第5話 退院
「今までお世話になりました」
「次は定期健診ね。本当、退院おめでとう」
「ありがとうございます」
必死でニコニコとした表情を顔に貼り付ける。本当は不安でどうしようもないくらい怖くて、このまま家に帰って大丈夫なのかな、と思う。
だけど、お母さんもお医者さんも看護師さんも、みんなみんな笑顔だから私もそれに必死で合わせた。
(退院、しちゃった)
脳波も異常はないし、感覚も正常、リハビリも頑張ったかいあって日常生活を問題なくできる、と判断されたくらいにはきちんとできるようになったらしい。……あまり実感はわかないけど。
でも、今までこれを望んでいたはずなのに、早く元気になろうと頑張っていたはずなのに、いざ退院になるとなると急に感じたことのない黒いモヤモヤが胸の中でぐるぐると渦巻いていた。
(気持ち悪い)
そう思っても、みんなに言うことができずに、ますますそのモヤモヤは大きくなっていく。
(みんな、こんなモヤモヤを持ちながら過ごしているのかな)
私だけなのかな。それともみんな何かしらを持っているのかな。みんなの心が見えないからわからない。
お母さんもお医者さんも看護師さんも、こうやって顔は笑いながらも、心は私みたいに黒い何かを持っているのだろうか。
(そうだったらいいな。そうであってほしいな)
そんなこと思っちゃいけないとは思うけど、でも私だけがこんなに苦しくてつらいのはズルいと思った。自分ばっかり苦しくてつらいのは嫌だった。
(でも、そういう気持ちは出さないようにしないと。大人だもんね、私)
そう自分にたくさん言い聞かせて、自分で自分を納得させる。そうやって分別をつけるのが大人だと、何かの本で読んだ気がする。
(私は大人、私は大人、私は大人)
暗示のように言い聞かせる。そうやって自分を保つのが精一杯だった。
「ここが新しいおうち」
「ここが、私達のおうち?」
前の一軒家からマンションに変わった新しい我が家。それがちょっと寂しくて、あぁ、やっぱりあの時過ごした家には帰れないのか、と実感して、また心の中の黒いモヤが大きくなった。
(あの家はきっと、パパの新しい家族のおうちなのか)
そう考えると胸がギュッと苦しくなる。私の居場所を取られちゃったようで、何かが胸の奥からせり上がってくるような気持ち悪さを感じた。
「中も見てみてちょうだい」
「うん」
お母さんに促されて部屋の中に入ってみる。そこには私が以前好きだったキャラクターのぬいぐるみがいっぱいあった。
「どうしたの、これ!」
「麻衣が好きだったから驚かせようと思って。最近またブームが来ててね、この前UFOキャッチャーが得意っていう人に取ってもらったの」
とても大きなぬいぐるみ。当時はそんなものなかった気がする。というか、私が寝ている間に変わったものはたくさんあった。
スマホ、ゲーム、ファッション、SNS……
本当にびっくりするくらい技術が進んでて、まるで未来にタイムリープしたようだった。お母さんが少しでも「今」を知ってほしいと渡してくれた雑誌には私の知識にはないものが詰まっていた。
「ありがとう、お母さん」
「どういたしまして。あ、今日は何食べようか?麻衣の退院祝いしないとね!食べたいものある?」
ずっと病院食だった私は、久々にお母さんのご飯が食べられる!とワクワクした。
「んー、お母さんのオムライス!」
「え、オムライスでいいの?」
「うん、久しぶりに食べたいな」
「ふふ、わかった。じゃあ卵買ってこなくちゃ!ちょっと買い物行ってくるから待っててね」
「わかった」
お母さんはお財布だけ持って家を出てしまうと、当たり前だけど急に静かになってしまう部屋にちょっと不安を感じる。
「……ここが、私の住む場所」
ギュッと大きなキャラクターのぬいぐるみを抱きしめる。耳を澄ますと、遠くから車の音や鳥の鳴き声、電車の音などが聞こえる。
(まだすぐには慣れないけど、でもきっと慣れる。ううん、慣れなきゃ)
その日はお母さん特製のオムライスをいっぱい食べて、狭いお風呂にお母さんと一緒に入って、お母さんと一緒の布団で手を繋いで寝た。
不安だった気持ちがちょっとだけ和らいだ気がして、お母さんと一緒にいられることが嬉しくて、私は静かに寝ながら泣いた。
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