がくだり、神殿長は母にわたしを殺すようにと命じました。そうすれば、わたしのぶんは兄へ還り、完全な救世者となるだろうって」
聞くだけで、胸が痛くなる。
肩を震わせ目を伏せるアルテーシアに、触れたいとセスは思った。でも、指先は固まったように動かせず。
「母一人だったら、
「そう、だったんだ」
かろうじて、その一言だけを返す。
彼女の父が実父ではないと、言外に彼女は語っていた。
神殿というのは特殊な共同体で、そこに住む者たちに一般的な家族単位の概念はないらしい。それだけに、彼女の母がどれだけつらい立場に置かれたか……きっと想像を絶する苦悩だったに違いない。
アルテーシアの家に行く話が出たとき、彼女が難色を示した理由をセスは理解した。昼に聞いた話と合わせれば、それは
騎士団に所属するセスに彼女の両親と顔を合わせる資格などないし、二人が置いてきたはずの過去は、形を変えて今もアルテーシアを苦しめている。胸をえぐられるようだった。
いびつな月が降らせる白い光の中で、月色の少女は誰かへの告解のように、ひそやかにささやく。
「兄さんは……不完全だったから、魔将軍の器にされてしまったんです。だから、わたしが、消えれば……きっと」
「――違う!」
自分でも驚くほどの声で、セスはアルテーシアの言葉を
ふわり香った甘い匂いと、夜気に冷えた滑らかな肌、そして――自分の胸に感じた柔らかなぬくもりと。
それを自覚した途端、全身が緊張してしまい、今度は指一本動かせなくなってしまう。
腕に感じる震えは、彼女のものなのか……自分のものなのか。
胸に感じる速い鼓動は、彼女のものなのか……自分のものなのか。
セスにはもうわからなかった。
それでも、それが。
この温度と鼓動が、確かな命の証拠なのなら。
「ルシアはここにいるよ。温かいし、ドキドキしてて、生きてるってわかるよ。俺は、ルシアに死なないでほしい」
腕の中で、少女の肩が大きく震えた。うぐ、と押し殺すような声を漏らし、アルテーシアがセスの胸へ頭を押しつける。くぐもった
彼女はずっと、兄が
なぜ彼女がこんなものを負わされなくてはいけないのか。理不尽さを思い、胸に炎のような怒りがともる。
守りたい、と強く思った。
彼女の養父も、そんなふうに思い、すべてを捨てて巫女姫を連れだしたのだろうか。
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