[12]


 アーケードの入口の近くで、わたしたちは車を降りた。夕闇はすでに深く、アーケードは光のトンネルとなって人々を吸い込み、吐き出している。常陸さんは「そんじゃな」と、文字面だけを切り取れば気楽に見える挨拶を残して、去って行った。


「常陸君も、相当堪えているようだね」


 宗像さんの言葉に、わたしは黙って頷いた。

 子供が罪を犯す。それを必死に庇う父親がいる。そんなことを望んでいる大人はいないということ。わたしが殺人者と知ったら、常陸さんは何を思うだろう。そしてすでにそれを知っている宗像さんは、何を思っているのだろう。

 そのまま、宗像さんと二人並んでアーケードに入った。時間的に顔見知りがいるとも思えないし、別にいたところで、もう構いはしなかった。


「わたし、宗像さんに会う日まで、アーケードには入らないようにしていたんです」


「へえ……それはまたなぜだい?」


「赤の他人を見るのが、嫌いでした。今でも、好いているというわけではありませんが」


 自分とは無関係の誰か。他人から見て無意味な自分。そんな自分の存在を、否応なく突きつけられるから。

 ……余計な感傷に浸っている。よくない傾向だ。歯止めを忘れてはならない。

 その後は、黙って歩いた。宗像さんに歩幅を合わせさせることのないように、大きく、早い一歩で。



 通い慣れたはずのモノトーンの世界は、どこか寒々しい、初めて入る部屋のような、そんな空気の匂いがした。時計の針は、もう七時を回っている。


「お茶、淹れますね」


 そう言い置いて、早足に衝立の向こうに入った。このまま帰るのは、どこか忍びなかった。

 電気ケトルの水を入れ直し、コンセントに挿す。カップを二つ。紅茶のティーバッグは選択できるように、各種類お盆に乗せる。

 わたしも今は、緑茶よりも紅茶を飲みたかった。というより、あのティーバッグから赤銅色が溶け出すさまを、見つめていたかった。

 あっという間に、沸騰を告げる電子音が鳴る。

 ふわふわとした気持ちのまま、わたしはお盆を持って衝立から出た。

 宗像さんはいつものように、黙って天井を仰いでいた。



 湯気の立つカップに、ティーバッグをゆっくりと入れる。

 四角形のそれは、お湯を吸い込みながら沈み、薄暗い血のような液体をゆっくりと吐き出していく。この色だけが紅茶の存在意義だと、わたしは本気で思っていた。


「時間ももう遅い。この紅茶一杯分で、今日はお開きにしよう」


 宗像さんの言葉に、黙って頷く。

 何か話すべきことがあった気がする。気になっていたことがあった気がする。だからこそ、わたしはまだ、ここにいる。そのはずだ。そんな思いと裏腹に、わたしの口先から出たのは、ただ相手に甘えたいだけの一言だった。


「この事件は、解決すべきだったのでしょうか?」


 真相が明るみに出れば、父親も娘も、共に救われることはない。

 もしわたしたちが介入しなければ、遠くない未来、空木修右は正式に、殺人容疑での逮捕となっただろう。そうなれば、無罪になろうと有罪になろうと、彼のもう一人の娘は救われた。そちらの方が、むしろ望まれる結末だったのではないか。


「……以前にも、そんな話を真名君としたね。真相は、明かされるべきか否か。

 確かに、今回の事件は後味のいいものじゃない。小学五年生の殺人者、それを庇う父親。解明された結果起こる喧騒は、もしかしたら解決しなかった時よりも激しいものになるかもしれない。

 それでも、僕の意見は変わらない。

 あらゆる事件は、解決されるべきだ。それがどういった結末に繋がることになろうとも」


 宗像さんはそう言い、いつものように柔らかく微笑んだ。


『あらゆる事件は、解決されるべきだ』


 その言葉を、わたしは聞きたいだけだった。それだけのために、『この事件は、解決すべきだったのでしょうか?』などと口にした。わたしが解き明かした事件も、わたしが犯した殺人事件も、すべてが含まれている、殺人者を見抜くこの人の甘い言葉。

 わたしは、その言葉に、その〈力〉に、救われた。救われている。救われたい。

 自分の愚かしさに、唇を強く噛む。望む言葉をもらうだけの、何の力もない子供。この場の自分はそれ以外の何者でもなかった。……すぐに帰るべきだった。こんなことになるくらいなら。


 ……わたし「は」?


 自己嫌悪の沼の、その泥濘の只中で、唐突に、鍵穴が見つかった。慌ててそれに手を伸ばす。わたしを立ち返らせた、わたしの思考。


 わたしは、その言葉に、その〈力〉に、救われた。救われている。救われたい。


 探偵。殺人者の判別。採用試験。元相棒さん。『償いの時』。宗像さんの〈力〉。白良さんの追及。常陸さんの助言。殺人者である、わたし。

 フラッシュバックは現実の時間で言えば数秒で、しかし、わたしのそれまでの人生で最も深い、追憶の旅だった。

 あの時感じた違和感の正体、零れ落ちた鍵。それは思い当たって見ればひどく単純で、簡単なことだった。

 目を閉じる。息を吸う。息を吐く。目を……開ける。


「警察本部で白良さんに、ここで働く目的を訊かれました」


 唐突に切り替わった話題に、宗像さんは目を瞬かせた。わたしはわたしで、自分が先生に告げ口する小学生のように思えて、奇妙な笑いが出そうになるのを抑えていた。


「……ああ、確かに、入った時に妙な空気だとは思ったけれど、そんなことがあったのか。すまなかったね。あの人のことだ。遠慮会釈もなかったろう?」


「ええ。そこで思いました。目的を間違われるというのは、挑発であっても、腹が立つものですね。ですので、先に謝っておきます。腹を立てさせることになったら、すみません」

 許してもらう気もなくこうべを垂れる。そもそも、間違っているとは、到底思えなかったから。

 困惑の色を瞳に浮かべる宗像さんに、わたしは、言った。


「宗像さんは、元相棒さんを、自分の手で殺したと思っているんですね」

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