第27話

 その日も俺は、仕事のない時間を見つけては遊歩道を繋ぐ橋の欄干に手をかけ、飽きるまでドブ臭い匂いを嗅ぎながら蘇った渋谷川を眺めた。粉雪が飛び散る冬の日も例外ではなかった。それが最近の日課になりつつあった。


「先生、何してるんですか」

 後ろから声をかける人間がいた。振り返ると、ドバイの支店に行ったはずの某広告代理店勤務の高橋さんがにっこりと笑いながら立っていた。意外なゲストの登場に、思わず叫びそうになった。

「ご無沙汰しております」

 消えてしまうんじゃないかと思うくらい、ますます目を細めて高橋さんは笑った。心なしか、顔色が少しだけ日に焼けている気がした。

「いやぁ、日本が恋しくなって、帰ってきましたよ。やっぱりこっちのラーメンは最高だ」

 俺の左手そばに陣取りながら、さも感慨深げにため息をつく。

「こっちの方もね」

 右手の小指を立てて俺の顔前に突き出すと、彼はニッと笑った。かつては少なからず苦手だった軽薄な雰囲気が、今は懐かしい。

「ああ、もうできたんだ」

 高橋さんは目前に流れる渋谷川を愛おしそうな表情で眺めた。その様子を俺は意外に感じつつも観察することにした。彼もこんな表情をするのか。

「ここの再開発に関するPR事業をね、以前の部署で担当したことがあったんですよ。クライアントに何度もヒアリングして。壁泉とかなんとか、専門用語が多くてよく分からなくて、もう隙あらば広報の人を捕まえては聞いて聞きまくって。難しかったなぁ」

 独り言のように呟くと、高橋さんは参ったとばかりに頭をポリポリ掻いた。

「壁泉って?」

 聞き慣れない日本語の意味を訊ねた。

「あそこ」

 高橋さんがずんぐりした指で差した方向を見る。言われて初めて気が付いたのだが、川の両岸から水が放出されているのがわかった。

「以前、渋谷川には下水道代わりと言わんばかりに汚水を垂れ流していたんです。暗渠を取っ払う時に、そのままでは衛生面でまずいから特殊な技術で浄水して、ああして放流してるんです。それを壁泉と言うんですね」

 ここぞとばかりに知識を披露した後、彼は鼻から息を勢いよく吹き出し「どうだ」とドヤ顔をお見舞いした。俺は素直に彼のレクチャーを凄いと思い、おお、と感嘆した。


「あれからずいぶん時間が経ったけど、本当に復活したんだなぁ」

 高橋さんが欄干にもたれかかる。再び感慨深そうに眺める。

「先生、『春の小川』って知ってます? ここがモデルになった唱歌」

「知ってます。日本の知り合いが教えてくれました」

 腹の中心部が少しだけ、ひくっとなるのを感じた。

「そうでしたか。僕は子供の頃、あの歌に出てくる小川が東京の、しかも渋谷にあるってことが、どうしても信じられなかったんです。だって、見えないでしょ。あまりに陽気な歌詞のイメージと違いすぎる」

 一呼吸置いて、高橋さんは続ける。

「僕が覚えているのは、東急東横線の旧ホームから覗く、渋谷川の姿だけなんです。心細げで、頼りなくて、誰にも見向きもされない」

 風がざぁっと吹いて、粉雪が顔にぶつかる。

「だけど僕らがあの歌を歌う時、少しだけ、かつてのあるべき姿だった渋谷川に想いを馳せるんです。きっと、そのために誰かがこの歌を作ったんだ、と僕は思います」

 渋谷川は粉雪を飲み込みながら、俺たちの下をさらさら流れ続ける。

「どんなものも、覚えていてくれる人がいる限り、この世から完全に消えることはない。僕はそう思います」

 高橋さんの言葉を聞きながら、窓のそばで歌う母親の姿を思い出した。

 俺はコートのポケットからタバコを取り出して口に咥えた。すぐにここは禁煙だったと思い出し、それをくしゃっと丸めてポケットに突っ込んだ。

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